【短編】世紀末ホテルでコーヒーを

代々木夜々一

もうすぐ世界は終わるが……

 朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました」と言う。


 七日か。これまた極端な説を言う。NASAが発表した地球壊滅までの年数は、九年だ。


「私の会社が独自で計算した最新情報を、これから皆様にお伝えします」


 うさん臭い声が聞こえたと思ったら、キャスターの横にCMでよく見たやつがいる。自動車メーカーのCEOだ。あの会社は宇宙旅行も手がけている。脱出用のロケットでも売るつもりか。


 NASAの予測は違うと言い張る自称専門家は後を絶たない。残りのタイムリミットは百年というやつもいれば、一ヶ月と主張するやつもいる。ついに七日って説がでてきたのか。


 しかし、このCEOの七日説が嘘っぱちなのは明白。NASAの最終予測が正しい。それはこの四年間、幾度となく検証されてきた。そしてまだ九年ある。それだけあると、悲しいかな働かざるを得ない。


 俺はTVを消し、ダラス空港へ向かうために大きなスーツケースを持って家を出た。


 塗装する気も失せるような、あちこち錆びついたシボレーの安物車で空港まで向かう。目的地は日本だ。日本のホテルを調査しに行く。俺はNSAの職員だ。


 NSA(国家安全保障局)なんて物が、まだ存在しているのかと驚く人も多いだろう。それを言い出せば、くそったれなアメリカ政府だって残っているし、輪をかけてくそったれなNTA(アメリカ国税局)だって残っている。


「ベストワン・クルーズ、おすすめの船旅はこちら!」


 カーラジオからクルーズ船のCMが流れてきた。腹が立ったので消す。


 残りの人生は限られているのに、おれはいまだにNSA(国家安全保障局)の職員をやっている。なぜかといえば、他にやることがないから。


 一緒に過ごしたいロマンティックな相手もおらず、おまけに金が無い。家族がいれば、また違うのかもしれない。だがすでに他界している。


 アメリカ人の父親と日本人の母親がいたが、子供のころに親父は女と出ていき、残った母親はなんとか息子を育てた。だが、労働と子育てに身をすり減らした母親は、やがて酒にはまり、次にドラッグにまみれて死んだ。まあ、よくある話だ。


