第3話
砂漠を貫く高架線が眼下に見える。長方形の視野は高架線を外れ黒ずんだ荒野へ切り替わった。その中心を塗装の禿げた古いジープが低速で走行している。赤文字の警告が表示された後、小刻みな衝撃で視野がわずかに震えた。ジープは停止した。山繭蛾の機銃がジタイヤを撃ち抜いたのだ。
装甲車がジープの横に停まった。降りてきたのは辰と眼鏡だ。眼鏡はジープの車内へ銃口を向け、乗員たちに武器を捨て降りるよう呼びかける。三人の男たちが両手を頭の後ろに回して熱い砂の上に伏した。
三人組のリーダー格らしき男が答える。
ジープの荷台を調べながら辰が言った。
眼鏡がわざわざ男の耳元で叫んだ。男は表情を変えない。
辰は砂を払うように胸の前で二度手を叩いた。二人の間で決めてあった交代の合図だ。アフマドは男たちへ銃口を向けながら退いた。代わりに辰がリーダー格の男の横に立った。
眼鏡が辰の袖を引いた。
辰の心拍が速くなった。片桐を知る人物にはいつか出会うと覚悟していたが、それが今だとは思っていなかった。
辰は男の目を見ている。視線を離せなかった。暑さと同時に体の芯が凍えるのを感じた。
*
同時刻、駅の監視カメラに映る不審な人影をダンが見つけた。彼は駅の警備部によく通っていて内部の人間とほとんど変わらない。そういうわけだから改札の記録を照会するのも監視カメラの映像を確認するのも、面倒な手続きを踏まずに迅速に行うことができた。ダンが見つけた不審な人物は十二、三歳の少女だった。そのくらいの年の子供が一人で高速鉄道に乗るというのは明らかに特殊だし、彼女は手荷物をもっていなかった。当該車両は辰たちの場所にほど近い線路上で緊急停車した。
車両内はざわついていた。辰は武器としてベレッタ社製の拳銃だけを隠し持っている。もしいつものようにAKを引っ提げて来たならばそれが却って混乱を生むからだ。装弾数は九。距離十メートルで的が動くとすれば命中率は十パーセント程度だから全部撃ち尽くしても当たらないかもしれない。アリーのような人物でもなければ無管制射撃の拳銃はお守りに過ぎないのだ。赤いヒジャブは四両目にいた。ひどく震えていて唇が青い。辰はすぐにそれが恐怖のためでないことに気づいた。アブドゥルアジズの反乱から三年間、無数の小さな案件に関わる中で恐怖による震えとそれ以外とが見分けられるようになっていた。辰はすぐに一つの可能性に思い至った。
辰は少女の脇の下に自分の肩を入れて彼女を立たせた。少女は抵抗しなかった、というよりはほとんど意識がないらしかった。辰はいつでも拳銃を抜けるように姿勢を調節しつつ、背後から少女のみぞおちを強く押し上げた。少女は嘔吐した。その吐瀉物の中に粘土状の爆薬が無数にあった。二キロもあれば車両一つを吹き飛ばすくらいの威力は出る。舐めれば中毒を起こす物質であることを辰は過去の事件から知っていた。通路に垂れたものはそれと胃液だけだった。辰は少女の体が怖ろしく軽いことに気づいた。
*
男たちは警察へすっかり引き渡された。辰と眼鏡には仕事終わりの爽快感だけが残った。ラッカの警察署は冷房がよく効いていて既に用事が済んだのに居座りたくなる。受付前のソファに深く身を沈めて欠伸をする辰に警部が声をかけた。辰は仕事で幾度もここを訪れる内に知ったのだが、この警部こそ遼子の義眼を辰にこっそりと渡した人物なのだ。辰はその義眼を今このときも首から下げて持ち歩いている。ダンを含め他人に見せたことはない。
大柄な警部の背後から少女が顔を出した。顔色は戻っているが慣れない場所へ連れてこられた猫のように辺りを見回しては縮こまっている。改めて見るとやはり病的に痩せている。長い期間まともな食事をとっていなかったのだろう。
警部は廊下の奥へ去っていき、二人の前に少女が取り残された。
辰が訊いた。少女は辰の目を見つめ、それから細く小さな声で答えた。
アフマドが握手を求めて手を差し出した。エヴァは背中で両手を組み応じなかった。それからまた一言も喋らなくなってしまった。辰とアフマドは仕方なく彼女を乗せて帰った。
*
夜の薄暗い部屋で電話越しに陸郎が言った。辰は振り込まれたばかりの給料であれこれの買い物をしてから寮へ帰り、オンラインで陸郎と囲碁を始めたところだった。そういう場合にはネット電話を繋いでおくのが通例だ。盤面は陸郎がいくらか優勢だった。陸郎は自分が有利になってくると関係のない話題を振りがちだ。心理的な効果を狙ったものなのか、あるいは単に無意識なのかわかりかねるが、辰はそのたびに自分がやや苛立つことに気づかないわけにはいかない。そんなことで腹を立てるのはあまりに気が小さいようにも思うのだが、同時に陸郎が相手なら自分の感情が漏れ出てしまっても構わないという気持ちもあった。
盤面上で陸郎は堅実に辰を追い詰めていく。
辰は黙った。陸郎はマイクにあーあーと声を入れて機器や回線の不調でないことを確かめた後、やっとそのことを理解したようだった。
その論文は|UNICONCEPTで書かれている。日本語に書き下しても知らない単語があふれていて意味を取るのに苦労する。最新技術に頼ったところで母語でない言葉を理解することは本来こんな風に苦しいものだと辰は思った。懐かしく新鮮だった。シリアの言葉はもはや辰にそんな気分を起こさせなくなっていたから。しかしそれより辰の印象に残ったのはその論文の著者名だった。エヴァ・ハラリとある。ありきたりな名と聞きなれない姓のこの組み合わせが、そうしょっちゅう出会えるものだとは思われなかった。
辰は陸郎の話を聞きながら論文を読み進めた。
盤面は完全に陸郎に支配されていた。もはや勝機はないが、辰は無理にでも粘りたい気がした。
辰は日付が変わるあたりで投了した。
*
辰の新しいデスクも三年間の使用の間に小傷まみれになっている。アブドゥルアジズの反乱での活躍にもかかわらず北方部隊の再建された事務所は前より規模が縮小されていた。
誰もがその宣言に安心とも納得ともつかない感情を覚えたらしかった。辰は自分の身の振り方を考えた。なんにせよ日本へ帰るつもりはない。かといってダンのように高速鉄道と共に生きてシリアに骨を埋める意思もない。今は酷暑がやっと過ぎようとする九月で年度末まではまだ三カ月ある。その日の業務が終わってからダンが訊いた。
その話題はそれで終わった。考えてみれば過激派幹部との会話をダンが聞いていたのは当然だった。山繭蛾ごしに映像も見ていただろう。ダンは帰り支度をしている。小学校から帰ってきた兄妹とエヴァが家で待っているのだ。辰は金槌で頭を殴られたような心地がした。自分よりずっと長い間アリーと運命を共にしてきたダンにそう言われてしまっては、自分が築き上げてきた彼についての解釈がひどく間違っているような不安に襲われないわけにはいかない。アリーとはそういう人ではなかったのか。自分はもしかすると歪んだ偶像を崇拝してきたにすぎないんじゃないだろうか。辰はそう思った。神をとっかえひっかえするインスタント信仰からはもう足を洗ったはずなのだ。しかし彼の最期に立ち会ったのは自分であってダンではない。思い出したようにダンが言った。
ダンは鞄の中から
書かれていたことは次の通りだった。黒海監視団はクリミア半島の所属を巡るロシア・ウクライナ間の衝突が黒海沿岸諸国に飛び火することの防止を目的として、ウクライナの加盟と同時にNATOが八年前に派遣を開始した。シリアに親米政権が立って中東の懸念が消失しアメリカの軍事予算に余裕が生じたということ、またEUの弱体化がロシアの膨張を招くという懸念がその背景だ。もっとも当初はあくまで制御の効く緊張状態だった。当時のロシア大統領は二十一世紀到来以来ずっとロシアを牽引してきた強権的ながら有能な
辰は黒海監視団構成員の名簿に目を止めた。
辰は少し逡巡してから例の論文をダンに見せることにした。出先で読もうと思って
*
オデッサへの便はテルアビブから出る。辰は高速鉄道でダマスクスへ向かい、あの塔へ行く道をさらに西に向かってレバノンへ出た。レバノン・イスラエルの国境は特に警備が厳重だが、教養ある
アフマドの言った通り空港には広く滑走路が見渡せる展望デッキがあった。無数の飛行機がひっきりなしに着陸しては離陸している。にわかに騒がしくなった。辰は今まさに着陸しようとしている機影がムリーヤであることを悟った。フェンスに近づき携帯のカメラを向けようとすると、太い腕が辰の胸を押した。辰は後ろへ倒れそうになった。辰を押したのは迷彩服を着た屈強な男性で、辰に限らずムリーヤを撮影しようとした人々はみな同じ格好の連中に妨害されている。彼らは展望デッキ上の人々を追い出そうとした。辰は無性に腹が立ちどうしてもムリーヤを撮影してやろうという気になった。着陸と同時に滑走路の異常による遅延を知らせる館内放送が流れた。ムリーヤほどの重量の機体が降りればそんなことも起こるのかもしれない。それならば、と辰は決心した。市街の側に回り込めば裏から撮影できるかもしれない。時間に余裕ができたのだからそれも可能だろう。
辰は空港の建物を飛び出した。タクシーの後部座席から彼を呼ぶ人がいた。
チェロのA線のような声だと辰は思った。つまり圧迫感のある高音だ。辰はその人の横に乗った。目元はサングラスに隠れていて見えない。裕福そうな身なりをしている。年齢は二十代の終わりくらいだろう。近くで見てやっとその人が男性だと気づいた。静脈が透けて見える白い肌はなめらかでやや巻き毛気味な赤髪を低い一つ結びにしている。香水だろうか。林檎の匂いがする。車が発進した。
