第2話
空の色さえ日本と同じではなかった。辰は屋根のないトラックの荷台に寝転びながらダマスクス市街の賑やかな通りを縫うように運ばれている。左右に狭く迫った土色の建物の群れから生える色とりどりの横断幕や看板、それらが紫色の空によく映えるのだ。トラックは少し進んでは止まることを繰り返していた。その度に辰は上体を起こし外の世界を見回してみる。人も車も、飛び交う言葉もそれぞれの場を満たす感情も密だ。この街には余白がない。駆け寄ってくる少女から辰は新聞を買った。今日の新聞はとっておきたかったから。その少女の向こうに辰は見慣れた女を見つけた。ただ立っていても躍動的な肢体、力強く魅力的な目、いくつもの土地の記憶が混ざり合った混血児の顔立ち。遼子だった。
トラックは街の中心を出て北西の郊外へ向かっている。建物が次第に減りはじめ、区画も単純になっていく。
辰の隣で遼子が訊いた。遼子は話すときいつも顔をきっちり相手の側へ向ける。辰は遠ざかっていく市街を見ていた。いや、見るふりをしていた。遼子と視線を合わせることが恥ずかしかった。二人は荷台と運転席を隔てる壁にもたれて並んで座っている。
路面の凹凸と連動して荷台は上下に激しく揺れた。ただ座っていると車の進行方向と反対側へ流れて行ってしまうから二人はときどき座り直さなければならなかった。辰の足が荷台中央の金具に当たった。大きく頑丈そうな部品だ。
遼子が言った。緑の上に赤文字で書かれたショッピングセンターの看板が後方へ流れていった。
遼子は荷台から身を乗り出し運転席のアリーに行き先を尋ねた。遼子の言葉はアラビア語のまさにちょうどこの辺りの方言だ。立派なものだと辰は思う。
ありのままの荒野が景色に雑じりはじめた。ダマスクスは想像を絶して狭い。トラックは幹線道路を疾走している。
二人の行く手にかがり火のような塔が聳えている。塔の麓の街はダマスクス市街から四キロほどの距離だ。機能から言えばベッドタウンだが街の規模を考えるとそんな言葉を使うことは憚られる。むしろ丘の上の新興住宅地と言った趣だ。辰はこの地区が好きだ。生まれ故郷とよく似ているからかもしれない。
遼子は辰が買った新聞を手に取った。一面の見出しにはとびきり大きな文字で
*
塔は荒野にぽつねんと立っていた。辰とアリーは内部の螺旋階段を競いながら駆け上がった。アリーは屈強だ。六十歳とは思えない筋力で牛のように踏み込んでいく。一方で辰は若さに任せて軽やかに登っていくが、半ばほどで息が切れ足が止まってしまった。追いついてきたアリーが辰の肩に手を置いた。
そう聞くと辰は自分の中にはまだ無限の活力があるような気分になって、一段飛ばしで階段を駆け上がっていく。辰は頂上の展望台へ一番乗りした。間を置かずにアリーが着き、最後に遼子が来た。ダマスクスの全てが見下ろせた。四方を岩だらけの砂漠に囲まれた狭い町だ。辰の大学がある中心街はいかにも古い。その周りを高層ビル群が欠けた輪の形になって取り囲んでいる。輪の欠損部分は内戦の跡がそのまま残っているのだ。その更に外に位置している建設中の巨大な箱は高速鉄道の駅になるのだという。二筋の幹線道路が一本ははるか北東の砂漠の奥へ、もう一本は南西のゴラン高原へ伸びている。辰は南の地平線の先で黒煙が細く昇っているのを見つけた。
辰はシリア方言を真似て言った。アリーがいるからだ。
三人の前を白い影が轟音と共に飛び去った。辰にはそれが首の長い水鳥のような姿をしているのが辛うじて見えた。
遼子が手すりから身を乗り出し窓に張り付いて叫んだ。
遼子が遮った。声の調子が明らかに興奮している。辰とそう齢の違わない若い女性が兵器に熱を上げる様子は異様だ。
アリーが言った。
三人は南の方角を無言で見つめた。煙の他には何もはっきりとわかるものはなかった。
アリーが言った。辰と遼子がそれに続く。
辰のポケットで携帯が揺れた。陸郎からメッセージが届いていた。
遼子が辰に声をかけた。辰は携帯を隠し
*
翌日の講義は全く上の空だった。陸郎はそれきり辰になんの連絡もよこさない。それでも辰からのメッセージには確かに目を通しているようだから、向こうはただただ忙しいのだろう。
教官が辰を指名した。既に配られていたレジュメに目を通し、辰はまるで聞いていなかった発表を頭の中で組み上げていく。先の内戦に関係する諸勢力を宗教と宗派によって切り分け、それぞれの正義を分析し対比していく内容だ。辰はこんな趣旨の言説にどれほどの回数触れてきたかもはやわからなかった。なんにせよおびただしい回数であることだけは確かだ。
発表者の顔が羞恥で真っ赤になった。それを見て、辰も自分の発言が急に恥ずかしくなった。今言うべきことではなかった。