 アメリカに住み続ける権利と、それほど多くはないが大学費用の借金を解決する方法として国家安全保障局への就職は正解だった。


 普段はデスクワークなのだが、慢性的な人手不足のせいで今回は自分が借り出される羽目になった。見た目が日本人である点と、日本語が喋れるという理由で。


 しかし日本には住んだことも、行ったこともない。そもそも、こういう国外調査はCIAがやるべきだろう、という怒りもある。


 腹を立てながら空港に着き、チェックインカウンターに向かった。面倒な出国手続きを済ませる。


 やっと飛行機に乗ると、腹立たしさは少し薄れた。ファーストクラスだったからだ。仕事でもない限り、エコノミーより上のクラスには縁がない。


 だが無料のバーボンをしこたま飲み、眠りから覚めたおれは、忘れていた現象に愕然とした。アメリカから日本の空路は日付変更線をまたぐ。日付が一日進んでいた。


 あと九年しかないんだ。貴重な一日を返してくれ。おれは腹を立てながら、生まれて初めての日本、成田空港に降り立った。




 地球滅亡まで、あと九年。


 成田空港内のタクシー乗り場からタクシーに乗った。


 車窓から見ると噂どおり、日本の町並みは綺麗だ。


「日本人は震災が起きても、きちんとトイレすら並ぶ」


 これは昔から言われるジョークだが、本当かもしれない。


 四年前、地球壊滅の発表から世界は荒れた。それからの三年を世間では「暗黒の三年間」と呼ぶ。


 暗黒の三年を過ぎた今、こうも町並みが荒廃していないのは日本とニュージーランドぐらいだと言われていた。また、日本の人々が助け合った美談や逸話も多い。


 その中でも、伝説的に語られるホテルがあった。それが今まさに向かっている「ツバキ・ホテル」なのだが、今ではすっかりこう呼ばれている。


「世紀末ホテル」と。


 なぜ、世紀末ホテルと呼ばれるようになったか。それは「NASA最終予測」が発表されて現在までの四年間、一度も休業することなくホテルは開いているのだ。


 この話が去年あたりから世界に広まり、東京郊外にある無名ホテルは一躍注目されるようになった。


 今では「世界で最も予約が取りにくいホテル」のベスト10に入っている。


 ところが、有名になれば要らぬ注意を引くのが世の常。「暗黒の三年間」をどう生き抜いたのか、情報機関のお偉方が気にしている。


 何か強大な後ろ盾があるのではないか。ロシア外交官の姿や、怪しげなコロンビア人が泊まっていたなどの情報も入っている。


 まあ、おれの意見を言わせてもらえば、


「どうでもいい」


 というのが、正直なところだ。ホテルの運営にどこかの国組織が絡もうが、麻薬マフィアでも絡もうが。


 とりあえず調べて、あとは飲んだくれてれば調査完了だろう。チェック・インが済んだら、ひとまずバーに行くか。


 ホテルのバーが唯一、街場のバーより優れている点。それは昼間っから開いているところだ。


 日本のウイスキーは口に合わないので、久しぶりにジン・トニックを飲むか。そんな他愛の無いことを考えていたら、例の


「世紀末ホテル」


 に着いた。


 タクシーが止まると同時にベル・ボーイが素早くやってきて、扉を開ける。


「オ客様、オ荷物、運ビシマスカ?」


 少し外人訛りのある日本語だ。


「ああ、トランクケースが二つ・・・・・・」


 答えながらベルボーイの顔を見て、凍りついた。嘘だろう、こいつはイザット・アルジャヒムじゃないか!


 本名はイザット・アルジャヒム・サミーラなんちゃら。


 イスラム系の長い名前なのだが、数年前まで中東で暗躍したアルカイダ系組織「カルバラ」の主要メンバーだ。何度か画像を見たので間違いない。


 あわてて車から出た。足早にチェックイン・カウンターへ向かい、名前を告げる。


「岡本太郎で予約した者だが」

「少々お待ちくださいませ」


 受付の女性がキーボードを打つ。


「申し訳ございません。そのお名前では、ご予約が無いようですが」


 なに? 指示書には岡本太郎という名前だったはずだ。


 背後に人の気配がする。おれの荷物を持ったベルボーイ。つまり、イザット・アルジャヒムが背後に立っている。


 まさか、と思ったが時間をかけたくない。


「沖田の名前では? 沖田克己」


 受付の女はいぶかしげな顔をしながら、キーボードを叩く。


「沖田克己様、本日より一週間でございますね」


 嘘だろう。だれだ、本名で予約を取りやがったのは!