林檎の香水の人物は辰の知らない言語で答えた。ヘブライ語だろう。運転手が大きな声を出した。目的地に不満があるようなのだ。その人は運転手の様子を窺いながら短い言葉をいくつか発した。価格交渉であることは自然とわかった。
辰は確かに暇つぶしのためにそんな本を買っていた。
タクシーはほどなく空港の裏に着いた。市街と空港の間は農地になっていたが同乗者は構わずその中へ入っていった。作業中の農民は辰たちを気にかけなかった。高いフェンスの向こうにムリーヤが見えた。携帯の電子ズームでは画質が荒くなりすぎた。
夕日が沈んだ。これ以上の撮影はできそうになかった。
*
辰を乗せた飛行機は結局四時間遅れで出航した。撮った写真をアフマドに送ったが既に寝ているらしく反応がなかった。三時間飛行して真夜中にオデッサに着いた。誘導路上で米軍の電子偵察機が空港特有の痛いほどの照明に照らされているのが見えた。辰は徒歩でホテルを目指した。この時間ではバスも走っていないし市街地への距離はせいぜい数キロだからだ。
予約を入れておいたホテルは予想通り貧相だった。壁がすすけている。昼にオデッサの陽光の下で見たとしてもきっと汚らしいままだろう。受付の担当はベルで呼び出してから三分も経って来た。
受付は少しも申し訳なく思っていない様子でそう言った。そればかりかこちらの非を責めるようなことまで言われてしまっては辰は意気消沈するほかない。うなだれながら建物を出た。街の中心の方へ歩いてバーにでも入ろうかと考えた。オデッサの夜は肌寒い。どこからか林檎の匂いが漂ってきた。
声をかけてきたのは赤髪の人物だった。紛れもなくフライト前に出会った林檎の名探偵だ。辰は自分が彼と同じ便に乗っていたのだと気づいた。彼の搭乗口がエコノミークラスと別だったのだとすれば姿を見なかったことも不思議ではない。
厚意に甘えるほか選択肢はなかったが、辰は若い子という言葉に反射的に警戒感を覚えた。少し考えてみてそれが片桐の話し方に似ているからだと気づいた。こうも親切にされては二口目には善く生き善く死ねと言われるかもわからない。それにそんな言葉を使って違和感がないほど年が離れているとも見えないのだ。もっとも同じ直感はダンとの初対面のときにも感じて、そのときはすっかり大外れだった。だから自分の直感をあてにする気にもなれない。辰は林檎の匂いについて行った。
道中、そんな言葉を交わす。全くもってその通りだという気がした。
辰が連れられて来たのは外観を見て後ずさりするほど立派なホテルだ。皺と汗にまみれた自分の格好がいかにも場違いで恥ずかしくなる。チェックインは既に済んでいるらしかった。二人は建物の外を向いたエレベーターに乗った。街明かりの向こうに見下ろせる海は名前の通り底のない黒色だ。エレベーターは最上階で停まった。一フロアがまるまる部屋になっているから降りるなり鍵が必要だった。宮廷か何かのように豪華だ。林檎の名探偵はルームサービスを注文するために内線の受話器を取った。
辰は腹いっぱいに食事をとって寝た。ホテルのベッドは寮のものと比べ格段に心地よかった。
*
溶けるような白い光の中で辰は目を覚ました。枕もとの時計は緑色の字で今が八時半であることを示している。カーテンは開け放たれていて黒海が光を眩しく反射するのが見えた。辰はベッドの上に暫く座っていた。着替えようとして自分の首に遼子の義眼がかかっていないことに気づいた。辰は動転した。枕や布団をひっくり返しても遼子の目は出てこなかった。パスポートや財布はあった。アレクセイがいないことに辰は今更気づいた。遼子の目を盗む動機が彼にあるだろうか。あるとは思えないが、それ以外の可能性が思い浮かばなかった。辰は荷物をまとめて部屋を飛び出そうとドアを開けた。廊下から短く悲鳴が聞こえた。辰はドアの裏から様子を窺った。いるはずのない少女がいた。その少女はダンのもとにいるはずのエヴァと、あまりによく似ている。
少女は首をかしげたが
少女は見れば見るほどシリアのエヴァと瓜二つだが、こちらのエヴァはアレクセイと同じ赤毛だ。シリアのエヴァは黒い髪がヒジャブからこぼれていたような気がする。エヴァは部屋の中へ入ってきた。テーブルにお菓子を出して紅茶を淹れ始めた。
辰は二方向から身体を引かれるような心地がした。すぐにでも遼子の目を取り戻したいが、今ここのエヴァ・ハラリを名乗る少女を無視するわけにはいかない。辰は少女と朝食をとることを決断した。今日もこの部屋に泊まるというのならアレクセイは必ず帰ってくる。そのときに問い詰めるなりなんなりすればいい。エヴァは辰に赤い玉を手渡した。林檎だった。
エヴァは皮を剥きもせず直接齧りついた。装いや紅茶の淹れ方の上品さとその食べ方の幼さとが懸け離れていて愛らしい。
辰は時計を見た。黒海監視団の会議まであと一時間ほどだった。時間は危ういがまだ聞き出したいことはあった。
エヴァの言う通り彼女の顔には少し垂れた細長い眉や真珠の耳飾りの少女を思わせる広い頬といった特徴が確かにある。だからこそ辰はこのオデッサのエヴァとシリアのエヴァとが偶然以上に似ていると感じたのだ。
*
現実感のない日差しというものがある。あまりに明るくコントラストがはっきりしていて、自分の目が信じられなくなる。オデッサの昼はまさにそんな様子だ。空の色はシリアよりは日本に近いが、関西のそれではない。青が深い。
つい声が漏れた。最も奥の席——ウクライナにそんな概念はおそらく無いのだが、日本で言えば上座にあたる席——に赤髪の人物がいる。アレクセイ・カラマーゾフだ。
二人の言葉を理解したのは彼と辰の二人だけらしく見える。
議長らしい老齢の女性がひどく困惑しながらアレクセイに話しかけた。
議長は空の椅子を指した。そこに座れということらしい。下っ端が座る席には見えないがそこしか空いていないのだから観念するほかなかった。辰は部屋を見回した。予想に反して参加者の男女比は半々だが、平均年齢は六十に届きそうなほど高い。軍であれ官僚であれ、組織中枢の高年齢化は普遍的で世界的な問題だ。辰は左足に鋭い痛みを覚えた。隣に座る肥満体の男から踏まれていた。
辰は囁き声で言った。肥満体の男は舌打ちをした。
イヴァン派が抗露パルチザンに資金と武器を提供していること、抗露パルチザンはクリミア半島のウクライナ復帰のみならず同地域が二度と領土的野心に晒されることのないようにロシアの非武装地帯設置を要求していること、イヴァン派の軍部がそれを拒んでいること、これらは全て空論に過ぎずロシアの最高権力者はドミートリー・カラマーゾフであるという確然たる事実があることなどが話し合われた。驚いたことは会議に参加する民間企業の多さだ。食品や燃料の補給に関するものばかりでなく、憲兵や病院にあたるサービスの提供、そのほか多くの非常に抽象的な商品を販売する連中が自らを売り込もうと躍起になっている。会議はまるで見本市のような様相を呈した。辰は特別顧問なる肩書がこれら民間企業の監督を指すものであることを知った。陸上の
スクリーンに山繭蛾や白鳥を映した映像が流れた。映画のように高度な技術で撮影されている。無人機を飛ばしさえすれば人間はいらないという解説を聞いて辰は呆れた。無人機と連携して動く
文官らしきスーツ姿の女性が言った。
肥満体はイヌワシの紋章の武官に目配せした。ウクライナ側からの出席者らしい。
白髪の女性が言った。
肥満体は二人をなだめようとしてあたふたしている。辰は向かいの席で四十代に見える短髪の男が頬杖を突きながら退屈そうに話を聞いているのを見つけた。ルーマニア軍のワッペンだ。黒海を共有するルーマニアにとってクリミアの事情は無関係ではない。ブルガリア、ギリシャ、トルコからも軍が派遣されている。アメリカ代表は見えない。
ウクライナの武官が訊いた。
辰が会話に割り込んだ。視線が彼に集まる。
武官が訝しげに尋ねた。
会議室全体の雰囲気が明るくなった。
肥満体の男が叫んだ。
辰はその可能性を考えていなかった。今回の敵はガザルや過激派とは比べ物にならないほど技術水準が高い。しかし、その心配が杞憂にすぎないことは明らかだった。
肥満体は辰の胸ぐらを掴んで破裂しそうなほどに叫んだ。
辰の言葉を聞いて肥満体は怒りで紅潮した顔を会議に集った面々の方へ向けた。刺すような目がいくつも肥満体を見つめている。
肥満体の顔がさらに赤くなって朝食べた林檎のようになろうとした瞬間、向かいでルーマニア軍の将校が立ち上がった。
肥満体は辰の胸から手を離した。
*
辰は秋の匂いを嗅いだ。シリアに秋らしい秋などは無かったからとても久しぶりの感覚だ。辰とルーマニア軍の将校は停留所までの道を一緒に歩いている。
ボグダンは短躯で、並んで歩くと辰が見下ろす格好になる。ダンが胡瓜だとすればボグダンは茄子に似ている。耳の形を見るに柔道かレスリングの経験者かもしれない。ベルリンの本部から出てきたというSDCF営業部長は辰に対して言いたいことがあるらしかったが、会議終わりに辰とボグダンが話し込んでいるのを見て悔しそうに去っていってしまった。
二人が停留所に着いたところで空から轟音が鳴り響き始めた。同じ駅でアレクセイもトラムを待っていた。アレクセイやボグダンのような要人がなぜ公共交通を使うのかと辰は考えたが、答えは明らかだった。オデッサの中心は車が入れないようになっている。
ボグダンが訊いた。
ムリーヤの巨体が空港へ降下していった。辰はその姿を写真に収めた。
