第5話
朝が来ていた。辰は牢の中に自分を見つけた。白服の娘が彼に食事を与えに来た。いつもの女ではなかった。一番大きなテントから男たちの声が騒々しく聞こえてきた。時間がゆっくり流れた。青年期の夢から覚めたことを辰は思い出しつつあった。夕方の水が与えられる前に移動の準備が始まった。群れは西の地平線がまだ赤く燃えているうちに動き始めた。二時間ほど歩いてからジーンズと花柄が合流した。明かりといえばもうずいぶん細くなった月ばかりだったが、声で分かった。二人はラクダに乗っていた。辰を捕らえたときのように、群れの男たちはしばしば偵察に向かっているらしかった。
夜が明けても群れは東進を止めなかった。水筒が前から順に回されてきた。ラクダの一頭にタンクが括り付けてあった。ジーンズと白服がしばしば隊列を離れて地平線の彼方へ消えていった。群れは何かから逃げていた。しかし、都合がいい。こうして昼間に移動してくれれば、衛星がその姿を捉える。
*
影が一番短くなるころになって群れは行進を止めた。ほどなくして白服が隊列に戻る。白服のラクダは疲れ切っていて、白服自身にもその背中から振り落とされた跡がある。白服は天幕の中に入り、外に立っていた花柄と言葉を交わした。それから号令をかけた。群れは小休止に入り、食事が始まった。辰にもいつものチーズと干し肉が回ってきた。食事の後、白服がラクダに積んであった荷物の一つを降ろした。出てきたものはいくつかの火器だ。白服と花柄が古い設計の自動小銃を持ち、女たちに拳銃が配られた。天幕が手早く組み立てられ、ありとあらゆる物と人、ラクダと辰までもがその中に仕舞われた。貝の口がカーテンで閉ざされた。ジーンズはまだ帰っていなかった。いや、もう帰っては来ないだろうと辰は思い始めていた。群れは何かとの戦闘に巻き込まれようとしている。暗闇を利用して彼は老父へ近づいた。独り言を装って老父に話しかけた。
老父は横たわったまま答えた。女たちの幾人かが辰たちの会話に気づいたらしかった。彼女らは沈黙を保った。
老父が笑った。彼の笑いは砂漠の枯れ木のように乾燥しきった音がした。
老父が体を起こすのを花柄が助けた。花柄は辰が近くに座っていることに気づいて殴りかかろうとする。老父がそれを制止した。
辰は肯かなかった。それでも、老父は沈黙に何かしらの解釈を与えて納得した体でいた。
天幕の隅で空想の子どもたちがはっと目を覚ました。連続的な轟音。敵が大物だと気付く。男たちが前へ出て銃を構える。
また轟音が近づく。女たちが拳銃の安全装置を外した。天幕の正面から白服と花柄が走り出た。
*
突風が吹き込み天幕が飛ばされた。老父は焦りもしない。この風は辰たちに味方したと言ってよかった。巨大な重機が横転し起き上がろうともがいているのが見える。無駄に図体の大きな機械なのだから風にあおられないわけにはいかなかったのだ。本来二本あったアームは片方が撤去され、蟻蜘蛛が強引に接合されている。腕一本では立ち上がることもままならない。白服のラクダが蟻蜘蛛の射角を避け勇猛に飛び掛かった。白服はキャノピーに飛び乗ったが装甲が頑丈で破れない。彼が格闘している間に重機は再び立ち上がり脚でラクダを跳ね飛ばす。
*
辰は立ち上がり両手を大きく振った。やっと来た好機だった。目の前で重機のアームが弾け跳ぶ。少し遅れて耳をつんざくような銃声。
老父の指示に応えて、白服が重機の上から離脱した。
突然、重機が爆ぜた。もくもくとあがる黒煙にそって辰は視線を空へ向けた。米軍の精密爆撃機である
***
辰は釜山の山間にある古民家を買った。立派な竈が付いているのが気に入ったからだ。エネルギー系の結社との契約を勧められたが断った。照明と通信端末に必要なだけの電力は太陽光で賄えるし、燃料は薪があれば問題ない。水は湧水がある。
辰の散歩道は山頂へ続いている。釜山の都会と海が見下ろせる場所だ。高層ビルは大概どこかに穴が開き放棄されている。水上生活者の船が何十隻も海上を漂っている。その上空で
水平線の向こうから一人乗りの自家用機が飛来しつつある。
*
最後に会ったときと比べると陸郎は痩せて筋肉質になったように見える。彼は家主に断りもせず煙草に火をつけた。かと言って辰は不満があるわけでもない。
紫煙が天井に溜まっていく。この八年間、辰は煙のように掴みどころのない時間を過ごしてきたように思う。
「
陸郎は吸い殻の火を灰皿に押し付けながら言った。部屋は薄暗くしてあったから赤い炎が消える瞬間がはっきり見えた。
辰は動揺した。
陸郎はがははと笑い腹鼓をたたいた。筋肉質になったおかげで前ほどは音が鳴らない。
陸郎は神妙な表情になった。
辰は副作用を心配したのではなかった。辰は遼子やアリーへの執着が消えてしまうことを恐れていた。辰が彼ら死者と共にありたいと願う気持ちは、陸郎のそれよりずっと湿っている。
辰の呟きを陸郎が聞いていたか定かではない。
*
陸郎は釜山における片桐の活動の痕跡を一通り調べ終えると辰に別れを告げもせず
米軍とSDCFの
辰たちは疎らな農地の中を旧国境の方へトラックで走った。文明が次第次第に遠くなった。時たま井戸があった。どこかに山羊を連れている人がいるかもしれない。
トラックは二時間走って止まった。墓は荒野に囲まれていた。アリーの墓には青白い石材が使われている。すぐ隣に遼子の墓がある。
ダンが言った。自分たち以外の轍が道路から外れた土の上にくっきりと残っている。
ダンの言葉に辰は胸が詰まる。
辰は自分の掌を見ながら言った。
巨大な砂嵐が西から迫りつつあるのが見えた。
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