未来にもっとも近づいた人
亜済公
未来にもっとも近づいた人
夏、北海道を訪れた私は、札幌の一角に位置する小さな居を訪れていた。この記事の執筆が決まったとき、最後に向かおうと決めた場所だ。東京よりいくらか涼しく、雲一つない、良い天気である。真っ白い壁の一戸建て、その表札には、「倉田秀一」と記されている。恐らくは、この名字を、誰もが一度は耳にしたに違いない。他ならぬ、倉田静音の父親である。
静音はアメリカに生を受け、三歳の頃、両親と共に日本へ渡った。母親は旧財閥の名家の出であり、彼女はその恩恵を、余すところなく受けたのだった。帰国後、すぐに家庭教師をあてがわれ、多くの教養を身につけた。もっとも、何かしらの突出した才は認められず、どれもそれなりの結果でしかなかったという。
「例え凡庸であったとしても、静音は一生懸命だったんですよ。私は、それが嬉しかった」
秀一は、微笑みながらそういった。
静音が件の事故に巻き込まれたのは、彼女が五歳のときである。当時専属であった運転手は、新聞の取材で次のように語っている。「バイオリン教室へ向かう途中、悲鳴のような、ブレーキのような――きっと、両方だったんでしょう――甲高い音が聞こえてきました。信号を無視したトラックが、こちらに迫っていたんです」「周囲には真っ赤な染みが出来て、頭に酷い傷を負って……そんな御嬢様の姿を見て、私が最初に思ったのは、自分が解雇されるかもしれない、という懸念でした」
脳の一部を欠損したにも関わらず、静音は一命を取り留めた。運が味方したのであろうが、しかし同時に、回復は絶望的とも思われた。傷は、それほどまでに深かったのだ。
今回、取材を続ける中で、静音の執刀医にたどり着いた。運び込まれた彼女を見て「得体の知れないな感動」に襲われた、と、彼は当時を振り返る。「前頭葉の大半と、頭頂葉の一部分が、えぐり取られていたんです。一目見て、とても助からないと思いました。次いで、彼女が生きている……生きようとしているのが分かったとき、何か、得体の知れない感動に、襲われたのを覚えています」
手術が無事成功し、半年が経っても、彼女の意識は戻らなかった。愛娘の姿を目の当たりにし続けて、精神を弱らせた結果であろうか。静音の母親はこの時期に、自ら命を絶っている。
「私はそのとき、国内のとある研究施設で、感覚器官の機械化を研究していたんです」
「それは、具体的にどういった技術なのでしょう」
「例えば、視覚に障害を持つ人の脳に、映像データを直接送り込んだら、どうでしょう。失われてしまった機能は、そうして人工的に補完することが出来るのです。無論、当時、個々の感覚器官に関しては、多くの研究が実用段階に至っていました。しかし、人間の意識そのもの――あるいは、認識そのものについては、誰一人触れることができなかった」
「だが、あなたは実現させた」
「ええ。最終的には失敗でしたが」
一年が経過し、静音の意識回復は、いよいよ絶望的と思われた。秀一は自らの研究を、そこで初めて、人間に用いた。
この技術は、補完ではなく拡張なのだ――と、彼はいう。
「装置が実現できるのは、単なる器官の代用ではありません。直接に電気信号を脳へと送り、本来、現実にはありえない認識でさえも、可能とする。人間には到底理解できない概念であれ、機械で処理できるなら、『分かる』ことができるのです。人間の脳とコンピュータとを、融合させる、といえば分かり易いかも知れません」
「父には、感謝しています」静音は後年、マスコミに対して述べている。「病院のベッドで眠っていたとき、私はずっと、一人でした。心がぼんやりと沈んでいって、いつしか、何も分からなくなる……そんな気持ちがするんです。少なくとも、今は違う。私は、私が私であることを理解できます」
当時の映像を参照すれば、手術痕を包帯で隠した少女の姿と、頭部に接続されたケーブルの先、キャリーバッグほどの大きさをした、真っ黒い箱が確認できる。倉田静音は、目の前の人か、あるいは黒い箱なのか……記者のぶしつけな質問に、静音はただ、「私は、私です」と、そう答えた。
意識を回復した倉田静音は、以前と同じように振る舞い始めた。それは、機械が「以前の静音」を模倣しているに過ぎないのか、あるいは本人といえるのか――。
「大切なのは、自分がどう受け止めるかということなんです。人間の意識は、あやふやで頼りないものですから。本人かどうかなんて、誰にもわかりはしないでしょう」
リハビリの後、静音は無事退院した。彼女は取材の申し込みに、殆ど断ることなく、応じている。知名度は急速に高まっていき、一年、二年が経過しても、忘れ去られる気配はなかった。その理由の一つには、彼女の異様な活躍がある。
凡庸、と表現された以前の静音とは対照的に、退院後、彼女は多くの分野でその天才を発揮した。数学におけるホッジ予想の証明が、その代表といえるであろう。
