第18話 命のバリア

 クライミングを終えた一同は、それぞれ一刻を争うようにビバークを含めた登山装備をザックに詰める。無言で詰める。まるでお互い速さを競い合うように、何も考えていないかのように、一見無造作に手早くどんどんと詰め込まれて行く装備。

全ての事件は、いつどんな事件が発生するかわからない。登山パーティの人数や、その日の天候、路面の状況、事件現場の発生地点によっても、用意するものは細かく変わってくる。事件が発生した時に、何が必要で不要かの即座の判断は、知識と言うより、積み重ねによる経験則が大いにモノを言う。

だから、如何なる訓練も、その訓練に赴く直前に準備する事になっていた。春山訓練の時は、前日の夜にパッキングしたものを先輩らが毎回チェックしてくれたが、夏山からはそんな遠足みたいなわけにはいかず、より実践に近い形での訓練となっていた。もちろん、事前に装備のリストが配られていてはいたが、それが徹底的に頭に叩き込まれているかは勿論、どこまでの装備を持っていくか、ある種の野生の勘のようなものも試された。


山道は険しい。

ゴツゴツした岩肌と年中アイスバーンのような雪道。


無駄な物を多く持てば、それは、じわじわ自分の肉体に直接はね返ってくる。それに、アイスバーン、氷の鉄板と化した雪道は、どれだけ身体を鍛え上げようと、時に深刻なダメージをもたらす。


スリップだ。


つるっと滑った時の不可抗力の大きさに、人体はなかなか抗えるものではないのだ。そして、その勢いで氷の鉄板に叩きつけられれば骨折どころか、打ちどころが悪ければ、そのダメージは致命的でさえある。スリップを避ける為の登山用アイテムにアイゼンという、登山靴に装着して使う、野生動物の牙のように配列された強力なスパイクはあるが、鉄板のようになったアイスバーンには、アイゼンの牙を以てしても、文字通り「歯が立たない」事もある。

竹内は春のミニ訓練の時に、このアイゼンの刃の間に雪が詰まって使い物にならなくなってしまっているのに気づかず、雪を落とさないでいた為に転倒しかけた事があった。それ以降、新人四人達は、より注意深く、アイゼン装着後もこまめにチェックするようになった。


現場に到着してから活躍するテントや、現場に辿り着くまでに活躍するアイゼンなど、様々な装備を、四人は最初こそリストを片手に照合しながら準備を進めていたものの、何か事案が起こる度にアレが足りない、コレはどうした、まだ出発できないのかと叱られるうちに、いつの間にかリストはいらなくなっていた。装備の配置場所もだいぶ頭に入り、実はようやく「一見無造作に見える」レベルで準備が進められるようになったばかりだ。

 ところで、近年はキャンプの流行で、テントもカジュアルで取り扱いの簡単な軽量のものが過去に類を見ないほど爆発的に増えた。軽量化も著しく進み、一人用なら200g弱のものまで出ている。

脅威の軽さだ。

しかし4人用と言っても、それは四人が中に寝そべる事ができるとか、立ち上がって自由に動き回れるという大きさを想定されてはいない。市販のテント人数は座って入れる収容人数を書いてある事も少なくない。

一方で、山岳警備隊でビバークに使うテントは、時にけが人なども収容したり、時にはその中で色々な処理を施したりする必要がある為、高さ、幅、奥行き共に2m近くの、詰めて寝れば四~五人が横たわれ、立って動ける大きさがあるもので、総重量は約5キロ。もっと大型のものもあったが、今回はこの5キロテントが訓練で使われる事になった。

四人は、訓練の為全員そのテントを一つずつ、他の装備と一緒にザックに詰め込んだ。持って行く装備は、夜の酒盛り用の酒と肴なども含め、35キロ近くになったが、普段の訓練では50キロのボッカ訓練(*ボッカは「歩荷」、重荷を背負って歩くトレーニング)もこなしている。四人は、ほぼ同時に準備を完了すると、35キロの塊を背負って立ち上がった。

 この遠征とも言える訓練には、ふもとの警察署で勤務している先輩らが4人増員で配属され、新人らの同行と指導に当たったが、二日連続に渡るビバーク訓練は、果たして、ハプニングの連続であった。峰堂から刃沢に登った初日は皆、暑さと重さに喘いだ。

川を渡る時に須藤が足を滑らせて川の中にドボンと豪快に落ちてしまった。

新人ら四人のザックには、先輩らの酒や肴、数キロの肉、など、わざわざ重量化してるのかと思うくらい、訓練とは関係のないモノも詰め込まれていたが、幸い須藤が背負っていたのは5キロの肉の塊で、昔からずっとお世話になっている「鷹山畜産」で真空パックしてもらったものだったから須藤はずぶ濡れになったが肉は無事で済んだ。刃沢には3時間弱で着いたが、キャンプ場になっているそこで、全員一休みさえすることなく、テントを張るのに適した場所から、わざわざ少し離れたところで、テントを素早く建てる練習が数回繰り返して行われた。

毎回タイムを取られながら、「はじめ!」の号令で一斉にテントを張り始め、張り終わったものから「完了!」と声をあげ、最後の一人が「完了!」と言うと、今度はそれを合図に素早くテントを撤収する。

その間に、先輩隊員が巡回しながら、「ほら、そこ、もっとピシッと張らんかよ。」「ダラか(バカか)お前!ポールそんなトコ持ったら指バチンと挟むねか(挟むじゃないか)」と、一般社会ならパワハラで訴えられそうな、遠慮のない檄が飛んだ。

しかし、このテント張りも、ロープワークやクライミング同様、呼吸をするようにできなければいけない事なのだ。緊急ビバークをする時、その大半は命がかかっている時なのだ。このテントを、安全な場所に素早く打ち立てられるかどうか、その時テントは、本当に「命を守るバリア」と化すのだ。

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吸血師Dr.千水の憂鬱 ~だから私は吸血鬼ではないと言っているだろう~ ハザカイユウ @hazakaiyu

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