教官は昨日の新聞をスクリーンへ映し出した。辰が買ったのと同じものだ。もっともダマスクスで新聞と言えばこれか国営紙のどちらかなのだから必然の一致だ。
新聞が今日のものへ差し替えられる。ゴラン高原の昨日の戦闘についての記事が一面を飾っている。
辰が言った。
アリーの背姿が辰の脳裏をかすめた。アリーが十年前にゴラン高原で経験した戦闘というのはこれのことではないか。
学生たちは俯いて自身の感情や考えをつぶさに検討しているようだった。それから一人が言った。
他の学生たちも次々にそれに賛同していく。辰はしかしその考えを受け付けなかった。アリーという、今ではめっきり少なくなってしまった昔ながらの傭兵と親しくしているから。
辰が言った。理由を求められ、辰はアリーのことを話そうとした。どうとでも話せると思っていたのに、言葉に詰まってしまった。近所の食堂で知り合ったことだとか、その縁で遼子という日本の血が流れる同世代の女性と知り合ったことだとか、昨日の塔のことだとか、些細なエピソードは無数にあるにもかかわらず、いざアリーの
その日の講義は考えが有耶無耶な終わり、辰はまさに新館を出て古臭いダマスクスの街へ出ようとしていた。携帯が鳴った。陸郎からだった。
ネット電話の音質は会話に支障をきたす程度にはひどい。辰は自然と大声になっていく。意思疎通の困難さが辰をいらだたせた。
辰は自分の今後について考えようとしたが頭が回らなかった。意識は却って過去へ引きずられていった。それから、自分がかつて人生の岐路に立って信仰の真似事により平穏と正しい判断とを得ようともがいたことを思い出した。
*
京都の夏は死の匂いがするほどに暑い。それは伏見新都心でも、この古い上京区でも同じことだ。辰は礼拝堂を出たばかりだった。礼拝堂の厳かな涼しさは瞬く間に蒸発し、ひどい湿気と肌を焼く熱線が体を包んだ。白髪混じりの顎髭を鉄の綿のように垂らした初老の男性が木陰のベンチにうずくまるように座っている。辰はその隣へ腰掛けた。男性は辰の方へ距離を詰めてくる。男同士が、それもこの暑さの中で身を寄せあう様子は奇妙に違いなかったが、辰はそれに慣れていた。この近さは中東での標準的な距離だということを辰は知っていた。あくまで話に聞いただけだったが。
男は通りかかる学生たちへ唸るように声をかける。それは優しげに響いたり叱責の調子だったりするが、誰も彼のくぐもった声から意味のある言葉を聞き取ることはできない。
男と辰は短く言葉を交わした。辰は襟を持ち上げながら手に持ったノートでシャツの中へ風を送る。辰は冷たい汗が肌を伝うのを心地よく感じた。
男が言った。男の顔は皺まみれで不健康に黒ずんでいる。しかし眼光は虎のように鋭い。
先生と呼ばれた男は懐から輸入物の見慣れない煙草を取り出した。火を付けようとして、警備員に声をかけられた。彼は警備員へ向かって吠えた。吠えた、とでも言う外に表現のしようがない獣の声だ。警備員は落ち着いて首を横に振った。片桐——その男——は皺だらけの顔にさらに皺を刻みながら煙草をしまった。
片桐が辰に一枚のビラを渡した。印刷の質はよろしくなく、情報の取捨選択なく何もかも強調しようとするフォントの選択は悪趣味だ。辰は入学直後にこんなビラを何枚ももらった。それらは大概、この京都市内で極秘裏に、しかし確かに活動する魑魅魍魎のような極左組織のものだった。しかしこのビラはそれらとは違って英語で書かれていて、とびきり大きな表題には装飾的な書体でアラビア語が併記されている。
片桐はにんまりと口角を上げた。
片桐は辰の手へビラを押し込んだ。辰は腰を上げようとする片桐に声を掛けた。
辰は片桐の顔のように皺まみれになったビラにじっくりと目を通した。シリアとイラクの国境沿いにまだしぶとく存在している武装組織の勧誘だった。辰はそれをゴミ箱へ捨てた。
*
伏見は雨の中だ。辰は大学から地下鉄に乗った。半世紀も前から走り続けている車両はそれでも近代化されていて、側面に電磁石のケースが括り付けられている。地下鉄は京都駅の南で地上に出て、非浮遊リニア化された近鉄へ接続する。丹波橋までは一本だ。このわずかな近鉄区間は市営地下鉄にとってはいわば喉から手が出るほど欲しい未回収の領土みたいなもので、京都・丹波橋間はこの十年間莫大な利益をもたらし続けている。もっとも私鉄が儲かったおかげで沿線が発展したという側面もある。関西は鉄道社会というよりむしろ、私鉄社会だ。丹波橋の利用客数は梅田に追いつきまさに追い抜こうとしている。この奇跡はひとえに伏見新都心開発の成功による。安全保障上の理由から首都機能分散を迫られた日本政府は少なくない省庁を名古屋と伏見へ移転することになった。第一候補だった大阪は自らその座を降りた。官に染まるにはあまりに民が強い街だったから。泡沫候補に過ぎなかった伏見が選ばれたのは、大阪や奈良のリニア駅からのアクセスの良さ、そしてペンキで塗りつぶされることを拒まないその無個性ゆえだ。伏見の真新しい高層ビル群は偶然性の産物と言っていい。政治と経済の重力に引かれた無数の大学がすぐに移転してきて、白一色だった伏見にささやかな彩を加えた。だから伏見はいま官と学生の大都会だ。事実、辰も二回生まではこちらのキャンパスに通っていた。上京区へ通うようになってからも頻繁に訪れる。