辰は昨日の写真にアフマドから反応が来ていることに気づいた。彼が送ってきた文にはもっといいカメラで撮れとある。面倒な奴だと思いながら辰はいま撮った写真を送った。
*
高校生だったころ、辰は福岡から釜山までフェリーに乗ったことがある。目が見えなくなるくらいに海が眩しかった。向こうにいる親戚が彼を泊めてくれることになっていた。風はさほど強くなく波も低かったが、大きくゆっくりと船体が揺れ金属が擦れ合う重く耳障りな音が響いた。初めて踏んだ大陸の大地は大阪と何も違うところが無かった。政治的に分断されているとはいえこの地面がはるか中東やヨーロッパ、アフリカへ続いているということが衝撃的な事実として感じられた。文字も言葉も全くわからなかった。辰は地下鉄とバスを乗り継いで辛うじて親戚がいるという住所へ辿り着いた。無人だった。いや、そればかりか、そこは更地だった。預かっていた番号は繋がらなかった。辰は途方に暮れた。
*
技師のリョーハは愛用のスパナを弄びながら大きな声で訊いた。禿げ上がった長身痩躯の男だ。歯並びが悪い。
大きく揺れた。辰はボグダンのフリゲートで黒海沖へ出ているところだった。海には他に最低限の兵だけで運用されている半自律哨戒艇がずっと離れた位置に複数。少数の大型艦が幾つかの自律艦を従えるのが流行りなのだという。人を減らしたがる点では海も陸もそう違わない。白鳥の映像から今の波が八メートルの高さだと分かった。
艦内回線でボグダンが訊いた。機密情報の多い中央指揮室に民間人を乗せることはできないからと辰は機関室に自分のスペースを与えられていた。リョーハはカタパルトとアンテナの設置を手伝ってから辰にずっと絡み続けている。
リョーハ曰く彼は北の国境の出身でウクライナの血が濃く流れている。工業学校を卒業後、衣食住が保証されるからと海軍に入り技師を勤めてもう二十年。精神的故郷と信じるウクライナの危機に居ても立ってもいられず志願して黒海監視団に派遣されたのだという。辰が自分の韓国旅行の話をしたのはリョーハの経歴と自分のその経験とがなんとなく関連するような気がしたからだった。
白鳥を操作するためのアルミケース型の端末が警戒音と共に光った。何かの姿を捉えたのだ。小さなボートが四人の男女を乗せて海上を漂う映像が送られている。リョーハの話を中断させるいい機会だった。辰はリョーハにウクライナ語の教えを乞うたつもりはなかった。先日のホテルでの出来事をリョーハに話したところ、意図しないことに彼はウクライナ語を半ば母語として話す人物で、ありあまる愛郷心から辰にそれを教え始めたのだ。
ボグダンは英語とウクライナ語でボート上の人物に呼びかけた。白鳥には指向性の拡声器とマイクとが搭載されていて、上空を旋回する白鳥から声をかけられると何か超自然的な存在と対話しているような妙な気分になるらしい。辰にとっては初めて使う装備だがこれを送ってきた営業部長曰く予算の潤沢な地域では既にかなりの運用実績があるそうだ。
ボートの乗員たちがなんと答えたのか辰にはわからなかった。しかしリョーハが彼らを不審がっていることは目を見れば明らかだった。
辰にはリョーハの考えは傲慢だという気がした。アイデンティティと言語とは必ずしも一致するものではない。アリーのガザル語はあのときに一度聞いたきりだ。ボグダンの命令で辰は白鳥からワイヤーを射出した。ボートの乗員はそれを船首に括り付け、三十分かけて艦まで曳航されてきた。彼らのボートは底にひびが入っていて水が漏れるらしい。さっきの大波にやられたのだろう。白鳥に発見されなければ直に沈む運命だった。艦へ引き上げられた四人に機関長補佐で少尉のダニエラが毛布を掛けた。ウクライナ国家国境庁から派遣されている準軍人の役人が彼らに対し聞き取りを行うという。ボグダンは医務室の使用を許した。ルーマニア軍もSDCFも結局のところは部外者で、今はウクライナの国家権力を最高の秩序と位置付けておかねばならない。辰は甲板に出た。情報はSDCFの資源だ。辰は彼らがどんな連中でどんなボートに乗っていたか、そういった細部を記録しておく必要がある。
潮風に金髪をたなびかせながらダニエラが言った。彼女は役職上必然的に辰やリョーハと顔を合わせることが多い。ただでさえ姉御と慕われ強く信頼の厚い人物だ。この艦に乗り込んでからの三日間に辰はこの女とずいぶん親密になっていた。
辰はふとアリーに遼子以前の妻がいた可能性に思い至った。あの年なら大いにあり得ることだ。死別だろうか。いや、彼はガザルの共同体の中に妻子を置いてきたのかもしれない。アリーという人がわからなくなる。
*
ちょうど昼時だった。食事は交代制で艦の機能を止めることのないように二つの班が順に食堂へ集まることになっている。辰はどちらの班で昼食をとってもよいと言い渡されていたのでリョーハとともに早い時間に食べてしまうことにした。出てきた肉は美味そのものだった。先日の会議に出ていた企業のどれかが提供しているのだ。士官ばかりで兵が少ない。割合はほとんど一対一といったところではないだろうか。ここにいるのが半数だとすれば乗員は三十人くらいの人数に収まるかもしれない。いかにも近代海軍だ。
リョーハは四人の食事を器用に持ってボートの連中のいる医務室へ向かった。自分のものも含めて五人分も余計に食事を出せることに辰は驚いた。ボグダンは部下と談笑しながらスープを啜っている。こんな風な親しみやすさは黒ボスことボグダンとボスことダンの対照的なところだ。アルミケースからまた警戒音が響いた。辰は両隣に断ってそれを食卓の上で広げる。興味を持った士官たちがわらわらと辰の後ろに集まってきた。見られてはまずい情報も表示されているのだが、どうにもならない。カメラを三六〇度ぐるりと回しても影はなし。
白鳥が撮影してあった写真には西洋の
*
銃声が一発。食堂が静まり返る。廊下があわただしくなった。またいくつかの銃声が続く。誰かが
照明が落ち食堂の扉が破られた。艦体が激しく振動する。連続する銃声。辰は闇の中で襲撃者とすれ違うようにして廊下へ逃れた。ガスマスクの視野は狭いが、敵がカービンライフルを持っているのが見える。ボートの連中じゃない。辰は躓いて倒れた。確かめる間でもなく味方の死体だ。音で気づかれた。立ち上がった辰の足元を誰かが撃ち、死体から噴き出した血が辰にかかる。敵はそれを辰と思ったのだろう。銃撃は続かなかった。辰は壁を伝って走ったが、天に見放された。壁があると思っていたところには何もない。さっきの転倒で自分の位置を見失っていたことに気づく。辰の手は空を掻いた。
足を止めた辰の目に怪談めいたものが見えた。首のない犬が目の前を横切ろうとしている。
ダニエラが艦橋の屋根に上っていた。犬はさっきの銃撃で破壊されている。近接戦闘支援用の無人機だろうか。そういったものはマイナーだが確かに存在している。しかし、この犬は火器を積んでいない。運搬させる荷物だってない。
ダニエラが左舷を指した。平たい機体が接舷しているのが見える。白鳥が撮影した
ダニエラはまた甲板を射撃した。辰から見えない角度に敵がいる。
艦内は戦闘が激しく戻れそうになかった。辰は
*
艦内は一転して静まり返っている。辰は銃口と鉢合わせた。辰の拳銃も相手の胸を狙っている。男は拳銃を降ろした。ガスマスクをつけていても背で分かる。ボグダンだ。
ボグダンが指差した先に梯子がある。
ボグダンは呆れて首を横に振り辰から
『使い方がわからない武器を持っていても怪我するだけだ。俺のを持っていけ。これは俺が預かる』
辰はボグダンの自動拳銃を受け取った。射撃管制システム付きの真新しいものだ。
辰は梯子を降りた。直後、複数の銃声。弾は梯子の上辺に当たり激しい振動と甲高い音が辰の主観を支配する。医務室のドアの手前でリョーハが倒れていた。額を撃ち抜かれている。それと医務室の中に国家国境庁の女性。これも死んでいるだろう。倉庫には人が隠れられる隙間があった。辰はそこにぴたりとはまった。当面そこに潜んでいることにした。あの
どれほどの時間ここにいなければならないだろうか。辰は絶望的な気持ちになった。それから急にリョーハが可哀そうに思われてきた。死んでしまうとわかっていたらもっと真剣に彼の話を聞いてやりもしただろう。しかし、いつどこで誰が死ぬかなど予め知ることのできるものではない。アリーが昔そんなことを言っていた気がした。いや、彼は言っていなかったかもしれない。あの日から遠ざかっていくほどに遼子の像ははっきりとしていくのに、アリーはぼやけていく。辰にはそれが気に入らない。アリーならこの状況でどう動くだろうか。辰は茫然と考えた。
銃声が止んだ。制圧されきったのか。上の層からルーマニア語が聞こえた。それは間違いなくルーマニア語であって、ロシア語やウクライナ語ではない。区別がつくのはリョーハのお陰だと気づいた。おそらくだが、<ukr>
白鳥は艦からおよそ四十キロ東の洋上で旋回している。辰はまず白鳥を陸へ飛ばして助けを呼ぶことを考えたが、それには燃料が足りなかった。ならば直接こちらを攻撃させて隙をついて艦を取り戻すということになる。しかしそれには白鳥の装備はあまりに貧弱だ。シリアで飛ばした高火力な連中と違って、こいつの武装は機銃の他にない。有効射程に入ろうとすれば中央指揮室は占拠されているだろうからこの艦の機関砲に晒される。防空システムに対して単独の無人機がいかに無力かという話はシリアでダンからさんざん聞かされてきた。せめて夜でなければならないと辰は考えた。夜になれば目視での観測はできない。レーダー上では白鳥は巨大な海鳥のように見えるのだという。ガザルも過激派もまともなレーダーなど持っていなかったから、シリアにいた間、辰はその設計上の特色に助けられたことがなかった。日が暮れる前にこの艦が沈められるという不安は残るがそれに対しては何かができるというものでもない。わざわざ移乗攻撃なんてものを仕掛けてくるくらいだから艦は温存するんじゃないかしらと辰は考えた。こういう場合に悲観的になりすぎないことが彼の長所だ。辰は白鳥を着水させた。端末のキーボード越しに引き込み式の
