第5話

 雨が降ると体が重くなる。その症状は、少しずつ酷くなっていた。

 そろそろ、潮時かもしれない。満足に動けるうちに、ミリイとナルルに礼を言っておかないと。

 今日はミリイの学校は休み。だが、朝からフェンテまで手伝いに出掛けている。いい機会なので、荷物をまとめておこう。

 ソファーから立ち上がろうとしたとき。

 つんのめるように、前に倒れる。受け身が取れない。そのまま、うつ伏せに倒れた。石が砕ける、甲高い音がした。

 視界の端に写ったのは、石と化した、自分の左手だった。それが、あらぬ方向に転がっている。

「……随分と、急だな……」

 痛みは感じない。肘も動かない。左足も。

 肩を使って、なんとか仰向けになる。

「……ちくしょう」

 まだ大丈夫という話だったはずだ。

 静かな部屋の中に、開けっぱなしの窓からの雨音だけが響いている。

 戦争が終わる寸前、ギリアムがいた塹壕に砲弾が撃ち込まれた。いつもの定期便か。落ち着いて退避していたとき、砲弾から煙が立ち上ったのが見えた。ガス弾である。両陣営とも報復合戦を厭い、ガス弾は使わないという暗黙の了解ができていたそうなのに、これはいったい。

 中身が毒ガスならば、まだよかった。だが、それはもっと性質の悪いものだった。灰色の煙。刺激臭。それは、普通の毒ガスではなかった。嫌な予感を覚えたギリアムは、咄嗟に退避壕に逃げ、ガスマスクを着けた。

 そのガスは、新兵器の石化ガスだった。

 ギリアムの周りに、逃げ遅れた戦友の石像が何体も作り出された。生き残ったのはギリアムだけ。

 ほどなくして降りだした雨によって、地表のガスは洗い流された。しかし、ガスマスクを着けるまでの間に吸引したガスは、彼の体をじわじわと蝕んでいたのだった。そのときからである。雨が降ると体が重くなったのは。

 進行を遅くすることはできるが、治すことはできない。

 右足を切断したときの医者の答えはそれだった。

 なぜ石化ガスが使われたのか。マレット曰く、戦争が終わる前に効果を一度試してみたかったのだろうとのことだったが、本当のところはわからない。そして、講和へと話が進んでいるなか、双方の国民感情を刺激することを恐れた政府によって、この事件は揉み消された。戦争犯罪にはならず、報復も行われなかったのである。

 ギリアムに渡されたのは、いくらかの金と、勲章一つ。

 誰にも言えない話。戦友が無駄死にしただけで、誰も裁かれなかった、胸糞の悪い話。

「ナルルにも、ミリイにも、礼を言えなかったじゃないか……」

 世話になったのに。短い期間とはいえ、楽しい時間を過ごさせてもらったのに。

 特にミリイには。食事も、寝床も貰ったのに。

 彼女の気持ちも、ある程度はわかっているのに。

「ただいまー」

 ミリイの声がした。帰ってきたのか。

 ああ、また未練ができてしまう。ついているのやら、ついていないのやら。

「……お兄ちゃん?」

 両手も、下半身も動かないし、感覚もない。首だけで玄関のほうを見る。ミリイが血相を変えて駆け寄ってきた。

「お兄ちゃん、どうしたの!?」

「……戦争で、ちょっと、な」

「ま、待ってて!! 今すぐにお医者様を呼んでくるッ!!」

 ギリアムは首を左右に振る。その動きすらも辛くなってきた。

「もう、無理だよ。自分が一番……よくわかる」

「じゃあ、あたしの血で……」

「それだけは、やめろ。どうせ、迷信だよ……」

 ゴルゴンの血は石化症状の薬となる。そんな迷信がある。

 それは迷信ではなく、薬にはなるそうだ。だが、必要なのは一滴や二滴ではなく、もっと大量の血が必要となるらしい。致死量となるほどの。医者が言うには、迷信と言われているのはゴルゴンの身を守るためとのことだ。

 それほどのリスクを背負ってまで試す価値はない。どうせ、今は治っても、再発の可能性は高いのだろうから。

「……迷惑かけて、ごめんな……。鞄の中に、中佐の連絡先がある……。警察じゃなくて、そこに連絡すれば、どうにかしてくれる、らしいから……」

 ゴルゴンの家で石になったのだ。ミリイが真っ先に疑われるのは間違いないだろう。事情を知っているマレットなら、なんとかしてくれるはずだ。彼の考えていることに利用されるとしてもいい。ミリイにだけは、害が及ばないようにしないと。

「……こんなのって、こんなのって、ないよ……」

 ミリイの眼鏡の下からは、涙が次々と流れている。

「せっかく、せっかく! お兄ちゃんと再会できて! 一緒に暮らせて! 毎日が楽しくて!」

 悲鳴めいた声。

「あたし、まだ、言えてないのに……!! お兄ちゃんのこと、ずっと、ずっと……」

「……ミリイ」

「ずっと、ずっと……好きだったのに……ッ」

「ありがとう。……本当に、嬉しいよ」

 彼女の気持ちには薄々感付いていた。こんな体でなければ、とうの昔に受け入れていただろう。

 もう、何も動かない。動かせない。石と化した右手を、ミリイが握りしめているのが見えた。それだけで、ずいぶんと気が楽になった。

「……一つだけ、お願いをしていいか?」

「なに? あたしに、あたしにできることなら、なんだってするから!!」

 まだ視界が開けているうちにやっておきたいこと。

「……どうせ石になるのなら、ミリイの瞳を見て、石になりたい」

 ミリイの瞳。金色の美しい瞳。彼女が幼い頃に見たきりでも、未だに脳裏に焼き付いている。石になる間際まで残っているとは、本当に恋をしていたのかもしれない。

 彼女に。彼女の瞳に。

「……お兄ちゃん」

 ミリイは少しだけ戸惑ったものの、ゆっくりと眼鏡を外した。

「……これでいい?」

 ミリイの金色の瞳は、涙で潤んでいて、一層美しく見えた。

 最後に見るものとしては、最高だ。

「……ありがとう」

 体が冷たくなったと感じた瞬間、ギリアムの視界は灰色になった。


 彼女の瞳。金色の美しい瞳。

 自分はそれが、大好きだった。

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君ノ瞳ニ恋シテル あびす @ki84_frank

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