第4話
市民体育館の観客席から落っこちそうなほどに身を乗り出し剣道の試合に見入っていたのを覚えている。社会人の大会だった。防具で顔の見えない男たちが激しく叫び竹刀を打ち合わせていた。辰は三つか四つだった。母に連れられてきたことを記憶している。彼女の頬には涙が伝っていた。泣いているという表情ではなかった。
母はずっと脅威だった。不可解だった。何が彼女の機嫌を損ねるのかわからなかった。一方でしかし、不機嫌が彼女にとって他人を支配する唯一の方法であることは物心ついたころには既にどうしようもなく深く理解してしまっていたように思う。
父の不在を意識するようになったのは中学の頃だ。その頃までには母が日本人でないことを理解するようになっていたが、自分が日本国籍を持たない理屈には関心を寄せたことも無かった。大阪市内に辰を溺愛している家族があった。母はその家から援助を受けていたが、心理的な距離が近いようには到底思われなかった。辰は、彼らのことをどう理解していたのだろう。自分を溺愛する家の存在に何の説明も与えずにいられるほど当時の辰は純朴だっただろうか。そうは思えないのだ。
辰が中学を卒業する頃に、母はその家との仲が険悪になった。辰の進学先を巡って口論があったらしい。その家がどうして自分の進学に口出しできるのか辰にはわからなかった。それから母は頻繁に韓国語で手紙を書くようになったり同じ番号へ何度も電話を掛けるようになったりした。辰の知る限り、返事は無かった。辰は母には身内がいないと思っていた。話題に上ったことも無かったからだ。
十六歳の夏、母が唐突に辰の一人旅を提案した。行先は釜山で、母の親戚が泊めてくれるのだという。住所と電話番号を教えられた。海路で行くと決めたのは辰だ。海に憧れがあったからだ。無邪気にも、使命を帯びた旅行だとは考えもしなかった。
結局、辰が
入国審査がさも当然のように韓国語で行われたことは、大阪で日本人に溶け込んで生活してきた辰にとって自分の出自を思い知らされる衝撃的な機会だった。彼の手元にあるのは確かに発給されたての大韓民国のパスポートだ。しかし、それが何だというのか。表紙に書かれている幾何学模様めいた文字が何を意味しているかさえ辰にはわからない。
父は、故郷について複雑な問題を抱えた人だったのかもしれない。母を気遣ってくれたあの家は父の実家で、あのとき竹刀を振るっていた背中こそが父なのかもしれない。死別か、あるいは失踪したかもしれない。なんらかの理由で父が母のもとを離れ、一人きりになった母を父の実家が世話していたのだとしたら。父と母は大阪という土地で出会った異邦人同士だったのかもしれない。父はきっとこの地球に大韓民国という国が現れる前に日本へやってきた人々の子孫だろう。というのも、あの家で韓国語を聞いたことはなかったから。一方で母は単身日本へ渡って来たばかりの第一世代だったはずだ。京都の大学で再生医療を研究していたと聞いている。
大阪市の通勤圏にあるつまらない新興住宅街という故郷が辰にはある。辰が育ったのは無機質なアパートの五階、無個性な部屋。彼の生活を囲んだのはネグレクト気味の母、インスタントの食事。いつも使っていた毛布にはアニメのキャラクターが描かれていたが辰自身はその作品を見たことがなかった。故郷は空虚と結びついている。
*
ダンが駅まで迎えに来ていた。兄妹とエヴァも一緒だ。
辰たちはトラックの荷台に乗った。前は無かった庇が付いている。街との間には真新しい道路が出来ていて少しも揺れない。
ダンが運転席の窓から新聞を手渡した。
ダンは深くため息をついた。
肌寒い。今日は元日だ。
*
ダンが供したのは中国茶だった。それも本格的な様式だ。見たことのないすのこ状の盆、香りを嗅ぐためという細長い筒状の椀、菓子は月餅。