「お客様?」

「ああ、予約してくれた事務員は自分の名前で予約したと言っていたので、失礼」


 おれは精一杯の作り笑顔を向け、悲鳴を上げて逃げ出したい気持ちを抑えた。


「ご記入をお願いいたします」


 宿泊者カードを出されたが、頭は真っ白だ。NSAの指示書にあった仮の住所が思い出せない。


 日本の住所で覚えている物。あった。最近の仕事だ。ロシアから賄賂を受けた疑いのある日本の財務省事務次官の住所。最後の番地は適当だが、なんとか書く。


「バーに行くから荷物は上へ」


 受付の女からホテルの説明を遮り、キーをもぎ取ってカウンターを背にした。柱の案内板を見る。「バーに行く」と言ったのだから、バーに行くべきだろう。


 エレベーターで三階に行く。「ラ・メール」という、やや古臭い名前のバーだった。テーブル席が八席と、カウンターが十席のラウンジ・バーだ。


 古めかしい名前よろしく、カウンターや壁の色も深い木目調をしている。


「いらっしゃいませ。ご旅行でございますか」


 カウンターに座ると、バーテンダーが笑顔で挨拶をしてきた。


 話には聞いていたが、日本の店員マナーは最高だ。最高だが、今は会話を楽しむ気分ではない。


「ジン・トニックを」


 素早く注文した。


 さきほどのチェックインを思い返す。大失敗だ。本名で潜入するエージェントなどいない。


 いや待て。本名でチェックインしたが、偽名会社の領収書をもらえばいい。


 間違えて予約を取ったやつを帰国後に殴りたいが、本名で潜入したと報告すれば、マイナス評価になる。ここは何もなかったふうに流すか。


 さきほど多少の焦った様子を見せたが、変に思われるほどでは無いだろう。それにイザット・アルジャヒムは、こちらが一方的に知っているだけで向こうは知らない。


「早いな」


 予想より早く酒が出てきて、思わず声に出した。バーテンダーは光栄とばかりにお辞儀して去っていく。


「旨いな」


 飲むとまた思わず声が出た。地元のバーで何度か飲んだことはある。だが、こんなに旨くはない。


 ジン・トニックは単純なカクテルだ。ジンをトニックで割ればよい。味に、それほど差が出るとは思いもしなかった。


 旨い酒を飲み、少し落ち着いてきた。店内を見まわす。


 まだ昼の三時だと言うのにテーブルに三組の客がいた。一組の日本人は解らないが、あの二組の外国人は長期滞在だろう。雰囲気が違う。


 よくよく室内を見れば、驚くのは酒棚にある種類の豊富さ。


「日本のウイスキーは口に合わない」


 そう思っていたが杞憂だった。日本のウイスキーは元より、シングルモルトからバーボン、カナディアンウイスキーまである。この時代によくここまで揃えられたな。


 くだらない調査だが、せっかくだ。楽しめる物は楽しもう。


 おれはバーテンダーに鍵を見せ、ここの勘定を部屋付けにするように伝えてから、次に飲む酒を吟味し始めた。




 それから二日。動転したチェックインにくらべ、平穏だった。


 そして三日目。やはり報告書に書けそうな事象は何もない。


 夕方のロビーで、読んでいた新聞をテーブルに置いた。朝にも一度読んだ新聞だ。ソファーにもたれ、高い天井をながめる。


 朝と夕方は、ロビーでコーヒーを飲みながら過ごす。チェックインとアウトの客を見たいためだ。だが、これといって注視すべき物は見つからない。


 解ったことと言えば・・・・・・


 1階で働くイザット・アルジャヒムが勤勉であること。

 2階のカフェ・テリアはシーフードが抜群に旨いということ。

 3階のバー「ラ・メール」のマスターはカクテルの名人であること。


 イザットに関しては「真面目に働く青年」としか形容しようがない。カタコトの日本語は、それが逆に愛嬌に見えるのだろうか。滞在客から幾度となく、親しげに声をかけられていた。