十時間が経った。経過した時間が確かに十時間であることを辰は腕時計で知ることができた。日が沈んでからも沖は暫く明るかった。辰はそれを白鳥の映像で知った。つまり、この倉庫の中で辰が知覚する現実はどれも間接的だった。どうせ一か八かだ。辰は覚悟を決めた。
白鳥の離水は着水より困難だ。そもそも普段はカタパルトを使っているのだから、陸か海か以前に白鳥の動力以外に頼れない状況自体が滅多にない。揚力を稼ぐために風上に機首を立てれば自ずと波にぶつかることになる。辰はむしろ風下へ機首を立てることを選んだ。白鳥のエンジンが軽快に始動する。機体後部の二重反転プロペラが海面を騒めかせ、機体が加速し始める。十分な速度に至ったところで辰は
白鳥に自分を誘導する電波の出どころを追わせた。辰は艦が南へ向かっていることを知った。風に流されて数十分も飛ぶと艦影が見えた。対空砲火は、無かった。辰は関門を一つ突破したのだ。
*
嫌に鮮明で大きな声が空から降ってきた。それが紛れもなく自分の声なのだから混乱する。辰は機銃より拡声器を選んだ。
上の層からばたばたと足音が聞こえた。敵は慌てふためている。
エンジンが止まった。甲板に八人ばかり人が並ぶ。
一人が作業用の照明を操作した。照らされた顔の中にボグダンはいなかった。いや、辰の知る顔はボートの四人の他に一人もいなかった。彼らはルーマニア軍に化けた水面効果翼機の乗員たちだ。こんなことであっさり投降するとは思っていなかったが。
辰は倉庫を出た。リョーハから工具を借りた。中央指揮室の引き戸は鍵がかかっていて辰が幾度か体当たりをしても開かない。ボグダンの声で内側から何かルーマニア語が聞こえた。辰は戸と壁の間にリョーハのドライバーを差し込みてこでこじ開けようとした。わずかに指揮室の中が見えたところでドライバーが折れた。ガスマスク越しに熱い匂いがまた鼻を突いた。
それからボグダンは辰の知らない名前を無数に上げた。辰はそれが異常な行動であることに気づきはじめた。ボグダンの目がひどく充血し、暗さでは説明がつかないほどに瞳孔が開ききっているのがガスマスクのゴーグル越しに見える。ブラウン運動のように細かく連続的に視点が揺れている。
ボグダンの後ろで乗員が何人も伸びている。彼らの呻き方には見覚えがある。血は一滴も流れていない。
覆いかぶさるように距離を詰めるボグダンの頬を辰は拳骨で思い切り殴った。ボグダンから血の気が引いていき、彼が次第に現実を理解しだしたことがわかった。ボグダンは叫んだ。立ち上がり、壁に頭を打ち付けた。
紛れもなくエヴァ・ハラリだ。敵が何者で、なぜそんなものを持っているのか。考えなければならないことのはずだが、頭が回らない。
左舷からジェットエンジンの音が激しく聞こえた。水面効果翼機が飛び去ろうとしているところが中央指揮室のモニターに表示されている。甲板は無人だ。辰は白鳥にその機体を追わせた。燃料が持つ間だけ飛んでくれればいい。白鳥は十数分飛行してから自動的に空中分解し海に沈んだ。敵に回収されることを防ぐためにそんな機能が搭載されていたことを辰は思い出した。営業部長の心配はやはり杞憂だったのだ。
艦はルーマニアの母港を目指した。ボグダン以外の生き残りは眠ったままだったが最近の艦はワンマンで操縦できる。ダニエラは
*
コンスタンツァ港も肌寒いという点ではオデッサと変わりないが、赤色はもっと赤色らしく、黄色はもっと黄色らしく見える。リョーハらの遺体を降ろし、昏睡している連中も降ろした。辰とボグダンは海軍基地内で検査を受けた。たっぷりとガスを吸ってしまったボグダンはしばらく入院して様子を見るらしい。辰は検査にかかった費用をきっちり請求された。この海軍基地とボグダンの艦とではSDCFの待遇に随分差がある。ひとまず洋上で襲撃を受けたこととルーマニアにいることをあの肥満体の営業部長に連絡した。基地を出て港の商業区画まで歩いた。陸と違う秩序に支配されているからからか、港というものはどこも似ている。乗ってきた艦が小さく見える。
岸の欄干にもたれていたところにいかにも男児の母といった様子の女性が声をかけてきた。なんと表現しようか、端的に言って引っ張ることのできそうな突起が少ない。運動靴と手間のかかっていない髪型。
それが辰の注意を引いた。幻を見ながらボグダンがダンと一緒に呼んだ名前だ。
女性は胸のロケットペンダントを開けて辰に見せた。その女性とボグダン、それと男の子が二人。
辰は作業服と警察の夏季制服の中間のような服を着ている。一昨年から急にあちこちで見るようになった実用性を兼ねたある種の流行みたいなものだ。私服に過ぎないのだが、なるほど確かに軍という環境では民間軍事企業の象徴として機能するのかもしれない。あるいはアルミケースを見て判断したのだろうか。
女性は深々と頭を下げた。
女性は血の気が引いたように見えた。
*
辰はロクサーナと共にブカレスト行きの列車に乗った。営業部長から返信があり、オデッサではなくベルリンの本部へ向かえと命じられた。
ロクサーナはその言葉に安心したらしい。
辰は正反対の評価を聞いたことがあるのを思い出した。
何かあるな、と辰は思った。ダンの居場所をボグダンは知っていて、その妻のロクサーナは知らない。そういえばこの人は何故あっさりブカレストへ帰ってしまうのだろう。基地内の病院と言っても身内の面会くらいはできそうなものだ。そうでなくともせめて基地の入り口で交渉くらいはするのが普通ではあるまいか。
列車は小さな農村を通過した。寂しさがかつての事務所周辺の景色と似ている。あの畑の向こうにアリーの家があるんじゃないかという気がしてくる。あの角から遼子が顔を出したりしないだろうか。見慣れた幻の輪郭が心なしかいつもよりはっきりしている。
ロクサーナが急に笑い出した。
列車は糸のような優しい雨をくぐった。丸い雲がいくつもわたぼこりのように浮いている。
ロクサーナにそう言われると確かにその通りだという気がしてくる。ボグダンの身内なら信用して構わないだろうから辰は泊まっていくことにした。
*
ブカレスト・ノルド駅に着いて有人タクシーに乗った。帰宅ラッシュの時間にはこれが一番早いのだという。馬鹿みたいに巨大な建築物の前を通った。これこそがチャウシェスクの建てた国民の館だ。
むせるほどに懐かしく郷愁を思わせるアパートの一室に赤い西日が深く差し込んでいる。辰の生家もちょうどこんな風だった。辰に与えられたのはボグダンの部屋だ。もっとも寝室は夫婦で共有しているようだから仕事部屋とでも言おうか。折り畳みのベッドが置いてあって、それを広げれば眠れる。
隣は子供部屋だ。兄弟は上が十歳、下が八歳。二人とも辰に関心を示さない。ロクサーナが彼らの父について事情を話しても表情を変えない。何に対しても無反応だ。
*
辰はベッドに腰掛け営業部長に移動まで数日間の猶予を打診した。ただ言ったところで聞き入れてくれるはずがないから、ボグダンに頼んで軍病院に寝かされて安静を命じられているということで口裏を合わせてもらう。辰が自分の部屋にいると知ってもボグダンは驚かず、息子どもによろしくとだけ書いて寄こした。営業部長は辰の要望にあっさり許可を出した。目障りな部下を現場から遠ざけられるのなら形は問わないらしい。ボグダンからまた連絡があった。
辰の携帯に映像が転送されてきた。どんなに固い暗号化を施してもこれでは無駄だと辰は思った。これほどのセキュリティ意識の低さは軍人として致命的ではあるまいか。ボグダンの海では見なかった側面を見ている気がする。
ほとんどの参加者が
ウクライナの武官が感想をこぼした。
トルコ軍代表が言った。沈黙。参加者がみな米軍代表の発言を待っている。
重苦しい声がそう答えた。画面上、米軍代表のネームプレートにはウィリアム・ウェルズ大将とある。世界の警察を降りたといってもそのくらいの階級の人間が関わってくるくらいにはアメリカはユーラシアへの関心を失っていない。具体的に何番目かまではわからないが米軍で十指に入る実力者だ。欧州軍が解体されても米軍は残った。かつての統合軍司令官に当たるポストは具体的で恒久的な組織を持たないまでも欧州のあれこれに介入する役職として存続している。世界の警察ではないと開き直った分、却ってより柔軟でより厄介になったかもしれない。
白髪の女性が武官に訊いた。
ブルガリア軍代表が白髪に加勢した。採用されなかった恨みだろうか。いくつかの企業の代表もそれに加わる。
突然、天井が迫ってくるような中音域で歓喜の歌が聞こえた。
<deu>
Deine Zauber binden wieder,
汝の魔力が再び結びつける
Was die Mode streng geteilt;
時の流れが激しく引き裂いたものを
Alle Menschen werden Brüder,
すべて人は兄弟となる
Wo dein sanfter Flügel weilt.