ダンの家はまるでアリーの家の写しだ。このあたりの伝統的なスタイルで建てられている。狭い窓から日が細く差し込んでいる。子どもが三人いるお陰でそれなりにしっちゃかめっちゃかだが、そういった幼さに由来する混沌と同居するかたちで、書籍があちこちにうずたかく積まれている。通信工学と文学が半々といったところだろうか。『渚にて』や『ソラリス』が並んでいる。
ダンの眼差しが重くなった。
ボスが噛み殺そうとした笑いは結局鼻息として漏れてしまった。口元は微笑んでいた。物事を懐かしむときの柔らかな表情に哀愁が伴う。
ダンの動きが止まった。
ダンは茶碗を置いた。
「遼子、それとエヴァです」
*
ラッカの自動車整備工場でサングラスをかけた男がカウンターの上に足を組み航空機の雑誌を読んでいる。辰は彼が自分の存在に気づくまで壁にもたれて無言で待っていた。男は雑誌の最後のページに目を通してから顔を上げた。
アフマドは辰を油臭いガレージに通した。山繭蛾がバラされた状態で保管されている。武装は無い。
市街外縁部の高層ビル帯にガラス面積の少ない重苦しい建物が紛れている。揚々と翻る赤い三日月がこの地域で赤十字の代わりとして用いられるものだと知っているならば、その人はある程度中東事情に通じていると言っていいだろう。その横で星条旗とシリア国旗がはためいている。この病院はアメリカの援助で建設された。時刻は午前十時、快晴。
東アジア系の男がずかずかと院内に入り込んでいった。彼は病棟の八階で一人の男性を見舞った。この男性はかつて倫理学の教授だったのだが、認知症が進行し思考力を大半失ってしまった今となってはループ再生を続ける音声ソフトみたいなものだ。聞き手がいないと機嫌が悪くなるから看護師たちにはひどく迷惑がられている。しかしもし彼の言葉が理解できるのであれば——老人性のくぐもった声のために残念ながらそれはとても困難なのだが——ロールズ、ハイエク、センの理論について最高水準の講義を受けることができる。その噂を聞きつけた学生たちが頻繁に彼のもとを訪れるが、ほとんど全員が挫折してしまう。学生たちが病室を去るとき、彼は決まって顔を真っ赤にしながら
男は老人の話に真剣に耳を傾けた。時には老人に鋭く反論した。すると老人はいよいよ機嫌を良くしていき、お前の質問ならどんなものにでも答えてやろうと言った。男は老人自身がどのように正義を実践してきたか尋ねた。老人は滔々と語った。
辰と老人はエレベーターに乗った。しかしその直後、彼らの箱舟は五階と六階の間で座礁してしまう。
辰は老人の背後に立ち、彼を組み伏せた。老人のポケットから電子ノートを取り出す。
辰はノートを流し読みした。アブドゥルアジズとの接触、彼からの指令、訪問者からの伝言がびっしりと記録されている。
辰は老人にノートを見せた。老人の顔が青ざめていく。
辰は該当するページを老人に読ませた。
老人は沈黙した。
非常電源に切り替わりエレベーターが再び動き始めた。辰は老人を取り押さえていた両腕から力を抜く。九階で止まった。
辰は老人を看護師に引き渡して去った。彼の手には老人の電子ノートが握られている。
*
ダマスクスの夜は天使の輪だ。眠る中心街を煌々たる高層ビル群が囲んでいる。今しがた一機の山繭蛾が中心街の闇の中から飛び立った。その機体は病院最上階の壁ぎりぎりまで機体を寄せ光信号を発信する。山繭蛾のカメラが窓の向こうにAKを構えた兵士の姿を捉えた。彼はハンドサインで山繭蛾にそこをどけと命じる。山繭蛾は二メートル右側へ移動、銃声、砕けたガラスが舞う。
瘦身の男が兵士の後ろから現れた。山繭蛾のローターが起こす風が壁を激しく揺さぶり不穏の前触れのような音を立てる。男の左袖がなびく。彼は山繭蛾から吊り下がっている足場に乗り移った。機体は闇に呑まれていく。
*
アブドゥルアジズをビニール紐で縛り上げながらアフマドが悪態をついた。