辰は酸性雨をかぶりながらビルの谷間を歩いた。道路の轍に水たまりができている。濡れて光沢をもったアスファルトは見え方が複雑だ。重機で押し固められた夜空のような趣がある。
騒がしい店へ入った。いわゆる学生向けの飲み屋だ。糊のきいたワイシャツをやけに生真面目に着ている恰幅のいい坊主頭がいる。辰はその向かいで胡坐をかいた。
陸郎は紫煙をくゆらせた。片桐にせよ陸郎にせよ、喫煙者というものはいつまでも絶滅しそうにない。
*
辰は結局、片桐への返事を曖昧にしたまま大学を卒業しシリアへ渡った。ダマスクスの大学院は秋入学だから半年の猶予があった。辰はその間に現地の語学学校へ通った。アリーと知り合ったのもそのころで、人通りの激しい通りにある安い食堂でのことだった。豆と肉団子のスープを啜っていたときに筋肉隆々な初老の男から声をかけられた。振り向いた辰の顔を見て男は驚きつつ隣に腰を下ろした。男はアリーと名乗り、辰を連れと間違えたのだと釈明した。辰とアリーはそれから頻繁に会うようになった。いわば年の離れた遊び友達だった。京都にいたころに自分が何を迷い何のために解決を求めていたのか、辰にはもはや思い出せなかった。
*
下宿の門の前にアリーが突っ立っていた。トラックの運転席に遼子もいる。
日本で片桐を殺した勢力と戦おうとする人が目の前にいることに辰は世界の狭さを感じて目が回りそうな気分だった。
運転席から遼子が顔をのぞかせて辰をじっと見た。辰は遼子の目の高さが左右で微妙に異なることに気づいた。均衡の崩れが却って美しかった。
辰はまた誤魔化そうとした。なぜ誤魔化そうとしたのか自分でもわからなかった。しかし、それはもしかすると、自分の人生に関わる役者の数が増えることを無意識かつ頑強に拒んでいるからかもしれないと、霊感に導かれて辰は思い至った。決心したというより、決壊した。辰は自分自身に驚きながら次のように言った。
アリーと遼子は呆気に取られ、放心した自分のありかを探すように互いを見つめた。それから腹を抱えて笑った。
辰は軽口を叩いた。しかしそれは余裕のためというよりは、激しく震えている自分自身をなだめるためだった。
*
電話越しに陸郎が言った。彼がそうやって呆れ返るのを辰は何度も見てきた。それは辰が賭け麻雀で大勝したときだとか、あるいは奨学金の書類を出し損ねたときだとかで、事態の大小にかかわらず陸郎は大げさにため息をつく。辰は陸郎のそんな癖が好きだ。彼はいま狭いバスに揺られているところだった。バスはダマスクス北東の悪路をひた走っている。車体がひどく揺れ金属の擦れる音がかまびすしいから電話を遠慮する必要はない。窓越しに砂ぼこりの乾いた匂いがする。幹線道路に沿って電波塔が点在しているから通話が途切れる心配はなかった。道路は建設中の高架と幾度となく交わる。高速鉄道を敷こうというのだ。北東への道は多額の資金が投入されている開発政策の目玉だ。
数秒の無音が続いた。辰が通話を切ろうとしたときには既に陸郎の側から切られていた。思い出した、とでも言うように文字でメッセージが届いた。
辰は少し思案してから親指で文字を綴った。多少臭い台詞を吐いても構わない気がした。
陸郎の返事は
辰の入社したSDCF——
辰を含む新人ら八人はバスから降りるなりその建物の前に並ばされ、人を待った。辰の他はみなこの土地の顔だ。八人はそれぞれ個性的で、肥満体がいればやせ型もいるし、眼鏡をかけている奴や前歯の欠けている奴もいる。しかし全員が男だ。遼子のような存在は予想よりさらに少ないのかもしれないと辰は考えた。またおそらくは紅一点である遼子がこの血生臭い職場でどんな仕事を割り当てられているかに気づいてしまい気分が悪くなった。辰は身近な人物の苦難を知るたびに罪悪感に襲われる
長身の白人男性がのっそりと現れた。その歩き方がよく訓練されていることに辰らは否応なく気づいた。男は八人の正面に立ち、名乗った。意外にも流暢なシリア方言だった。
眼鏡と歯欠けが敬礼した。辰らはそれにつられてぎこちない敬礼を試みた。自分の姿勢が無様であることは鏡なしでもわかった。