汝の柔らかき翼が留まる場所で
</deu>
ティモシェンコに対する紛糾が静まる。アレクセイだった。
ティモシェンコが安堵から深く息を吐く音が聞こえた。同時に彼の背後からくぐもった声が入る。
白髪の女性——ウクライナ国家国境庁長官——が言った。
ウェルズの表示が
営業部長の頬を冷や汗が伝うのが見える。
アレクセイが冷ややかに言った。
ウェルズがいやらしく笑う。
アレクセイのパネルがカメラ映像に切り替わった。サングラスをかけていても明らかな軽蔑の表情。
カメラの前で営業部長があたふたしている。
*
ボグダンは興奮気味だ。
電話の向こうでライターの音が聞こえた。ダニエラの声。ボグダンは煙草を取り上げられたらしい。病院の何処かで吸おうとしたのだとすれば随分と非常識だ。そういえばこの部屋からは煙草の匂いがしない。家では吸わないようにロクサーナから言いつけられているのかもしれない。
ちょうどロクサーナが辰のいる部屋の戸をノックするところだった。辰はボグダンの言う通りロクサーナに携帯を渡した。会話はルーマニア語だから何を言っているかわからなかった。
辰は食卓についた。ロクサーナと子供たちが見慣れない手順で十字を切った。ルーマニアは正教の国だということをぼんやりと思う。崩したオムレツのような料理が出ている。意外にも玉蜀黍とバターの味がする。
全員が食事を終えてからロクサーナが言った。
理解できる程度のルーマニア語。子供たちは真剣な表情でロクサーナの話に耳を傾けた。それから辰に向かって。
ロクサーナは子供たちにおやすみのキスをした。辰は部屋に戻り白鳥の操作端末を破壊した。白鳥本体と同じで壊す必要があれば容易に壊せるようにできている。飛行記録の入っている記憶媒体だけは抜き取りパスポートケースに入れた。寝る直前になって辰はアフマドからメッセージが届いていたことに気づいた。
*
下の子が辰を起こしに来た。
辰は聞き覚えたルーマニア語で尋ねる。
子供達との会話くらいは流暢にできるようにならなければならないと辰は思った。ルーマニア語であれウクライナ語であれ、それなりに身に着けることがリョーハへの弔いだろう。
大阪のふんわかぱっぱ丸をレトロ調にしたような自律小型車両——ミニタク——がアパートの下に来ていた。四人で向かい合って乗ると車内にはほとんど隙間が無く膝と膝が触れ合う。辰もロクサーナも旅慣れていて荷物が少ない。スーツケースを二つ外側に飛び出している荷台へ積んだ。ロクサーナは
舗装状態はまずまずだ。ひびまみれといっても致命的な凹凸はなく滑らか。両側二車線に加え辰らの走る車線があるのだから道幅は広い。二、三階建ての統一感こそあれ歴史のないビルが七十%にやっと届く程度の充填度で両側に立ち並んでいる。道路標識は日本よりも濃い青、髭の生えたsやtがここがヨーロッパの大陸部であることを意識させる。空はどんよりと曇っている。関西の空気が黄色いというのと同じ意味で、ブカレストの空気は緑だ。つまり呼吸していてなんとなく息苦しく、自分の血液にこの色が混じり肌や爪がじわじわと同化していってしまうのではないかと不安になるような、あるいは色付きの水が入った金魚鉢に沈んでいるような感じ。赤ん坊の泣き声、後ろへと流れていくタイヤ屋の看板、個人商店。どこからか花の
十字路の手前で辰らの車両が減速した。赤い車線にトラムが右から割り入ってくる。公共交通が全てこの車線に入るのだと気づいた。信号機はあるにはあるが歩行者と自転車にはすっかり無視されていてクラクションの音がかまびすしい。ラッカとは違って人々の内面と交通規則の間にまだはっきりとした区別がある。二頭立ての馬車が路上に落とし物をしながら無理な横断をしていく。一世紀半ほどの時間が混淆としていながらそれなりに交通が機能しているのはそもそも絶対的な通行量が日本の地方中枢都市程度に収まっているからだろうか。そういえば路駐が甚だしく多い。
ブカレスト中心の装飾的な街灯が並ぶ通りへ出た。ロクサーナの携帯が鳴った。彼女は初めそれを無視したのだが、何度もかかってくるので出ないわけにはいかなくなったようだった。
ロクサーナは再び操作盤から指示を出した。車両はシャンゼリゼ通りに形だけ似た寂しいメインストリートを進む。少し鬱蒼としすぎている街路樹の向こうに服屋のショーウィンドウが見える。あのメンズフリルという奴を着てみるのは冒険的すぎるだろうか。襟元が華やかなのは貴族的な感じがして好きだ。ネクタイという堅苦しい装飾を時代遅れのものにした辰の一つ上の世代は確かに偉大だが、フォーマルな服装から飾り気が一切消えてしまうのは物足りない。カフェのテラス。人、犬、犬。白亜の宮殿の前に無造作に設けられたレンガ敷の駐車場で降りた。観光バスの間を縫って宮殿の方へ向かう。昨日も見た国民の館だ。
庭園を抜け西翼の建物に入る。ロクサーナは窓口の機械に何かを入力した。機械が関係者用の臨時IDカードと特別入場券を三枚吐き出す。
パウルが言った。やはり兄のパウルの方が難しい言葉を知っていて、辰にとっては理解しがたい。ロクサーナは二人の子供たちの頭を軽くなでてバックヤードへ去っていく。
*
二十年は昔から動いていそうな携帯ゲーム機を音声ガイドとして渡された。UNICONCEPTの日本語を読み上げソフトにかけただけの簡素なもの。アンチエイリアスが効いていないかのような表現のぎこちなさはいつものことだが、抑揚が狂っているのはいただけない。自然言語処理という分野はイントネーションの研究が致命的に不足しているのではないか。
ミハイが言った。昔はゲームだけをするための機械があったんだよと伝えようとしたが、辰にそこまでのルーマニア語は話せず、もどかしい。万能端末の時代を生きるミハイには専用機というものが珍しく見えるだろう。パウルはこの施設を何度も訪れているようで広大な館内で自分の位置を見失うことなく辰とミハイを先導する。パウルはボグダン似だ。ミハイはロクサーナ。内装は実に豪華絢爛。大理石の柱が果てしなく続く。床面は鏡のように磨き上げられていて、デートの場所としてここを選ぶとちょっとした惨事を引き起こしそうなほど。大ホールへ出た。巨大なシャンデリアの威容。あちらこちらで人が集まって生身のガイドから説明を受けている。それからまた長い廊下を渡り怪しい仕掛けが隠されていそうな幾つもの胸像とすれ違う。劇場として使うには不便に見える円柱状の空間へ出た。
座席の間を縫ってパウルとミハイが走り回る。大人としては注意すべきなのだろうが、元議事堂が子供の遊び場になる光景にはいつまでも見ていたいものがある。ミハイが議長席に座った。マイクの電源が入っている。見学者のためにわざとそうしてあるらしい。ミハイが何か意味の取れないことを言って、それを聞いたパウルが笑い転げる。今度はパウルがマイクの前に立つ。やはり何を言っているか辰にはわからない。辰は議員席に腰掛けて遊びが終わるのを待った。二人が飽きるまで二十分はかかった。その間に幾人もの見学客が来ては去っていった。誰も子供たちを咎めなかった。
またパウルが辰の手を取り引っ張っていく。正面テラスに至った。あのレンガ敷の駐車場を中心に弧を描く壁のようなビルが左右に一棟ずつ。その隙間から統一大通りがずっと遠くまで一直線に伸びている。駐車場として設計された空間ではなく本来は広場なのだと気付いた。なんにせよ壮観だ。この国にかつて君臨した独裁者の気分になれる。
音声ガイドが大真面目にそんなことを言うので辰はにやついてしまった。どうせ真実は工事費がなかったとか、そんなところではないのか。あまりに多くの建物が顔を出しているのでガイドの言うマンションがどれだかはわからない。数年間は説明が更新されていないらしい。それにしても独裁というのは立派なものを作る。ブカレストを作ったのは独裁だ。ダマスクス市街を囲む高層ビル群もそうだった。人々は独裁の遺産に寄生して生活している。発展はいつも金と権力が集まる場所で起こる。真下の庭園にロクサーナがいた。
*
五分待ってもミニタクが来ないので辰たちは駅まで一キロと少し程度の道のりを歩くことにした。途中の店でツナと卵とレタスのサンドウィッチを買った。貧相な服を着た子供たちが指をくわえて羨ましそうに辰を見ている。パウルとミハイはそれが怖ろしいようでそそくさとロクサーナの背中に隠れた。
ロクサーナが屈託なく訊くので辰は面食らってしまった。
言おうとしたことはどう捻っても言葉にならず、ぼんやりとそれは違うという拒否の思いだけがある。大学にいた頃ならそんなことはなかったから言語化の能力は使わずにいると鈍るものらしい。
辰はサンドウィッチを食べきってしまった。ロクサーナはときどき狭く細い道を選んだ。建物と建物の隙間をかいくぐる。そういうとき、この都市の生活が目と鼻の先まで迫ってくる。人の匂いがする。住人たちは善良で無知で政治にそれほど関心が無い。内なる差別に気付いてさえいない。それでいて彼らはそれなりに幸福で、自分の価値観を疑わなくてはならなくなるような場面に出会ったことがない。自分たちで独裁を打倒したという半世紀以上昔の出来事が彼らの曖昧な一人称複数の自尊心を曖昧なまま満たしている。
*
ロクサーナが言った。振り返ると猫が一匹ゴミ箱の蓋の上で眠っている。それだけだ。辰たちは騒がしい通りに出ていた。目の前の建物がブカレスト・ノルド駅だ。
低い男の声。ロクサーナがジャケットの下に手をかけた。ステッキの先端がそれを押さえる。
声の主は片桐の色違いのような老人だった。何故今まで気付かなかったのかわからないほどの赤づくめ。銀色の髭がダリのように細く固めてあって顔の正面に林檎のシルエットを作っている。少し大きな街にはこんな風に奇抜な老人が一人はいて街のランドマークになっているものだ。
老人は袖の下から手品のように四冊の冊子を取り出した。
ロクサーナが老人の両肩をつぶれそうなほど強く掴んで詰問した。
*
ハンガリーはブダペスト行きの昼行列車に乗った。十時間とちょっとはかかるというから到着は夜だ。
辰ははいともいいえとも返事をしかねた。確かにブカレストは寂しい都会だったと思う。それがこの国の全てであるはずがないということに辰は今更気づいた。
*
二〇三三年二月、シリア情勢は最後の土壇場を迎え今まさに独裁が倒れようとしていた。甚大な損害を出しながら苛烈に戦ったガザルは戦後の自治権を米国に要求するも交渉決裂。彼らは居住地であるトルコ東部と黒海を経由してロシアや東欧に至る補給ルートを開拓し親米政権との新たな戦争に備えることになる。シリア軍崩れが流入して戦力を増大させた過激派など反米・反独裁政権組織はガザルが開いたこのルートに寄生し装備を拡大、米国と同盟関係にあるルーマニアはテロとの戦いの一環として黒海警備に駆り出されガザルと対峙することになる。欧米はガザルとそれ以外の組織を区別しなかった。というよりはむしろ、ガザルに対する冷酷な態度を覆い隠すために米国がわざとそう世論を誘導した。混沌とした中東に関心を寄せる人間は民間には極めて稀だったから、事態は米国の思惑通りに進んだ。米国はガザルがかつて過激派と連合したことを持ち出しさえすれば十分だった。それを否定する広報力も、補給ルートから実際に過激派を排除する組織力もガザルには無かった。