ダマスクスから南西へ十数キロ、レバノン国境の山中に彼らはいる。若干の積雪がある。あのノートにはイスラエルへの亡命計画に関連する内容が記されていた。辰とアフマドはイスラエル側のエージェントを装い亡命の日付が早まったとあの老人越しに偽の情報を流しさえすれば十分だった。
辰は表情を変えなかった。アフマドは腹を立てながらトラックに乗り込んだ。ラジオの音が漏れ出ている。今週のヒットチャートらしい。寒風が辰とアブドゥルアジズの頬を撫でた。
老人は高々と笑い出した。
泥交じりの雪玉が老人の顔面で砕けた。辰はすぐ二つ目の雪玉を作り、力いっぱい投げつける。また雪玉が砕ける。|
「悪くない答えだが、違う。俺のためにも、あのダンという男のためにも死んだだろう。しかしお前のために死ぬことはなかっただろうな」
辰は老人の腹を蹴った。数か月前に生死の境をさまよっていたとは思えないほどに鍛え上げられている。病院ではさぞいい暮らしをしていたのだろう。
辰が尋ねる。
辰は沈黙した。アブドゥルアジズの次の言葉を待った。
辰は李——
風が一段と強くなった。巻き上げられた雪があたり痛い。
アフマドが車から顔を出し、まだ掛かるのかと大声で尋ねてきた。辰は答えない。
辰は片桐についてこれ以上聞きたいと思わなかった。名前を聞くだけで胃が痛くなってくる。
遼子は普通ではなかった。辰はそれを否定できない。彼女を壊したのは内戦、それと日本という社会だ。
「作戦成功後にアレクセイら正統を主張するエヴァ・ハラリ信奉者とのパイプとして機能するからだ」
辰は足元から大きな石を一つ拾い上げた。恐ろしく冷えている。振り落とし、アブドゥルアジズの頭を叩き潰した。雪が赤く染まった。
*
トラックが夜の雪山を下っていく。ヘッドライトの二筋の光が闇の中に銀世界を照らし出す。どこも岩がちだ。もしかすると月面の景色はこんな風かもしれない。ラジオは既に放送を終了し、アフマドの携帯から流れるダンスミュージックに役目を引き継いだ。
慣れない雪道でアフマドはしばしばハンドルをとられている。その度にフロントガラスの向こうで光線が揺れる。
ラジオが唐突に何かの音を拾った。アフマドは車を止めヘッドライトを消す。耳を澄ませる。うっかり何かの通信を拾ったかもしれない。
甲高く鮮明な音声。
アフマドは呆れかえった。
女児向けアニメのような曲が短く流れてから、ラジオは完全に沈黙した。
*
ダンの家に着いたのは昼過ぎだった。ひどく疲れを感じるのは長い移動のためばかりではない。この手で人を殺したことの生々しさが今になってはっきり感じられてくる。ふと、機械の力を借りずに人を殺したのはこれが初めてだと気づいた。辰は塀の内側にトラックを停めた。
ダンは庭で女の子をあやしている。
李・マイケル・カーチスが来ていた。いわゆる魔法少女のような服装で。
李が座る席の後ろには絵画が掛かっている。車窓で見たものとよく似たルーマニアの景色だ。テーブルを挟み向かい合う位置にダン。緑のワイシャツがいつも通りよれている。数日間髭を剃っていないらしく顎が栗色の柔らかな毛に覆れている。辰は彼に対して初めて犬っぽさを感じた。辰と向き合う位置にエヴァが座っている。座面が高いものだから足が床に届いていない。退屈そうに辰の顔を覗き込んでいる。背後に窓があるから逆光で表情が薄暗く見える。光と影の具合がレンブラントの絵画に似ていた。男の子は遊びに行っているらしい。女の子はどこかに隠れてしまった。
エヴァがこくりと肯いた。
ダンが尋ねる。
ダンがため息をつく。
辰とダンはエヴァを見た。少なくとも外見上は特殊な所のない子どもだ。
エヴァの声は細く軽やかだった。
彼女は首を横に振った。
辰が尋ねる。
李は深く肯いた。
辰は遼子のことを思った。もし何か大きな偶然がはたらいて
ダンが席を立ち棚の上に積まれた書類の山を崩した。あのときの
李の発言を辰が遮った。
辰は
ダンが言った。