ダンは傍らにいたアリーに二人を連れていくよう指示し、アリーは彼らを例のトラックの荷台に載せて走り去った。辺りは建物がまばらで、トラックのあげる砂煙がいつまでも見えた。ダンは残された新人たちに敬礼を解くように言った。辰らは腕を降ろすタイミングを図りかねて今の今まで同じ姿勢を保っていたのだった。
ダンがにこやかに言った。その言葉で新人たちの緊張が解けた。辰はダンの振る舞いに片桐と似たものを感じて却って体が強張った。ダンの緑がかった目が辰を捉えた。
ダンは笑った。作り笑いではない笑顔だと辰には直感的にわかった。
六人は事務所を案内され、走り込みを命じられ、共に夕飯を食べてから仮眠室の三段ベッドに詰め込まれて寝た。辰は消灯の直前にアリーが連れて行った二人がまだ帰っていないことに気づいたが、彼らの行方について考えるにはあまりに眠気がまさっていた。
翌朝、辰らはその二人がすっかり縮み上がり濡れた猫のようになって帰ってくるのを見た。新人たちはちょうど運動部がやらされるような朝の基礎トレーニングを終えてAKの撃ち方を教わっているところだった。AKといっても冷戦時代のアンティークを使い続けているわけではもちろんなく、互換性を維持しながら世界中で勝手気ままな近代化を加えられたコピー品とも言えないような銃なのだ。AKという文字列がいわば統一された規格の意味で使われていることを辰はこの日初めて知った。耳と肩が痛くなった。的が三十メートルより遠くなると碌に当たらなかった。
辰は射撃訓練に入るのが早すぎると思っていたが、その言葉を聞いて納得した。ダンの言う無人機は射撃場の上空でゆったりと弧を描き飛んでいる。塔で見た白鳥の他に
ダンが叫んだ。トラックの走行音が近づいてきていた。アリーたちだ。アリーはいつものように溌溂としていたが、荷台から降りてきた眼鏡と歯欠けは遠目に見ても異常だ。すっかり青ざめて生気がなく銀色の耐火服が泥と煤にまみれている。アリーはダンを呼び寄せ事務所の中へ消えていった。訓練の監督は先輩社員たちが引き継いだ。新人たちは明らかに動揺していた。訓練は一人千発を撃って終了した。
教官役が言った。
新人たちの誰もその言葉で安心できるわけがなかった。アリーに連れられていった二人の身に起こった何かへの恐れが彼らを支配していた。教官役は
段階的に新たな内容を組み込みながら同じ訓練が二週間続いた。二日目からは眼鏡と歯欠けも加わったが、とても口を利けるような雰囲気ではなかった。辰は八十メートル先の的に弾を当てられるようになった。新人キャンプの最終日に研修手当として最初の給料が支払われた。悪くない額だったがこんな田舎では使い道があるはずもなかった。
*
新人の中で辰だけがデスクワークを割り当てられ事務所に籠りきりになった。辰は自分の新人キャンプでの出来が良くなかったのかもしれないと心配したが、初めから例の
事務所へはよく幼い兄妹が尋ねてきた。アリーの子供なのだ。ダンが相手してやるが兄妹は納得しない。遼子に会いたいと駄々をこねる。遼子のデスクは辰の斜め前だが、いない日の方がずっと多い。ダン曰く彼女は渉外をしているのだという。つまり、遼子の業務というのは辰の予想通り身体を使う過酷なものなのだ。もっとも辰はそういったことをただ窺い知るほかなかった。不親切なわけでないことはすぐにわかった。人を殺しながら恨みを買わず生き残るためには自分の領分を越えたことについて知るべきではないのだ。しかし目を通した資料から自分の置かれている環境についてなるべく多くのことを理解しようとする矛盾した欲求も辰は抱えていた。辰は次のことを知った。
第一に、歯欠けと眼鏡はいきなり実戦へ投入され試験的な戦術のモルモットにされたらしかった。その戦術というのは無人機と耐火服を着た人間による屋内への急襲だ。SDCFが自社開発した使い捨て無人機——蜘蛛の子——は対象に粘着すると液体状の燃料を染みこませ壁や装甲を内部から炎上させる。かかる手段で建物を炎と煙につつみ、間を置かずその中へ
第二に、SDCFのこの小さな事務所はもっぱら国境の二つの組織に対応するために設置されているらしかった。一つは片桐を殺した例の過激派だ。彼らは半世紀も前からシリアとイラクの国境沿いに分布していて一時はラッカを陥落させるほどに勢力を伸ばしたが、今となっては砂漠の奥のいくつかの小都市を支配しているに過ぎない。もう一つはガザルと呼ばれる連中で、いわば巨大な血族集団だ。十字軍撃退の英雄を共通の祖先として崇める民族の一部族で過激派からのラッカ奪還に際し米軍の支援を受けて最前線で戦った。しかしその後アメリカは外交上の理由から撤退し彼らを見捨てた。ガザルは本拠地を置くトルコから激しい攻撃を受け、それまで敵対していた当時の独裁政権と協力せざるを得なくなる。独裁が倒れ現在の親米政権が成立したとき、この転向の経緯のためにガザルは自治権を獲得できなかった。それ以来彼らはトルコとシリアの国境で独自の社会を築き政権や過激派とにらみあいを続けている。