 それから一つ気づいた意外なこと。それは、ロビー脇にあるコーヒースタンドのコーヒーがまずい。


 場所と雰囲気は最高だ。立ち飲みの小さなコーヒースタンドがロビーの玄関横にある。


 出かけの急ぎ足に飲んでいくには丁度よく、反対にゆっくり飲むのであれば、ロビーのソファーに座り近くのスタッフに注文すればよい。


 だが残念なことに、肝心のコーヒーがまずい。


 厳密に言えば、それほど不味くないのだが他のレストランやバーが旨すぎるため、かえって普通のコーヒーが目立ってしまう。


 言い換えれば、それほどこのホテルが「完璧」なのかもしれない。実際、暇ではあるが苦痛ではない。むしろ何もしない日々が心地よくさえ思える。


 しかし、さすがにこのままではまずい。何か報告書に書けるようなことはないだろうか。




 突破口は意外なところにあった。


 四日目の朝方、コーヒーを飲みにロビーに下りる。すると、コーヒースタンドに場違いな人物を見つけた。「ラ・メール」のバーテンダーである。


 一人でなにやら、コーヒーマシンと格闘していた。この数日、おれはバーに入り浸っているので親しげに声をかけてみる。


「おやマスター、こんなところで一体?」

「これは、おはようございます。昨晩はありがとうございました。」

「いえいえ、こちらこそ。しかしマスターもしかして・・・・・・」


 バーテンダーは苦笑いを浮かべた。


「そのまさか、でございまして。ここのスタッフが今日はおりません」


 気の毒なこと、この上ない。昨晩、おれがバーを出たのは夜の九時ごろ。営業時間は確か深夜一時までだったはず。そこから仮眠をして朝から仕事か。


 とりあえずコーヒーを注文した。カクテルの名人が作るコーヒーはどんな味だろうか。密かに期待したのだが、いつもと同じ不味いコーヒーだった。


「マスター、となりのドリップサーバーは使わないのかい?」


 ここのコーヒーがまずいのは、自動抽出するコーヒーマシンを使っているからだ。高圧蒸気による抽出が原因で、香りが弱く苦味の強いコーヒーができあがる。普通のドリップサーバーで入れた普通のコーヒーのほうが旨い。


「申し訳ありません。こちらは使ったことがなくて」


 そうか。ベーブルースにサッカーを期待するような物で、違う畑は違う畑か。それでも、せっかくのホテルがこれではと、苦言に口をあけたところ客が来た。


 邪魔をしないようカウンターの端によけて見ていたのだが、不慣れなだけかと思いきや、完全に素人だ。あまりにカップを扱う手がぎこちない。


 チェックアウトの客が増えてくる。ロビーのソファー席に座る客からのオーダーも入ってきた。いよいよ混乱の極みだ。


 これは見るに見かねる。おれは客のわきまえを捨ててカウンターをくぐった。


「お客様!」


 マスターの鋭く注意する声を、おれは手を挙げてさえぎった。


「邪魔はしないから、そのままそのまま」


 何か言おうとしたマスターだったが、ビジネスマン風の男が持ち帰りのコーヒーをせかした。


 おれは、カウンターの後ろにある機材の前に立つ。久しぶりだな。しみじみそう思った。


 実はシアトルでの学生時代、大手コーヒーショップで働いていた時期がある。それからコーヒーにはまり、今ではちょっとしたコーヒー通だ。


 さて、まず一通り機材を確認する。


 ドリップサーバーは使われていないが、さすがはホテル。綺麗に掃除はされていた。大型のドリッパーで六人分はドリップできるだろう。


 それからコーヒー豆のありかを聞いて、まず一粒かじってみる。大量に買い付けるためか、鮮度が悪く風味が少し飛んでいた。淹れる時は通常の10gより少し多めに入れてみるか。


 コンロで湯を沸かしている間に、ひたすらコーヒ豆をミルで挽く。


 ペーパーフィルターをセットし、粉を入れた。入れた後にドリッパーを少し叩いてコーヒー粉を平らにするのがコツだ。


 そうしている間に湯が沸く。


 最初に湯を一回しかけた。そのあと蒸らす。


 このあとが重要で、ゆっくり湯を回しかけると表面に泡が立ってくるのだが、この泡が立つようになるまでには少々の腕と経験がいる。


 六杯分入れると、カップに少しだけ注ぎマスターに差しだした。


 おれの勝手な行動に困っている様子だが、コーヒーを一口飲んで驚いた顔を見せた。それからしばらく悩んでいたが、唸るように声を漏らす。


「接客は私が。よろしいですか?」


 それは当然だろう。おれは保温プレートの上に、できたコーヒーを乗せた。


 もう一台のコーヒーサーバーに向かっていたところ、欧米人らしき男二人が来る。カプチーノを注文した。


 面倒なのがきたか。マスターが見つめてくる。


「お願いして、よろしいですか?」


 おれは無言でうなずいた。どうやら気づいていたらしい。おれは先ほど豆を挽くさい、エスプレッソ用も作っていた。


 カプチーノはエスプレッソを使う。そして実のところ、アルバイト時代はカプチーノ全盛期だった。日本のことわざで言う「昔取ったキネヅカ」というやつで、カプチーノもきっちり作った。