エヴァが呟いた。窓の外では風が強まり砂ぼこりが立ち始めていた。砂粒が壁や天井を叩く音がする。ものの数秒で暗くなった。ダンが立ち上がり照明をつける。黄色い光が落ちる。部屋の四隅に闇が浮かび上がる。
ダンは黙った。彼はテーブルをしつこく指で叩いた。葛藤を言語にしつつある。
ダンの拳がテーブルを揺らした。
固めてある口髭を、李はぴんと弾いた。
*
道は白く木々は青い。開けた視界を商用車が時たま横切っていく。辰はスニーカーの底でなだらかなアスファルトを感じながら車道を渡る。衝突を避けるために縁石が途切れ途切れに赤く塗られている。それを跨いだところに坊主頭で体格のいい東洋人が佇んでいる。
辰たちはヘブライ大学に来ていた。陸郎は研究の過程でエヴァ・ハラリを名乗る人物が片桐の思想形成に多大な影響を与えていることを突き止めていた。彼女は謎の多い人物で、その経歴についてはこの大学の理学部を卒業したということと製薬会社の研究員を務めていたことがあるということしかわからない。なんにせよ、陸郎はそう説明する。
エヴァ・ハラリを名乗った女性——辰は彼女の本来の名がハンナであることを知っている——の背景には辰も関心がある。彼女は片桐、遼子、双子、アレクセイの全てに関係する核心的な存在だ。陸郎がここを訪れると聞いて辰はすぐ同行を申し出た。アブドゥルアジズを殺してから二週間が経っていた。
辰は、構内の景観に京都もラッカもオデッサも見出すことができた。それと調和するように、目に入る学生たちも人種的に多様だ。
陸郎が腹鼓を打つ。無数の六角形を貼り合わせた塔のような建築が二人の前に聳えている。理学部棟だ。
外観の複雑さの割に内部の構造は平凡だった。辰らは段と段の間から階下が透けて見える階段を八階まで登った。エレベーターは機材の搬入に使われている最中だったから乗れなかった。モノクロの廊下を突き当りまで進んだところに目的の研究室があった。
*
女性はヒルシュ教授と名乗った。歳は既に九十に至っているはずだが、時間を冷凍してしまったかのように若く見える。スラブ的な要素が濃く出た顔つきだ。辰は彼女の右手が人工皮膚でカモフラージュされた義手であることに気付いた。よく見ると顔の右半分に火傷の跡がある。何か大きな事故に巻き込まれた過去があるらしい。
ヒルシュ教授は
*
開放的で清潔感のある造りの建物だが、食事の場としては明るすぎるかもしれない。辰はピタパンをひよこ豆のペーストに浸したものを漫然と食べている。辰らが居座っている場所は学生食堂だ。
黒い長髪の女性が視界の隅に映った。辰はそちらへ意識が引かれる。
辰が勢いよく立ち上がったので、椅子が音を立てて倒れた。いましがた再び視界に入ったあの黒い長髪の女に、辰は動揺していた。
辰は女を追って建物を走り出た。
*
女の横顔は遼子そのものに見えた。白い広場に立ち人込みを注意深く見渡す。無数の顔が飛び込んでくるが、あの力強い目は見つからない。太陽の光を受けて噴水が銀の光をちらつかせている。夢だったのかもしれない。自分の目はカメラではないのだから、精神の状態によっては無いものが見えてしまうこともある。辰はそう考えた。アブドゥルアジズの件でまだ無意識に動揺しているのだとしても不思議ではない。
敷地の南端まで歩き、パラソルと椅子が並べてある場所に出た。アルミニウム製のフェンスの先にエルサレムの東西が見下ろせる。大学があるのは新市街からやや離れた丘の上だ。辰はアルミの横棒に腕を組んで乗せた。下は地層がむき出しの五、六メートル程度の崖になっていて道路が通っている。バスが正門側から続く緩いカーブを抜けてきて停まった。停留所の周りにたむろっていた学生たちが乗り込んでいく。辰はその中に黒い長髪の女を見出した。フェンスを乗り越え、崖を滑るように降りた。バスは既に出発し五十メートル以上先を走行している。よく整備されている上に交差点の無い道だから、バスはみるみる加速していった。丘を下りきり新市街の幹線道路と接続したところで辰は息が切れてしまった。