週に一度くらいは戦闘があった。多くはこの土地の名士や政府からの依頼で、過激派やガザルといった法が通用しない連中との小競りあいを鎮めるためだった。辰は事務所から白鳥や可変マルチローター機の
*
習慣と化したそんな戦闘に辰が飽き始めたころになって、過激派に対して大きな
午前十時、過激派が支配する市街の南側で戦闘が始まった。アリーたち
ダンが叫んだ。辰は転落しそうになりながら車両後方の扉を開けた。蜘蛛の子は外見上は電子制御の風船だ。車両に据え付けてある操作盤のトグルスイッチを倒すとモーターが一斉に駆動しはじめた。辰は装甲車から半ば身を乗り出し右手に蜘蛛の子たちの浮遊部と制御部を繋ぐ紐を固く握りしめている。ちょうど南の面を覆いきった敵兵たちの中央へ装甲車が突っ込んだ。敵兵をはねた衝撃で車が弾む。
ダンの指示に合わせて辰は蜘蛛の子を手放した。蜘蛛の子は低くゆるやかに飛んで建物の壁に貼り付き、猛烈に燃え上がった。建物が崩れその瓦礫に敵兵たちが呑まれていく。炎と煙が壁になった。装甲車はそのまま市街の内側まで突入し左の側面を民家の壁にぶつけて停まった。後方に控えていた敵兵の弾を浴びながら密集して取り残されていた
*
損害は甚大だった。SDCFは三人の
辰は違和感を覚えた。殉職者の扱いはその名前が掲示板に張り出されるということに留まり、黙祷もなかった。業務は翌日からいつも通り再開し辰は本部へ補充を申請するため多少の書類仕事をこなした。頼んでもいないのに本部は蜘蛛の子の派生型を勝手に送り付けてくるそうだ。アリーたち
昼休みにアリーの子供たちが訪ねてきた。今日は遼子がいた。兄妹はそのことが途方もなく嬉しかったらしく遼子とアリーの間を跳ねまわった。
灰色の雲から霧のような雨が垂れた。季節はもう十月でこの砂漠にわずかな潤いがもたらされ始める頃だった。子供たちを家へ送るというアリーに辰は同行を申し出た。雨を浴びれば気分が晴れるかもしれないと考えたからだ。アリーと二人で話したいという気持ちもあった。
先に口を開いたのはアリーの方だった。何かを話したいというよりはむしろ沈黙に耐えかねたらしかった。
辰は続きを言うべきか逡巡した。アリーについてきたのはその話をするために違いなかったのだが、いざ言葉にしてみようとすると自分のナイーブさが痛々しく恥ずかしい。
アリーが言った。その声は特別重苦しくも無ければ照れを隠すような調子も無かった。至って自然体だった。何ら気負わずにそんな答えを返すことができるということは辰の理解を越えていた。
辰ははっきりと言った。出た声は出そうとしたものより大きかった。
辰は言葉を失った。アリーの言うとおりだった。
辰の鬼気迫る様子に子供たちが怯えた。彼らは門の中へ消えていった。そこがアリーの家なのだった。
辰は忙しいからと言ってアリーの誘いを断った。それが目的を持たない嘘であることは双方にとって明らかだった。
*
事務所へ向かって歩き出したばかりの辰の傍らに中型のバイクが停まり、女がヘルメットのバイザーを上げた。遼子だった。遼子の日本語を辰は久々に聞いた。喉音に乏しい二人の言語はどうしても声が柔らかく甘ったるくなる。
遼子は空を指さした。高価なセンサー群を積んだ
バイクは心地よく加速していった。アリーの家の前を通り過ぎるとすぐに街が終わり荒野が広がった。遼子の背中は小さかった。いつもより少し水嵩の高いユーフラテス川が見えた。上流の方ではもっと本格的に降ったのかもしれない。わずかな農地を抜けると二人はラッカの雑踏の中にいた。この街には信号というものがあり、市民によって交通規則が内面化されている。辰はダマスクスでもこんな景色を見なかった。二人のバイクは赤信号のために停まった。
辰は自分の考えが以前の陸郎じみていることに気づいた。ダンと仕事をするうちに思想が伝染ったのかもしれない。
遼子の話は予想もしないことだったが辰は納得した。アリーが南北両方の戦場を経験したことはそれで説明がつく。アリーはガザル兵の一人として新政府樹立のために、樹立後は新政府防衛のために戦い、そして裏切られたというわけだ。
遼子はアクセルを踏み込んだ。慣性で遼子の体重が辰の体にかかった。遼子は質問に答えなかったが、辰はその出来事でなんとなく納得させられてしまった。
*