入院前の自分と比べて、何か相違を感じますか? ある時、彼女は記者に聞かれ、次のように回答した。「そうですね……色々なものが、見えるようになったと、思います。退院してすぐは、以前と変わらなかったはずなのに」彼女の言には様々な解釈がなされているが、有力なのは、脳の機能が、格段に強化されているというものだ。事実、東京大学を中心に行われた実験で、静音は研究者を驚かせるほどの処理能力を発揮している。空間把握や、計算能力……唯一例外だったのは言語野で、これに関しては平均をやや上回る程度に留まっていた。「倉田静音の脳構造は、明らかに旧来の人類とは異なっている」実験に立ち会った研究者は、論文にこう記していた。「機械による信号の処理は、脳の本来の機能とは、やや性質が異なっている。倉田博士の装置には、まだ改善の余地があろう。にもかかわらず、彼女の脳は、むしろ機械への適応を行うことにより、見込まれていた以上の高度な計算能力を獲得した。今この瞬間も、少しずつ脳は変化を続け、より一層その融和を進めるであろう」。
「確かに、時が経つごとに、静音の様子は変化していたように思います。食べ物の好みが変わっていったり、ボウッと宙を眺める時間が、だんだん増えていったりと」
秀一は、懐かしそうに言葉を紡ぐ。
「だから、私は、静音の小説を読んだとき、少し嬉しかったんです。私が知っているあの子の心が、奇妙さの中にも、どこか感じられましたので」
「それは、十三歳のときですね」
「そう……そうです。後書きに、あの子はこう書いてるんですよ」
秀一は、つと立ち上がり、棚から本を取り出した。
「ここですよ。『この本を、亡くなった母に捧げます。わたしの言葉が、届くはずもないけれど、なんだか気持ちが安らぐのです』。あの子は優しくって、正直だった」
倉田静音は、取材以外で、その生涯を自ら語ることはついになかった。唯一、それらしきものといえるのは、彼女の発表した、たった一冊の小説である。「延命と祭壇」と題されたこの本は、多く「奇妙」と評される。情景描写の不可解な偏りや、人物の過剰な合理性。機械と融合した人間が持つ、独特なる世界観――と、ある批評家は記している。
こういった活動の一方で、静音の脳は、驚くべき速度で発達を続けた。行われた数度の検査で、毎度、記録は例外なく、前回を大きく上回る。そして彼女が、十五歳になった日に、事件は起こったのである。
「あの前日に、僕は彼女を取材をしました」
A新聞の記者は語った。
「そのとき、僕は、水の並々と入ったグラスを、肘に引っかけて落っことした……いや、落っことしかけた、と言うべきでしょうか。信じがたいことですが……静音さんが、そいつを空中で掴んだんです。まるで私の行動を、予め分かっていたかのように! そうでなけりゃ、あれはとても、人間の反射速度じゃありませんよ」
このとき既に、静音はそれを「見ていた」のか。
翌日、誕生会は、多くのマスコミを呼んで行われた。そして、ある時、彼女は突然、立ち上がり、鬼気迫る声で叫んだのだ。
――逃げて!
誰もが、あっけにとられて、静音を見る。一体何が起こったのか? ――次の瞬間、建物は、酷い揺れに倒壊した。あたかも彼女が、それを予期していたかのように。
史上最悪と言われる首都直下型地震の悲劇に際し、倉田静音は死亡した。会場となったホテルは崩れ、出席者の七割が何らかの傷を負っている。静音は中でも重症で、倒れた柱に下半身を潰されていた。
「病院で、息を引き取る寸前に、彼女と少しだけ、話をしました」
秀一は、旧式のテープを差し出した。
「お預かりしても、よろしいのですか?」
「私はもう、すり切れるほど聞きましたから」
内容は、ごく短いものだった。
――わたし、ずっと、平凡なのがいやだったの。
呼気と殆ど区別のつかない、微かな声がノイズに混じる。
――頑張っても頑張っても、ちっとも褒めてくれないから。頑張ってるねって、ただそれだけ。だから、こうしていられたことが、少しだけ嬉しくて、少しだけ悔しい……。
「最後に、一つだけよろしいですか?」
私はふと、尋ねてみる。
「彼女に適用されたあなたの技術は、今、どうなっているのです?」
「勿論、研究は続けています。だいぶ、小型化が進んでいますよ」
これです、と、前髪を持ち上げた。黒く塗られた円筒が、頭蓋へ突き刺さっている。
「静音が何を見ていたのか、今は私にも、分かります。世界がぐっと広がっている。細かく、たくさんのものが理解できる。情報が頭の中に溢れていって、どんどん、その先が見えていく。計算能力の発達に伴い……静音はきっと、どこかの時点で、未来をも見ていたのではないでしょうか」
「未来……ですか」
ええ、と秀一は頷いた。
「目の前の光景から、予測する、といった方が良いのかも知れません。今から楽しみなんですよ。未来が、静音の光景が、一体何色をしていたのか、ね」
未来にもっとも近づいた人 亜済公 @hiro1205
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