当時はプレデターやレイヴンといった第一世代無人機が戦場の新たな主役として期待されていて、そのことはルーマニア軍も同様だった。もっとも第一世代機について実用レベルの技術を持っているのは米国と中国のみ、しかも砂漠の嵐作戦以来行われるようになった数の戦術を行おうとすれば調達にかかる費用は極めて高額だ。そこにSCFが第三の選択肢として登場する。それまで補給と訓練の提供を主たる業務としていたSCFは民生用の無人機をベースに専用ソフトウェアを搭載した新型軍用無人機を第二世代機と銘打って開発。自社でパイロットを養成し無人機専門の機甲化傭兵部隊として市場を席巻した。SCFの李・マイケル・カーチスはかねてからルーマニア海軍に電子戦・通信・暗号といった分野の訓練を提供していたが、黒海作戦の無人機部隊アドバイザーを兼任することになる。しかし李は人格上の問題でルーマニア海軍中枢からの信頼を失っていた。
同年五月、ダンとボグダンは黒海洋上にいた。彼らの乗る艦はスタン中佐のフリゲート。その頃にはガザルの船も武装することが増えていて、並行してルーマニア軍も本格的な戦争の様相を呈していかないわけにはいかなかった。彼らの船は接続水域で民間船のふりをするロシアの軍用船とすれ違った。領海すれすれに電子偵察船を差し向けることは黒海で互いに常態化していたから、スタンはこれを気に留めなかった。しかし情報電子長のダンはその船が積んでいるアンテナが少ないことからそれが他の正体を持つことに気づく。彼はスタンに対しSCFを呼びつけてロシア船の監視をさせることを提案するが、スタンは李との個人的な確執からそれを却下。ダンはスタンの許可を取らず独断でSCFに連絡した。十数分後、SCFはそのロシア船が機雷敷設艦であることを看破する。シリアに親米政権が建つことを嫌い、
その後、スタンはダンの越権行為を告発した。当時のルーマニア軍内部には反SCFの空気が満ちており、ダンは結果的に艦を救ったにもかかわらず二等兵への降格を言い渡される。同艦で砲雷長を務めていたボグダンはダンと士官学校時代からの友人だったが、二人の共通の友人にしてスタンの娘であるロクサーナ・スタンとの結婚を目前に控え、スタンに歯向かうことをしなかった。ダンは李によってSCFに引き抜かれ軍を辞めた。
*
ロクサーナは泣きながら胸を押さえて苦しそうにむせた。人体は泣きながら喋れるように出来ていない。パウルとミハイは辰のシャツに顔を埋めて母の尋常でない姿を見ないようにしている。幸いなのはこの子たちには会話の内容が理解できていないだろうということだ。ミハイがわずかに顔を上げて
*
夜の十一時になってブダペスト東駅に到着した。荘厳という言葉が似合う半解放のドームはこれでこそ欧州の
電子決済ばかりだから気に留めていなかったが、ルーマニア国内の通貨はユーロだった気がする。高校で地理の講義を受けた頃はまだレウだったはずだ。確かにEUの中身は均質化されつつある。
辰は李に訊いた。
辰たちのいるペスト地区は街中と思えないほど暗い。李の三倍は長い時間を経験していそうな四階建てくらいの石造りの建物が隙間なく並んでいる。オデッサと比べ色彩が単調で大人しく落ち着いている印象を受ける。植物が少ないからかもしれない。何台かのスクーターとすれ違った。看板の言葉は何が書かれているのか類推が効かない。ハンガリーはヨーロッパにありながら印欧語族が話されていない言語島だという話を思い出す。ブダ側に温泉があるという看板はピクトグラムのお陰で理解できた。ハンガリーの首都は温泉街だ。ヨーロッパ的なものに対する認識がぐらぐらと揺らぐ。李がステッキを振り上げて角の建物を指した。
辰たちはドナウ川河畔に出た。ヨーロッパの河川を見るのは辰にとってこれが初めてだ。背の低い遊覧船がいくつか静かな水面に波を起こしている。水運用無人機の基地らしいものが対岸にある。ブダ地区の夜景は華やかだ。色とりどりの光が明滅し街の輪郭をぼんやりと映し出している。こちら岸が暗いのは川の左右で都市の機能がはっきり分かれているからだと気づいた。パウルとミハイも目の前の光景に見とれている。何処かの店からマンドリンの演奏が聞こえてくる。トレモロの響きは何にも似ていない。無機質で異質、それでいてノスタルジーだのサウダージだのという言葉と結びつく人ならざる音が神々しく聞こえる。五分もそうしていただろうか。李は姿を消していた。探しに行こうとする辰をロクサーナが止める。
遠くで銃声が聞こえた。ハンガリーは銃規制の緩い国だ。
*
翌日はブダペスト市内を見て回ることにした。というのも明らかに血縁でない辰を含む四人組が朝から晩までホテルに籠っていることはあまりに不自然で、観光客に擬態することが辰たちにとってもっとも有効な手段だからだ。雲一つない秋晴れ。足取りを掴ませないためには現金を使うのが望ましいが、それも余裕があるわけではないから朝食はマクドナルドで済ませた。ミハイは昼も同じがいいと言って駄々をこねる。一方でパウルは味の好みがもう大人びているようでハンガリー的なものが食べたいらしい。
ペスト地区の礼拝堂に入った。キリスト教の教会とは違うということがミハイとパウルにもわかるようだ。壁も椅子の木も黄色が強く光が当たると金色に見える。床や天井に描かれた幾何学模様の装飾が絢爛だ。それでいて抑制が効いているように見えるのはここが宗教施設だからだろうか。庭には虐殺犠牲者の名前を刻んだ記念碑がある。辰は無意識にハラリという姓を探したが見つからなかった。彼らの名前は多様で一見してそれとわからないものが少なくない。柳の木が植わっている。ブダペストはどこも小綺麗だからこの碑が無ければかつてあった事件のことを誰も記憶してはいられないだろう。
住宅が多くなってくる。かつて車が入れた時代のカーブミラーが酷く錆びついて残っている。その鏡面を辰たちの像が音もなく滑る。
ロクサーナが言った。辰は振り返った。ついさっきすれ違った家族がロマであると辰にはわからなかった。単に見慣れていないからだろうか、何故わかるのかもわからない。
トラムの走る大通りに出た。立派な建物の上に通信機器メーカーの看板が無数に乗っかっている。街の活気が心地よい。道行く人の大型犬にミハイがじゃれる。犬の方は心が広いようで大人しく遊ばれてやっていた。市街の中心をそのまま西へ突き抜けてマルギット橋に出た。巨大な中州を越えてブダ地区に至る。中州は林の多い公園になっていてこの街の自然を一カ所に集約しているかのようだ。辰の鼻先を蝶が飛んでいく。
ドナウ川の西岸、ブダ地区は建物が新しく日本でも見た名前の店が多い。銃砲店の前を通りかかった。ショーウィンドウに豪華仕様の
川沿いに南へ下ってブダ城に着いた。急勾配の坂を歩いて上る。ちょうど衛兵交代式をしていた。衛兵たちは目を回しそうなほど勢いよくライフルを回転させる。モンゴルやオスマンと戦ったのは遠い昔の出来事で今は立派な宮殿が建ち美術館兼博物館として使われている。しかしロクサーナはむしろ防御施設としての側面に注目させたいらしい。門と壁と塔を見て回る。城はまだ戦いの場であったことを忘れていない。
館内のレストランで昼食にした。グヤーシュという赤いパプリカのスープが出された。豚肉と玉ねぎとハーブを使った料理が多い。どの料理からも深みのある不思議な甘さを感じる。辰はそれが気に入って猛烈に食べた。
また川に沿って南へ歩いた。ハプスブルク家が建てたブダペストのもう一つの城の麓に大きな温泉施設がある。折角来たのだから浸かっていこうという辰の発案だ。神殿のような温水プールから伸びる暗い廊下をくぐるとオスマン調の青い装飾が美しい浴室に至る。湯温は四十度、地元の老人が何人も茹っている。湯に入ると声が出る。パウルとミハイはこんな温度に慣れていないようで足を突っ込んでは引っ込めることを繰り返している。ロクサーナは寛ぎきっていて見たこともない表情を浮かべている。今まで彼女がずっと気を張り詰めていたことに気付いた。
ミハイが言った。パウルとロクサーナが近づいてきて辰の背中をまじまじと観察する。辰は腕に痒みを感じた。蕁麻疹が出ている。
*
ペスト地区のホテルに入った。本当は毎晩部屋を変えるべきなのだろうがファミリールームのあるビジネスホテルにはさほど選択肢がないから昨晩と同じホテルを選ばざるを得なかった。辰は寝かされて青い顔をしている。内臓がことごとく気持ち悪い。
辰は自分が情けない。蜂蜜の味を知っておくという発想が何故いままで無かったのだろう。そんな考えも腹の痛みのせいでぼやけてくる。
辰の携帯が鳴った。ボグダンから
航行不能になった五百メートル級のコンテナ船を港まで引っ張るというのは前代未聞の事態だそうで、推定費用はレヴィアタン号をもう一隻建造できるほどらしい。米軍は同船を所有するベルギーの企業にそれを請求しようとしたが敢え無く拒否、同企業は積み荷を数隻の中型船に移し替えて運ぶつもりでいるらしいが海上でどのようにコンテナを移動するかは全くの白紙だ。もしかすると米軍は頭を下げてレヴィアタン号のどこにあるかもわからない異常を自費で修理させていただくという屈辱を舐めることになるかもしれない。
ムリーヤについての動画もある。物々しい装備に身を包んだ米軍特殊部隊の前でムリーヤがかっぽりと口を開ける。彼らが勇ましく前進しようとするところに馬鈴薯の山が崩れ落ちてきて男たちを呑み込む。編集で付け加えられた笑い声のエフェクト。他の動画も概してそんなものだった。
ロクサーナはこの先の旅程を立てるのに忙しいらしい。ラップトップの画面をにらみながら言う。
窓に小鳥が留まった。初めて見る鳥で名前がわからない。もっとも日本のだって雀と
ロクサーナは俯いた。言ってしまってから自分がなぜそんな意地悪な提案をしたのかわからなくなる。
ロクサーナはマグカップに湯を注いだ。辰のココアだ。その様子をパウルがつまらなそうな表情で見ていた。
*
辰の症状が引くまで三日かかった。情勢はその間にまた変化した。
ウィーンに至ったときにはどこもこのニュース一色で、何ら危機を感じることなく平和を享受しているとしか思われない市民が戦場にこれほどの関心を持っていることに辰は驚いた。もっとも彼らは戦いの現実に無知だ。駅で見た報道は山繭蛾と称してずっと旧式のドローンの映像を映していたし、地域配信の公営ニュースはSDCFの