遺跡は新市街のさらに北西にあった。遼子の説明によれば地元民も滅多に訪れない隠れた名所らしい。人気がないのはユーフラテス川中流、ここから十数分の場所に位置する人工湖に観光客を取られるからというより、一神教以前の異教の神殿だからだ。道中で辰はダマスクスにあったのと同じ建築物と、そこから直線状に延びる工事の様子を見た。ダマスクスで建設されていたあの鉄道はここへ至るのだ。屋根のある所を見つけて固形燃料に火を灯した。さっき買った缶詰を全て開けてしまうとささやかながら豪勢な晩餐が出来上がった。当たり外れはあるが概して美味い。
風が吹いて炎が揺れた。辰は遼子の後ろの壁に彫刻があるのを見つけた。七世紀に一神教の到来によって放逐された土着の女神たちだ。
遼子は左手で右のまぶたを持ち上げた。右の人差し指で眼球に触れる。手をどけると、口の粘膜と同じ薄桃色だけがその場所にあった。
遼子は顔を寄せてきた。言われた通り辰はその穴に指を這わせる。柔らかかった。
火がまた揺らいだ。遼子の後ろで女神たちが微笑んだり叫んだりするように見えた。
遼子は辰の腕を引いた。辰は倒れ込み遼子に覆いかぶさった。
辰は哀しさと恐ろしさを感じた。それと同時に、目の前にある遼子の空っぽの眼孔に嫌な欲求を覚えないわけでもなかった。
遼子の細い腕が辰を抱きしめた。遼子の吐息が辰の耳にかかった。
遼子はもう一度強く辰を抱きしめた。もう雨の音はしなかった。辰の耳に遼子と自分の鼓動が重なって鳴っているのが聞こえた。遼子の生き方がひどく悲しく思えた。
*
警報が鳴り渡った。それは不安を煽るように無調子に設定されていて、不整脈が出ているときの気持ち悪さを思い出させる。山繭蛾から受信している映像の前にダンと
ダンの指示を受けてカタパルト係が白鳥を離陸させる。事務所の壁に垂らしたスクリーンへ白鳥の映像が投影される。時刻は午後六時、快晴。高度二百メートルからの映像には先日の雨で芽吹いた鮮やかな花が砂漠のあちこちに見える。夕日が尾を広げた孔雀のようだ。
作戦テーブルに広げた地図上にダンは赤いバツ印をつけた。
ダンは栄養剤を流し込んだ。シャツはよれによれていてポテトチップスの滓だらけだ。遼子が事務所常備の菓子類を兵糧と呼んでいたのは冗談ではなかった。実のところ遼子と辰がラッカから帰ったときには、ダンは既に軍から攻撃の予兆があることを明かされて防衛の依頼を受けていた。しかし連続する戦闘の間にも部下たちに少しでも休息を取らせようと考えて直前までこの作戦を伝えず、アリーと二人で情報収集と装備の補充に奔走していたのだという。もっとも遼子だけはダンがどこで何をしているか全て把握していて、辰が彼女無しでダンと同じ場所に居合わせる可能性を一切つぶしてしまったのだが。
イラクとの国境から入った過激派の車列が南へ向かうのを自律飛行中の赤鱏が高高度から捉えた。二人の予想がまた的中したらしい。ガザルと過激派は不倶戴天の敵どうし、本隊同士を合流させ指揮系統を一本化するほどの思い切りの良さはないと考えていた。それならばSDCFにとって最も堅実な戦い方は個別撃破ということになる。だとしても戦力差には不安があったが、今回の作戦には南の国境に配備されている部隊とシリア正規軍が出るから問題ない。
ゴラン高原で鍛えられた南方部隊の練度はすさまじかった。青くペイントされた彼らの白鳥は対地ミサイルを撃ち尽くすと地上すれすれへ高度を落とし、
ダンの呼びかけに若い声が返事をした。
北方部隊A班は新調したての輸送車へ乗り込み山繭蛾一機に護衛されながら建設現場の末端へ向かい東進した。
赤鱏は引き続き過激派の車列を追跡していた。既に暗くなりはじめていたが、車列が時速一二〇キロで砂漠を南下していくのがくっきりと見える。辰は地図上で彼らに相当する駒を動かした。
アリーが会話に割り込んだ。
ダンの端末が鳴った。車載カタパルトに銀色の塊が鎮座している。細部を想像力で補填すればそれが翼を畳んだ航空機のように見えないこともない。
その瞬間、無線の向こうで金属の擦れる音が猛烈に鳴り始めた。
辰の正面のモニターに制御画面が表示される。機体の高度は八メートル。
辰は斜め向かいへ叫んだ。
通信に激しく雑音が混ざる。カメラの映像ががたつき遂に砂嵐になった。
急に外が明るくなった。サーチライトが滑空してくる機体を照らしている。
サーチライトがレーザーの複雑な点滅に切り替わり、機体はそれを追って旋回を始めた。カタパルト上の人影がせわしなく動き回り巨大なネットを立ち上げる。白鳥はそこへ柔らかく飛び込んだ。
ダンは黒電話の受話器を取った。呼び出し音が三コール目に入っても相手は出ない。
辰が訊いた。
事務所の中があわただしくなった。辰もAKを受け取った。辰は遼子に目配せした。遼子は知らないとばかりに首を横に振る。
辰の隣で中堅の
ダンが言うと中堅は笑った。
遼子が彼をきつくにらんだ。