エルサレム新市街は経済的にそう裕福ではない様子だった。建物は総じて石造りかそれを模した外装の鉄筋コンクリートで面白みに欠ける。清掃が行き届いておらずあちこちの吹き溜まりでプラスチックの破片が小さな山を成している。黒い衣装に身を包んだ人々が無数に街を歩いている。辰は気分に任せ茫然と通りを下った。車が増え商店が目立つようになっていったから自分が都心の方へ向かっていることは明らかだった。狭い路地に入り、何度か袋小路に突き当たった。林の中に出た。墓地だ。辰が通ってきたところだけ塀が途切れていて、住宅街と繋がっている。
縦に長い石碑状の墓石がぎっしりと並んでいた。風化し苔むしているものが少なくない。薄暗く湿っている。日本の墓と違うのは花が手向けられていないということだ。代わりにあちらこちらで石が積んである。それで遺族の来訪を告げるらしく、新しい墓ほど石の数が多いように見える。真新しい墓の前で一人の少女が佇んでいるのを、辰は見つけた。石は二つ三つ積んであるばかりだ。墓参りがまだそう何度も行われていないほど最近の死者なのだろう。少女は立ち去ろうとして辰の方を向いた。知っている顔だった。オデッサで会ったもう一人の少女エヴァだ。
少女は後ずさった。襟の詰まった黒いシャツと長いスカート。この区画の住民たちと同様の、戒律を遵守した装いなのだろう。エヴァの場合にはそれが元来の品の良さと相まって神聖なくらいに見える。
エヴァの首元には遼子の義眼が掛かっていた。光が木々に遮られている中で、それだけが明るい。肉体から離れた精巧な眼球は呪術的に見える。
エヴァは墓石を撫でた。刻まれているのはヘブライ文字だから、辰には読めない。
車が砂利を踏む音が響いた。辰が来たのとは反対の方向に鉄格子の門がある。そちらが本来の入り口で、駐車場も備えているらしい。
エヴァは辰の手を引いた。
*
路地さえない建物の隙間を自在に走り抜けた。エヴァが本当にこの土地で育ったのだとわかる。彼女の選ぶ道は何食わぬ顔で私有地をすり抜ける子どもの道だ。こんな地図を描くことができるのは子どものうちだけなのだ。幹線道路を突っ切って巨大な白い壁にぶち当たった。門をくぐる。使用されている言語がアラビア語に切り替わった。旧市街に入った。
観光客でごった返している市場を抜けた。隙間なく吊るされた絨毯や衣服が形作る色彩の混沌。そこかしこの看板にアラビア語とヘブライ語が併記されている。二人は生活区域に入る。何度も建物の下をくぐったり天井を走ったりした。地上を走っていたはずなのにどこかの建物の屋上にいることが一度や二度ではなかった。古いエルサレムは遺跡を基層として取り込み、それに覆いかぶさるようにして建設されてきた層状の都市だ。立体的な迷宮の中でいくつもの時代が交錯している。オリーブの木が一本植わっている中庭でエヴァはやっと足を止めた。四角く切り取られた空から注ぐ陽光が眩しい。
エヴァは壁にもたれかかり息を整えようとする。正午だから日陰が無い。
エヴァはうつむいて膝に顔を
エヴァの声が崩れた。涙がスカートを濡らしている。
辰はアリーのことを考えた。SDCFに身を置いている間、自分は彼を目指していたはずだ。その目標は曖昧なまま放擲されている。アリー的であるとはどういうことか、まだわからない。
沈黙が訪れた。風は無いが、雑踏の振動でオリーブの葉が揺れる。
辰はその場でエヴァを見送った。まずは体を休めようと思った。陸郎に連絡する必要もある。しかし、彼の思考は悲鳴によって中断された。
辰が駆け付けたときには曲がり角の先でエヴァが作業服の男二人に取り押さえられていた。
エヴァが叫んだ。辰は男に掴みかかる。重い右ストレートが辰の頬をすり抜ける。空振りして重心が動いた瞬間に辰は投げ技を掛けた。巨体が固い床に脳天から落ちる。もう一人の男が拳銃を抜いた。