ヨーロッパの都市も三つ目になると新鮮さが無い。ウィーン市街は道幅も建物もブダペストと似たようなもので規模だけが異なる。青い窓で日光を煌々と反射する高層ビルが石畳の通りのすぐ近くまで迫っている。石畳それ自体も頻繁にアスファルトと入れ替わる。車両と言えばミニタクばかりだ。街の活気がぎくしゃくしている。観光地区が無際限に広がってオフィスや住宅街とモザイク状に入り交じり、それでいて公共性と個人性を両立させた新交通のお陰で混乱が生じていない。都市の機能をきっちりと分けているブダペストと正反対の戦略だろうか。いいや、ただ自然の成り行きに任せた結果かもしれない。ドナウ河畔に立つ塔から見下ろすとそのことはなおのこと明らかだった。技術の進歩によって行政の中心がなくなった今、ウィーンは膜が破れた細胞のような様相を呈している。恒常性が失われつつある。ヨーロッパの首都はせいぜい古い建物と観光資源の集積地ほどの意味しか持たないものへ変貌していくようだ。
街はもう夕陽を浴びていた。ミハイがまたしつこく規格品のファストフードを食べたがるので各々好きなものを買ってホテルの部屋で食べた。ブダペストで体調を崩してから今日まで食べることと寝ることばかりしている。当初は無愛想だったミハイとパウルが次第に懐いてきたように感じる。そのためか、この単調で刺激に乏しい生活が充実しているように感じる。ついこの間まで自分がその現場にいたはずの出来事を遠くから傍観する疎外感と、それに伴う奇妙な安心感がある。
*
深夜にロクサーナが辰を揺り起こした。枕もとの照明が彼女の焦った表情を映し出している。
同じ階の共用トイレにパウルの姿は無かった。そのことを確かめて廊下に戻った辰の前でエレベーターの扉が閉まり誰かが下へ降りていく。辰はそれを追って階段を駆け下りた。辰たちの泊まっている部屋は五階だったから辰がロビーに着いた時にはそのエレベーターはもう無人になっていた。
辰の呼びかけに答える声は無い。冷たい夜の風が吹き込んできた。電源の落ちている正面のドアが子供一人通れる程度開いたままになっている。
辰は黒い空の下の通りに出た。夜中に何があってもおかしくない仕事をしているから寝巻はジャージだ。人の姿は見えない。辰は風が吹いてくる方へ歩くことにした。ウィーンの街に完全な眠りは無く、完全な覚醒もない。言わば常に薄明りの中。午前三時にもかかわらず明かりがついている部屋はあちこちの建物にあって、そういうところには漢字だったりデーヴァナーガリーだったりの看板が控えめにかかっている。通信技術が発達した現代、昼や夜は時間である以上に場所だ。そして場所の制約も急速になくなりつつある。ブカレストのロマは主流の社会と完全には交わらず並行して存在していた。この街に暮らす異邦人たちはどうなのだろう。
異邦人といえば辰はまさにその
辰は何度もパウルの名を呼んだ。建物の連続が途切れ池が現れる場所があった。街灯に照らされて水面が辛うじて見えた。繋がれている犬が柵の向こうから辰に向かって吠えた。この街では犬までもが深い眠りを忘れてしまうらしい。
犬は返事をしない。辰は軽やかな足音が背後を横切っていくのを聞いた気がした。
ドナウ川に係留されている自律筏の上でパウルが眠っているを見つけた。辰は筏を揺らさないように岸から慎重に乗り移りパウルを抱き上げた。まだ太陽は昇っていないが東の空がほんのわずかに青い。辰もパウルも二時間はウィーンの街を徘徊したことになる。ロクサーナに一報を入れようとしたところで辰は自分が携帯をもっていないことに気付いた。現在地とホテルの位置関係もわからない。ドナウ川の水面からゆったりともやが立っている。街が霧に包まれはじめている。服や肌が湿る。草の匂いがする。
辰はパウルを背負って歩いた。パウルはやがて目を覚ましたがまた眠ってしまった。その割には辰の背にしがみつく力が強い。ホテルを探して数キロ歩いたころには辰は疲れ切ってしまい公園のベンチに腰を下ろした。膝の上にパウルを寝かせる。
ひとまず誘拐ではないとわかって辰は安心した。もし自分のためにパウルやミハイが事件に巻き込まれたとしたら辰は一生後悔するだろう。
パウルは辰の目を見てしばらく黙った。それから俯いて胸の前で修道女のように手を組み言葉を探しているらしかった。パウルは辰のルーマニア語が達者でないことがわかっている。賢い子だ。辰はロクサーナより色の明るいパウルの髪を撫でた。何羽かの鳩が降りてきて地面をつついている。風が吹き抜けて木々を揺らす。寒いのだろう。パウルは縮こまって辰の体温を求める。彼もまた寝巻で出てきていたから薄着だ。丈の足りていないズボンの裾から細く白い足が覗く。烏がやってきて鳩を追い散らした。
*
パウルの家出の事情を辰はロクサーナの通訳で知った。ロクサーナは良心的にパウルの言葉をそのまま辰に伝えた。そうであってほしいと辰は思うが、確かめる術はない。パウルは辰が怖くて逃げだしたのだそうだ。父さん——ボグダン——はもともとあまり家に顔を出さなかったが、オデッサに勤務するようになってからはかれこれ十カ月も自分やミハイや母さんと顔を合わせていない。そんな折にやってきた辰が父さんの仕事に関係する人物であることは説明されなくてもなんとなくわかった。辰はどう見ても大人なのに、母さんはこの人を守ってあげるようにと言って聞かせた。ブダペストで辰が体調を崩したとき母さんはとても手間をかけて看病した。母さんがそんなことをする相手は家族だけだ。ところでこの辰という人は言葉が通じないから何を考えているのかよくわからない。しかし母さんは辰と話した後ときどき見たこともないほど悲しげな表情になって
パウルはロクサーナの言葉に頷き、それから辰と抱擁した。
*
プラハ滞在の三日目に初めて雨が降った。ベルリンまで鉄道に乗ればほんの四時間しかかからないのにここでいつまでも足止めされているのは先の騒動でSDCF本部がざわついているからだ。SDCFは不幸にもクリミアを巡る動乱の黒幕であるという疑いをかけられてしまったため、ここ数日は本部ビルを取り囲むデモ隊の対処に追われててんやわんやしている。報道はSDCFが絡む最近の事件としてアブドゥルアジズの反乱について扱っている。白鳥が過激派の車列へ蜘蛛の子を投下する瞬間の映像もあった。一台一台の車両を正確に狙う新型弾が得体の知れない無人機から投下される様子は大衆の不安を煽るには打って付けだ。人々はSDCFを野蛮な企業と呼ぶが、辰はその映像の瞬間にダンが部下に責任を負わせないため操縦を代わったことを知っている。娘同然の人物を自らの手で殺すことになるかもしれなかったにもかかわらずそうしたのだから、ダンの行為は確かに倫理と狂気の分水嶺に立っていたかもしれない。しかしそれは決して野蛮ではなかったと辰は思うのだ。
辰は問うように自分の胸元を掴もうとしたがそこに遼子の目はなかった。その代わりかパウルとミハイは辰に遠慮も陰りもなく甘えるようになり、辰は空虚さをそれで埋め合わせている。死者に引きずられるより余程良いことだろうか。
プラハの街もまた混沌としている。チェコ語よりはドイツ語と英語を多く聞いた。辰はパウルを連れて雨の中を歩き花屋に入った。自分が花に興味を持っているとは思わなかった。しかし雨が甘く疲れた匂いを強く感じさせ、それは辰の心境とよく似ていた。蜜蜂が花に引かれるように辰の足は自然とその低い濃緑の庇の下へ向かった。五つの花弁をつけた白く小さな花が鉢の上で無数に咲いている。辰はどうしようもなくそれが欲しくなった。パウルと二人きりだった店内に主人が現れた。右側に松葉杖を突いている白髪の男性だ。辰は既に鉢を指差して購入の意思を伝えていた。主人は口を利かなかった。観光客を相手にしている店ではないから母語以外で接客できないのかもしれない。店主は紙幣を受け取りそれを半世紀の相棒といった様子の黄ばんだレジスターに収めた。鉢は重かった。何処にも行けないと思わせるような現実の重さだ。
ホテルに帰って辰は白い花を無造作に床に置くしかなかった。ロクサーナは困惑したように見えた。それからその花を本部まで持って行くのかと聖母のような表情で尋ねた。辰はそんなことを考えていなかった。いや、自分たちが旅の最中であることも忘れていた。
ロクサーナは自分をダンとの間の仮想的な子供として扱っているのだと辰は思った。彼女とダンとの関係が単なる友人でなかっただろうことは流石に気付かないわけにはいかない。かと言って彼ら自身がその関係を恋仲と呼んでいたとは限らないだろう。親密で、もしかすると子供を産み育てる未来もあったかもしれない関係だ。そういうものが当人の意思に関係なく恋と呼ばれることを辰は知っている。まさにダンがそう言っていた。推論に推論を重ねれば、それがダン自身の経験から出た言葉であるということも考えられる。とすればその経験というのはボグダンとダンとロクサーナの間にあった過去のことだろう。自分はボスの知らないボスの五人目の子供であって、遼子は姉に当たる。辰はそう考えた。あらゆる関係が家族と恋に吸収されていくのは雨の匂いのように息苦しく、それでいて揺り籠のようだ。
ロクサーナはタオルを持ってきて濡れたままの辰の髪を拭いた。辰は自分が年齢不相応のこんな行為に恥ずかしさを感じず、むしろ胸いっぱいの安らぎに包まれていることに恐怖した。
*
雨粒が車窓を激しく打ち鳴らす。列車は荒天を切り裂いて進んだ。発車後しばらくは車窓を眺めもしたが、自然の荒々しさと陰鬱さに次第に疲れてしまい辰は窓を曇らせるスイッチを押した。車両中央の黄色い蛍光灯がロクサーナと子供たちを照らしている。ロクサーナは普段通りを装いながら周囲に注意を巡らせている。辰たちの車両には他にビジネスマンが二人と老夫婦が一組乗っているばかりだ。
辰がうたた寝する間にドレスデンへ着いた。老夫婦が降りて会社員にしては屈強な男たちが四人ほどぞろぞろと乗り込んできた。辰も危険を感じた。
ロクサーナが車両の中を見回し、辰に耳打ちした。
ドイツ人と言えば英語が上手いものだと思っていたからこの男の発音の堅さが辰には意外だった。
辰はこの誠実だが思いやりのない男にいじわるしたくなった。辰がいまアラビア語で何か言ってみせれば彼はおびえて腰を抜かすんじゃあるまいか。
鉢を受け取ろうとした瞬間、辰の体が右へ吹っ飛んだ。鉢の下に添えられた男の手に銃が見えた。今まさに辰にタックルをかましたロクサーナが発砲した。男が後ろへ倒れ鉢が粉々に割れた。続いてやってくる男たちをロクサーナは
銃声が止むとロクサーナは車両のドアにまた何発かの銃弾を撃ち込み蹴り破いた。ドアはあまりにもあっさりと吹き飛んでいった。風雨が恐ろしい勢いで吹き込んでくる。