 それからはひたすらにコーヒーを淹れつづける。ウーロン茶や果汁ジュースはマスターが苦も無くこなした。


 チェックアウトが一段落すると、コーヒーの注文も一段落する。落ち着いたのを見はからい、おれはすぐマスターに詫びた。


「申し訳ない。出過ぎたマネをして」


 マスターはちょっと複雑な顔をしたが、少し微笑んで首をふる。


「いえ、感謝するのはこちらのほうで。どこで経験を?」

「学生時代に少し」

「少し、ではないでしょう。素人の私が見てもわかる」

「それが意外です。マスターは初めて?」


 カクテルの名人は恥ずかしそうに笑った。


「それがホテル・バーの悪いところでして。ホテルだとコーヒーは他から持ってこれるでしょう。作る必要が無いのです」


 なるほど。同じ建物にカフェもあればレストランもある。バーテンダーが自らコーヒーを淹れる必要は無いか。


「ありがとうございました。このお礼はいずれ」


 頭を下げるマスターだったが、おれには不安が残った。


「このまま一人、というわけではないんでしょう?」


 マスターが答えにつまる。


「ココノ人、昨日ヤメタ」


 ぎょっとしてカウンターの外に来た男を見ると、ベルボーイのイザット・アルジャヒムだった。


「アラブから来られた、イザットさんです」


 マスターはそう紹介したが、こいつはアラブ人ではない。


 迷った。ここまでの滞在で報告書に書けるようなことは、なにもない。ここはもう、突っこんでみるべきか。


「お前、アラブじゃねえだろ、カルバラのメンバーだろ」


 ここはアメリカではない。相手が銃を隠し持っている可能性はゼロだ。しかし殴られた時のために歯は食いしばった。


「ヨク知ッテルナ」

「はぁ?」


 思わず間抜けな声が出た。気を取りなおす。


「お前、何が目的だ?」

「モクテキ?」

「ここに潜入した目的だ!」

「センニュウ・・・・・・」


 駄目だ。難しい日本語のようだ。しかし、マスターが驚いてない。


「あまり、他言せぬよう願います」

「マスター、知ってて雇ったのか! なぜ?」

「なぜ、と申されましても、イザットさんは滞在客でして」


 滞在! ここはセレブ御用達ではないが、高級ホテルではある。イザットに払えるような値段ではない。


「お前、どうやって金作った?」

「アリガネ、ゼンブ」


 有り金全部?


 カタコトの日本語は解りづらかったが、持てる財産すべてを抱え、この日本に来たそうだ。それも、あの世界が混乱している暗黒の三年に。


「ココダケ開イテタ」


 なるほど。この世紀末ホテルは、暗黒の三年で一日も閉まってない。


「三日泊マッタ。マンゾク」

「いや、満足って、日本までの旅費と宿泊代、それで金無くなるだろ」

「ソウ、ダカラ、死ンジャオウッテ」


 意味がわからない。これは中東ジョークか?


「実際、どこで死ぬのが一番迷惑かからないか、そんな相談を受けたコンシェルジュが気絶しました」


 ジョークでは無い。本気の話か!


「ココノ人、ミンナ優シイ。迷惑、ヨクナイネ」


 イザットはにっこり笑った。そういう問題ではない。


「手を挙げろ! 地面に膝をつけ!」


 ロビーに怒号が響き、ふり向くと中年の男が包丁を持って女性客を羽交い締めにしている。くそっ、地球が滅亡すると解ってから、こういうやつが各地に出没した。


 いままで目の前にいたイザットの姿がないと思ったら、男に向かって突進している。全速力だ!


 イザットを見た中年は、体の前に包丁を突き出した。イザットは勢いそのままに突っ込み、包丁をかわすと脇の下で男の腕を挟む。


 ボクッという鈍い音が聞こえた。男は包丁を離し、地面をのたうちまわる。腕を折った。


 そうだ。幼いころからゲリラ軍にいたイザットだ。当たり前のように戦闘ができる。


 のたうちまわる男を他のベルボーイが素早く来て引きずっていく。そのまま関係者用の通用口に消えて行った。


「イザットさんがチェックアウトの朝も、同じような事件が起きまして」


 おれがぽかんと口を開けている横で、マスターがそう説明した。


「・・・・・・まさか、それで雇おうと!」

「はい、お陰様で、暗黒の三年間でいくどとなく暴徒が来ましたが、数人の保安部によって事無きを得ました」


 さきほど引きずっていったベルボーイ。手慣れた様子だった。いわくつきは、もう数名いるのか!