ダンいわく回線はマンホールの下に通っていて、人が潜って様子を見なければならない。誰も志願しないのを見てダンは自ら行くことを決めた。遼子の監視を逃れられると考えて辰は同行を申し出たが、遼子は平然としていた。マンホールは一階のガレージに開けてある。ダンはその蓋を少しずらすと車の発煙筒状のものを投げ入れた。凄まじい爆音と閃光が漏れ出した。
辰は銃身ごと穴の中を覗き込んだ。銃身に取り付けたライトが穴の底を照らす。深さはざっと二メートルあるように見えた。水の流れる音がする。
ダンの声が何重にも反響した。辰は恐る恐る梯子を降りる。錆が手に引っ掛かり痛い。
辰は自分の質問が場違いなことに気づいていなかった。ただ思わず訊いてしまった。というのもちょうど辰のライトが照らしている地下水路の奥の方は細い道がずっと続いていて、伝説の類によくある黄泉の国への入り口のようだからだ。
二筋のライトが行く手を照らしている。辰は自分たち二人の他に生き物の気配を感じなかった。遼子のことを切り出そうと思ったが、上手く口が回らなかった。あの幼い兄妹が思い浮かんだ。二人ということからの連想かもしれない。
ダンは特別声を潜めもせずに答えた。沈黙はそれほど恐ろしかったからだ。
ダンの歩みがほんの一瞬止まったように辰には感じられた。
ダンが振り返りった。銃声。辰の背後で柔らかく温かいものが崩れ落ちた。人だ。
ダンは壁を辿りながら走った。
闇の向こうからダンの声が聞こえた。辰はすぐに追いつき銃からライトを外して電話線を照らした。
線は二本あり、その両方がねじ切られていた。ダンは持ってきた銅線でそれらを結び直し、さらにポーチから受話器のようなものを出した。その先端のフックを銅線に引っ掛けるとどこからでも通話ができるのだ。
金属音のような声で返事が来た。味方と連絡が通じた喜びで辰は叫びそうになる。
通話を切ろうとしたところで男の声が入った。辰たちの事務所の側からだった。
ダンは受話器を片づけた。遼子についての知らせを受けても特に動揺してはいないらしい。
暗闇の中でダンが渋い顔をするのが辰には見えた気がした。
*
ダンはコンパスをとり作戦テーブル上の地図に大きく円を描いた。その内側が遼子のバイクで四十分以内に到達できる範囲だ。ラッカや昨日の遺跡が当然その中に入っているが、アリーたちのいる会敵予想地点はそれよりだいぶ北だ。遼子がアリーの所へ着くころには指揮系統が復活しているはずだから、結局、北方部隊としては遼子が何かをしたところで作戦に影響しないと結論した。事務所全体の緊張がやや解けた。
南方部隊の増援が来るまで前線の状況が把握できない以上、電話線を切断した侵入者がどんな手段で侵入したかということが当座の問題になった。河川側の入り口に設置してある監視カメラの映像は全て問題なく送信されていて、直近のものを見る限り怪しい動きはない。すると未知の北側から流れを遡って来たということになる。
さっき辰に絡んだばかりの中堅が言った。
辰が割り入った。ダンは怒りで赤くなるというより、むしろ青くなっていた。
辰は靴がひしゃげるほどしっかりと踏み込んで中堅の顔を思いっきり殴りつけた。彼は血でアーチを描きながら後ろへ倒れた。鼻が折れている。
ダンが中堅に銃口を向けた。彼は黙り凍り付いた。
ダンの指示を受けて辰は中堅から銃を預かった。さっきの
独房の鍵をかける音が異様に大きく響いた。
*
通信が復活した。レーザー通信網には気候の影響を受けやすいという弱点があるが、この砂漠でまして夜ならまず問題にならない。赤鱏と事務所の間は高出力レーザーで通信している。赤鱏は低空の中継機——
アリーが投げた二機の山繭蛾は南へ八キロ移動したところにあった。対地ミサイルが数本消費されている。しかし観測できる範囲にアリーの影は無く、そればかりかシリア正規軍も忽然と消えている。十メートルまで高度を落としライトを灯すと幾筋もの轍の跡がずっと南へ続いているのが見えた。
ダンの問に
二筋のヘッドライトが事務所へ差し込み壁を撫でるように照らした。A班の輸送車が帰ってきていた。
ダンと話していた
南方部隊のヘリから過激派の車列発見の報が入った。
ダンが焦りのにじむ声で訊いた。
*
事務所の戸が勢いよく開いた。
ダンが正面からアリーの肩を掴み尋ねた。しかしアリーはダンに気づかないかのように事務所中を見回して言った。
それまで放心していた眼鏡に瞳の光が戻った。彼は這い寄ってアリーの足にしがみついた。
ダンはそこまで言ってから辰の方を見た。
建物が揺れ爆音が響いた。
ヘリから