ロクサーナがそんな風に声を荒げるのを辰は聞いたことがなかった。
嵐の中に湖水が見えた。ロクサーナが飛んだ。辰も飛んだ。意思などなかった。飛ばなければならなかった。
*
激しい衝撃と肺に水が入る感覚を感じた。辰は自分が湖の中で溺れているのだと思った。もがきながら目を開けた。
高く軽く頓狂な声が辰を諫めた。若い、いや、幼い女性の声。辰は腕の中で丸まっているパウルの表情を確かめた。ぐったりとしているが息はある。ミハイもだ。辰たちは水面に落ちる直前に白鳥にぶら下げた網で掬いあげられていた。見たこともない真っピンクの機体が風にあおられながら危ういバランスを保っている。四人分の重さで濡れた網がきつく絞まる。凄まじく痛い。辰は湖の水によってでなく雨によって溺れかけていた。
幹線道路を疾走した。辰と子供たちは藁の中で息を潜めた。濡れているにもかかわらずとても暑い。パウルが震えていることに気付いた。辰は彼を抱きしめてやろうと思ったが、自分が本当にそんなことをしていいのかわからなかった。ロクサーナに銃を抜かせたのは外ならぬ自分だ。彼女はこれからどうなるのだろう。殺人犯として扱われることになるのだろうか。
辰は記憶を辿った。遼子の隣でダマスクスの陽に灼かれたことがある。
パウルに話が通じそうにないことを悟ってミハイは不貞腐れた。
雷が近くに落ちた。ミハイはそれに怯えて黙ってしまった。辰は雷の音に耳を澄ませた。空気を切り裂く低い音が近くから、遠くから聞こえる。こんな天気では監視衛星はおろか無人機も碌に使えない。尾行の恐れはなさそうだった。トラックは田園を越えて都市に至った。そこが都市であるということはトラックの減速と走行音の変化から知れた。明かりがない。大規模な停電が起こっているらしい。SDCF本社の守衛がトラックを停止させた。辰は荷台から這い出して社員証を提示した。守衛はそんなものには目をくれず、凹凸の無い銃に似た形状の装置で辰の目を狙った。虹彩認証だ。
守衛のヘッドセットに声が入ったらしかった。彼は少したじろいでから頷いた。
*
シリアの事務所とはまるで比較にならなかった。外観ばかりか内装まで無機質で堅牢だ。防火用としては多すぎる密度でシャッターがある。襲撃に備えたものだろう。辰たちを先導する男は不健康に痩せていて猫背だ。少し斜視が入っているかもしれない。
牢獄から精一杯物々しさを取り除いたような部屋に通された。辰は児童相談所の保護室がちょうどこんな風だったことを遠い記憶の底から思い出した。
辰は男に連れられて階段を降りた。踊り場が三つあった。相当な深さだということが察せられる。隙間の無い金属製の扉が虹彩認証で開いた。視野の右側から青い光が辰の目を刺した。思わず手で光を遮る。背の高い女の影が照らされていることに気づいた。その影はかつかつと音を立てて辰の方へ向かってくる。厳しい顔をした短髪の女、老齢であるのは間違いないが、これほどの鋭さを備えた人を老婆とは言いたくない。
ああっ、と女の背後から音の割れた叫び声がした。肥満体。営業部長だ。
ゲオルゲ——営業部長——がドイツ語で何か悪態をついた。辰は彼がドイツ人だということに気付いた。ゲオルゲは掴み合いの喧嘩をするんじゃないかというほど辰の近くに立って唾を飛ばしながら言った。
辰は女を見上げた。靴の分を抜いても辰よりよほど背が高いだろう。この雰囲気をたたえる女がSDCFの社長だというのはやたら納得がいく。
辰は敬礼した。思うより先に身体が動いた。そういう気迫がこの女にはあるのだ。
*
真っピンクな声が部屋の音響設備から大音量で聞こえた。作戦ディスプレイの表示が歪み、東アジア風のアニメ絵が映し出される。桃色のツインテ―ルを備えた少女だ。鼻が省略されていて目がシュメールの絵画のように大きい。ピースサインを決めている。
辰が叫んだ。
『私たちの計画を消し去るために若い力を迎えようというんだよ。さて、遡ること半世紀——
——あ、ちょっと、最後まで言わせないつもりかい。辰、少女だ。少女を追え』
通信が途絶えた。
ゲオルゲが社長に尋ねた。
ゲオルゲを半ば突き飛ばすようにして辰が言った。
*
状況開始を告げるサイレンが鳴り響いた。作戦盤に赤い点が四百ほど映し出される。オデッサ国際空港だろう。ムリーヤの本来の積み荷はつまるところそれ、SDCFの無人機だったわけだと辰は考えた。ウクライナの支部とこの建物は特別太く安全な回線が通っている。ここで行われた入力は遥か遠くの基地で電波に変換される。
二十基のカタパルトで並行して十秒に一機ずつ白鳥が射出される。全て空に上がるまで二分強。現実味の無い速さのように感じる。フライトシミュレータは簡素だ。辰に割り当てられた十機は編隊の後方に位置している。
黒海上でロシアの駆逐艦二隻に捕まった。損害は全体の一割も無い。艦の防空システムで扱いきれる量ではないのだ。敵に電子優勢を奪われるも滑らかにレーザー通信に切り替わる。花笠水母が七機は出ている。あらかじめ雲の中に隠してあったらしい。高出力なレーザーは雲を切り裂くから問題ない。
武装を減らし増槽が取り付けてあったから燃料を二割残してセヴァストポリに至った。地上の防空システムが猛威を振るう。白鳥たちは次々と落とされるが作戦盤上では落ちたところに並々ならぬ火災が起こっている。蜘蛛の子を積んだ白鳥を落とせば街が燃えるのだ。生き残りは海軍基地上空でおぞましい数の蜘蛛の子を投下した。火だ。火が一切を焼き尽くす。有人兵器の出番がないまま状況終了が告げられた。
*
こんなことでは実戦で起こることの半分もわからないと辰は思った。本当にあてにしてきたのは数字より手先の感覚だ。特に離陸が気に入らない。気象条件による違いは十分計画に織り込んであるのだろうか。それに場合によっては
噛み合ってなかったんですねという言葉を辰は呑み込んだ。怖気づいたのではなく言っても無駄だと思ったからだ。
ボグダンの側から連絡があった。どうやって到着を知ったのか辰にはわからない。ボグダンは無数にあるSDCFの秘匿回線の一つにかけてきていた。顧客用の回線で、作戦の終了がまだ宣言されていない以上ボグダンにはまだ確かに使用する権利がある。盗聴器を仕掛けづらいからと場所は中庭、時間は昼過ぎだ。こないだの雨で地面がぬかるんでいて、菌類のにおいが籠る。あの猫背の男がポケットに手を突っ込んだまま辰たちを監視している。電話は建物の壁に取り付けてある。
辰はロクサーナたちに代わろうとしたが、ボグダンはその必要はないと言う。大人には必要なくても子どもには必要なのだと答えてパウルに受話器を握らせた。
辰がそんなことを言ったのはロクサーナが反対側の角のベンチにいたからだ。兄弟は自分たちの通話を終えるとロクサーナに代わることなく受話器を置いてしまった。
猫背は建物の中へ去っていき、中庭に辰とロクサーナたちだけが取り残された。いつまでに部屋に戻れとも言われなかった。辰は自分たちを見つめる監視カメラを見つめ返した。
*
辰はロクサーナたちと四日間会わなかった。前振りも無く用意された別室に隔離され、新型機の操縦を習得させられた。その機体の名は
夜が西の空へ追いやられようとする未明に、猫背が辰を起こした。彼は作戦室へ連れて行かれ濃いコーヒーを一杯飲んだ。歳の様々な男や女たちが辰と同じようにコーヒーを飲んでは半個室状のデスクに向かっていった。辰もまたそのようにした。猫背が辰の背後に立ち言った。
サイレンが高く鳴り渡った。
白鳥たちの離陸を見届けてから、
辰は衝撃波もGも感じなかった。そればかりか白鳥や山繭蛾でなら確かに感じられたはずの気流、エートスとしか言いようがないような動力と外界との複雑で微妙な関係、そういったものの一切が
白鳥たちは海を離れ天を目指した。黄金色の光が黒海を刺す。
白鳥隊のリーダーが落ち着きはらって言った。
レベッカは提案に魅力を感じないらしかった。彼女は簡素な椅子に掛け、チェス指しのような目で作戦盤を見ている。
辰の手元でエンターキーが押された。敵の目に映る
レベッカの声は上ずっている。
二機目は抵抗すら許されず撃墜された。事態の深刻さを悟った最後の一機が捨て身で
花笠水母からの映像が中央モニタに映し出された。蜘蛛の子たちがセヴァストポリの防空システムを効率よく破壊しつつある。味方の艦隊はじわじわと岸に詰め寄り、揚陸作戦開始の合図を待つばかりだ。ボグダンのフリゲートが後方に陣取り空と背後からの敵襲に備えている。
ゆっくりと拍手をしながらトーマスが言った。
トーマスは憐憫の表情で辰を見下ろした。毛布のような
『
レベッカが言った。
『そんなものはない』
*
赤ランプが点灯した。無線がゲオルゲの声を伝える。彼はこの部屋にいない。
作戦ディスプレイに海中の映像が映る。視点が勢いよく上方へ移動し水面を脱した。炎に包まれるセヴァストポリの街が水平線のごく手前に見える。辰はこれが何処かの主観映像だと悟った。
上空を旋回する白鳥の目を借りて辰らはその全貌を知った。全長三十メートル程度の金属塊が海面から顔を出している。胴は葉巻型、その周囲を襞のある水母のような半透明の膜が覆っている。何より目を引くのビスマス結晶の如く輝く塔。一本ではない。大小の塔がその背に何本も乱立している。あの世に大都会があるとすれば、きっとよく似た景観だろう。
白鳥隊隊長が二人の会話に割り込む。
管制塔は今や元の姿をとどめず、
トーマスが言葉を継いだ。
中央ディスプレイが白く光った。辰は思わず目を背ける。白鳥隊が慌ただしくなる。激しい落雷がセヴァストポリを襲っている。
辰が尋ねた。
辰が叫ぶように言った。警戒音が作戦室に鳴り響く。
白鳥隊隊長が見ているのは上空の赤鱏が撮影した写真だ。
トーマスは白鳥隊の面々を見渡した。歯ぎしりしている。
白鳥隊隊長が答える。
レベッカが言った。
辰の脳裏にボグダンたちの姿が浮かんだ。
レベッカは上着の内側から拳銃を抜いた。マテバの管制射撃仕様だ。辰は振り返り不動明王が如き彼女の双眸を見つめながらも、右手をキーボードから離さない。
レベッカは引き金を引いた。銃弾は弾倉に居座ったままだ。もう一度引き金を引く。シリンダーも撃鉄も正常に動作したが、それだけ。
レベッカは銃を捨て辰を操作端末の前から引き剥がそうとする。白鳥隊隊長がそれを止めた。トーマスが背後で叫ぶがもはや人語として意味を成していない。
隊長の声。
女性のオペレーターが答えた。
辰は高度を海面から二メートルまで落とした。海が切り裂かれていく。敵はまだ
トーマスが答える。
次の瞬間、ルーマニア海軍の二番艦が火を噴いて割れた。海面が盛り上がったのだ。爆風にあおられ
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