「日本モ変ナ人、多イネ」


 笑いながらイザットが来る。


「国へは帰らないのか?」

「クニ? モトモト、ナイネ」


 確かに、反政府組織のカルバラが掲げていた国という意味では、そもそも誕生すらしてない。


聖戦ジハードはいいのかよ!」

「アト九ネン。ホットイテモ、ジハード」


 イザットは地球が爆発するジェスチャーをした。笑えねえ。笑えねえジョークだ。


「トテモヨク寝タ。人生デ一番」


 イザットは嬉しそうにロビーを見上げた。三日の滞在のことか。


「アトハ恩返シ。ソレデ、私ノ人生、エンド」


 中東の戦士。殺意みなぎる鋭い眼光。そんなイザットの画像を見た。それが今や憑き物が落ちたかのように、にこにこ笑っている。


 思えばおれも、心地いい滞在だった。それは旨い飯を食い、旨い酒を飲み、綺麗なベッドシーツに包まれて寝るからではない。


 心地良さは、ここのスタッフが、おれを一切いらつかせないからだ。


 ここの人は、なにが楽しくて働いているのだろうか。横で静かな笑みをたたえるマスターが疑問に思えた。


「マスター」

「はい」

「あと九年だ。遊び倒して生きようとか、思わないのかい?」


 マスターは微笑んだ。


「最後のその時まで、私はカクテルを作りたいと思います」


 そういう生き方もあるのか。


「お母さん、こっちこっち!」


 娘に引っぱられるようにして、旅行客らしき親子が来た。


「ここのカプチーノ、すっごい美味しかった。お母さんも飲みなよ!」


 十五、十六あたりの女の子だ。そういえば、チェックアウトの客で混み合った時分に買いに来た覚えがある。


「リナちゃん、開園前に並びたいんじゃなかったの? もう出ないと」


 それは遊園地だろう。世界的に人気の遊園地が日本にはいくつかある。


「いいの! それより、お母さんにここのカプチーノ飲んで欲しい」


 マスターが親子に頭を下げた。


「申しわけありません。このコーヒースタンドはクローズ・・・・・・」


 言いかけたマスターの肩を掴んだ。自分の遊園地より、おれのカプチーノを母親に飲ませようと言うんだ。引き下がれるわけがない。


「実はおれ、ドリップのほうが得意なんです。時間はかかりますが、渾身のカフェオレ、いかがでしょう?」


 リナと呼ばれた娘が手を叩いて喜んだ。これは二杯分だな。


 ドリッパーに二杯分のコーヒー粉を入れた。一杯は通常だと10gだが、少なめ目の7gにする。


 不思議な物で、ミルクを入れるカフェオレは水っぽさが出る。その水っぽさを無くすには、コーヒー自体を少し薄めに入れてやるのが、誰も知らないコツだった。


 ただし、薄めに入れても風味を弱めないためには、じっくりと香りを引き出してやる腕前がいる。


 ドリッパーにお湯を一回し入れ、盛り上がったコーヒー粉を見つめた。この時の泡立ちで待ち時間を決める。


「マスター」


 コーヒーの泡を見ながら呼んだ。


「はい」


 有能なマスターは、おれのためにコーヒーカップを準備しながら返事をした。


「どうやら、おれも金が無くなったらしい」

「沖田様、たしか滞在は会社の経費とおっしゃって・・・・・・」

「いや、無いんだ。もう金が無い。一文無しだ」


 ちらっとマスターのほうを向く。マスターは笑いを噛み殺していた。


「そうですか。おや? ちょうどコーヒースタンドに欠員がありまして」

「頼むよ。とりあえず滞在費も払えない」

「困りましたな。では、支配人に相談してみましょう」


 マスターがカウンターから出ていく。


 コーヒーの泡が消えた。ころあいだ。コーヒーも、人生を新しく始めるのも。世紀末まで、あと9年もあるのだから。


 おれはゆっくりと、ドリッパーにお湯を注ぎ始めた。




 終


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【短編】世紀末ホテルでコーヒーを 代々木夜々一 @yoyoichi

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