自分を押さえつけている男から拳銃を奪おうとエヴァがもがく。
辰はエヴァたちに背を向けた。しかし、新たな銃口が辰の方を向いた。来た角から出てきたのは長いコートを着た赤髪の美青年だ。
アレクセイが発砲した。右の腿を貫かれ辰はその場に崩れ落ちた。辰は痛みで叫んだ。エヴァがヘブライ語で兄を非難する。アレクセイは聞く耳を持たない。ロクサーナが死んだ。その事実で目の前が真っ白になる。
辰は痛みに耐えて言った。
アレクセイが声を荒げた。
辰はムキになって叫んだ。アレクセイがもう一度発砲した。左脚だ。血が噴き出した。
辰が凄まじい音量で叫んだのでアレクセイはたじろいた。
アレクセイの声は細く震えている。
「そうやって与えられたものに固執する態度に文句を言っているんだよ僕はあ」
絶叫し、意識が遠のいた。血を失いすぎた。朦朧とした意識が途切れる前に、ピンクの白鳥が急降下してくるのが見えた気がする。
*
暗く埃っぽい部屋で目を覚ました。陸郎が足の包帯を新しいものに代えている。最初に会ったときと同じ赤ずくめの格好で李がベッドの横の椅子に座っていた。
言われてみれば確かに部屋全体が振動しているらしい。
陸郎は考え込んでいるように見えた。全く思いがけなかった事態に唐突に放り込まれ、自身の研究に関連する事実を奔流のように浴びせられたのだ。その衝撃は想像を絶しているだろう。
辰は李に尋ねた。
天上に吊るされているスピーカーからアフマドの声が落ちてきた。
李がベッドの下からアルミケースを取り出した。すぐにエンジンを始動する。カメラが映し出したのはテルアビブへ続く国道の映像だ。機首は車の進行方向を向いている。
車の速度を借りて白鳥は機首を前に向けたままほとんど垂直に上昇した。地平線が猛烈な速さで遠ざかっていく。ベン・グリオン空港を視界に捉えた。滑走路に既に離陸態勢のムリーヤが見える。
数秒のうちにプロペラの回転数が最大に至った。
赤く鮮やかな曳光弾が白鳥の胴を掠めた。ローリングを利かせ軽業師のような動きで回避行動をとったのはほぼ同時。対空機関砲に換装された蟻蜘蛛が何基も丘に張り付いている。
辰は機体を田園に滑り込ませた。高圧電線の下を潜り木々の隙間をすり抜ける。空港の敷地を覆うフェンスをほんの数十センチ上で跨いだ。ムリーヤは滑走路上で巨体を緩やかに加速させつつある。白鳥はその尻についた。ムリーヤの背中には鉛筆状の物体が担がれている。
白鳥がムリーヤの背中をめがけてミサイルを放った。しかしその軌道は大きく曲がり、右主翼外端のエンジンを直撃した。ムリーヤは加速を止めない。
李が拳を床に叩きつける。
辰は機体の進行方向を保ったまま機首を限りなくムリーヤの側へ向けた。機体は水平方向に百八十度回転しながら巨体の側面を通過、ムリーヤの操縦室が銃口の真正面に入る。
辰にはその一瞬の光景が引き延ばされて見えた。既に引き金は引かれていた。彼の入力を受け、アルミケース型の操縦装置に搭載されているコンピューター上で射撃管制プログラムが走った。プログラムはカメラや赤外線といった各センサーから送られた情報を読み取り照準修正の値をはじき出す。白鳥はレーザー通信でその値を受け取り、銃口の方向を機械的に微調整した。マガジンから薬莢が供給され、弾倉内で火薬が発火する。全てが自動的に、一瞬のうちに行われた。
アレクセイとエヴァが撃ち抜かれていた。操縦室が血に染まっている。白鳥はムリーヤの頭に衝突して砕けた。送られてきた映像はそれで終わりだ。
李の言葉にアフマドが答えた。車は既にベン・グリオン空港の手前まで来ていた。ムリーヤが二か所から煙を上げながら飛び立っていくのが北の空に見える。
李の満足げな表情が辰に醜く歪んで見えた。
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