事務所のごく周辺に限っては無線が通じた。南方部隊からの通信音声の背後に火焔が空気を吸う低い音と、無数の車両の走行音が聞こえる。ダンは山繭蛾の一機を彼らの護衛に当てた。観測できる限り、市街には百人を超える規模の敵兵と重機関銃を備えたトラックが六両侵入している。本隊は直接ラッカへ向かい、分隊でこの事務所を無力化しようとしているようだ。
アリーは子供たちにキスをした。それから辰の肩からAKを二丁もらい受け、ロッカーをあさって手榴弾三つと閃光弾を確保した。
アリーは事務所を出た。直後、建物が激しく揺れる。辰は倒れた棚の下から這い出て山繭蛾の操縦を開始した。近距離だから赤鱏を介さず花笠水母へ信号を送る。中継路の切り替えは初めての操作だったが、死が目の前にあるオペレーションだからだろうか、心臓の音は意識せずとも聞こえるほど大きいのに手元は落ち着いていた。事務所を狙ったのは低反動砲だった。その衝撃で外階段が崩落していたが、アリーは無傷だ。さっきまで階段だった瓦礫の中からアリーは猛然と立ち上がった。白鳥がミサイルを放ち低反動砲を搭載していたトラックを撃破した。砲撃で事務所を破壊する手段を失った敵は力業での無力化を試み多勢で突撃を仕掛けようとするが、百メートル以上手前でアリーの銃撃に倒れる。しかし彼らは直前に味方が死んだ角からまた顔を出すのだ。彼らは不気味なほどに人命を軽視していて、射撃が下手だ。
アリーの指示を受け、辰はジョイスティックのトリガーを引きながら心の中で八つ数えた。機銃の残弾が二割になった。アリーは事務所の正門からほとんど信じがたいような速度で西へ移動していた。
着弾点へ吸い込まれるように敵のトラックが滑り込んできた。爆炎の中をアリーが駆け抜ける。アリーは既に南の
アリーの指示を受けて
アリーが訊いた。
*
アリーたちは輸送車に乗り込み過激派の車列を追った。敵の車列は荷台に重機関銃や低反動砲を備えたトラックとバイク、対戦車ミサイルの起爆位置を騙すためにたくさんの房飾りを付けたバスが無数に集まってできていた。白鳥で上空から観測するとその車列はざっと一キロメートルの長さがある。
ダンが白鳥の操縦を代わった。もし責任を問われたときのためにそうするのだと辰にはわかった。
アリーが叫んだ。
アリーとの無線が途絶した。事務所からあまりに離れすぎた。ダンの額を大粒の汗が伝うのが辰の席から見えた。
辰が言った。
分針がかたりと鳴った。考えている時間などなかった。
ダンは白鳥の高度を落とし、車列に沿って蜘蛛の子を全て投下した。蜘蛛の子は車両に吸いつき、燃え上った。山繭蛾のカメラがその様子を捉えた。炎が一筋の川のようだ。軽くなった白鳥は自ら生み出した熱風に吹き上げられた。車列は完全に停止している。路上が昼のように明るくなっていた。
銃声が静まり大人たちが沈黙したことに気づいて、ダンの机の下に隠れていた兄妹がのこのこと外に出た。ダンは両手で顔を覆い、声を殺して泣いた。その袖を上の子が引っ張った。
卓上の黒電話が鳴った。ダンに代わって辰が応答した。
ダンが目を赤くして電話を代わった。
辰はガンロッカーから代えの弾倉を二つ取り出してポーチに入れた。彼はもう意志を固めていた。
辰はダンの言葉を待たずポールを伝ってガレージへ降りた。マンホールの蓋は重いと言っても一人で開けられないほどではなかった。
*
辰は砲火を潜って反乱軍を探した。迷彩服の兵士とすれ違ったが腕章が違った。彼らはダマスクスから派遣されてきた本隊に違いない。思い切って声をかけアブドゥルアジズ中将の部隊の所在を訊いた。
アスファルト上に缶が転がる音がして辰は建物の影に身を隠した。熱風が吹き寄せ爆音がとどろいた。AKを構えて再び路上へ出ると正規軍の兵士たちだったものがばらばらになって散らばっている。ガザルたちが現れ辰に気づかないまま旧市街の中心へ向かっていった。辰は彼らが来た方向へ進み、看板が色鮮やかな通りへ出た。所属のわからない山繭蛾が左側のビルへ向かって機銃掃射をかけている。辰はその下を潜り抜け、噴水のある環状交差点に至る。反乱軍の戦車が道路を埋め尽くしていた。その上や隙間で、兵士とガザルたちがある一点を見つめている。彼らの視線の先にはビルの屋上に立つアリーの姿があった。彼は辰の知らない言語で演説をしている。アリーの母語だ。
反乱軍の兵士たちが騒めく。アリーが空へ向かって撃った。おしゃべりが止まる。アリーは
ガザルの一人が激しい憤怒を込め、乾いた喉を血でかすりながら叫んだ。同じ感情が噴水の周囲全体へ波及していく。アリーは耳が痛くなるほどの音量で叫んだ。彼らは再び黙った。
まばらに、しかし確かに動揺が広がった。一人のガザルが銃を高く掲げた。波紋が広がるように一人、また一人とガザルや兵士たちが銃を掲げていく。彼らの考えが大きく変わりつつあった。その瞬間、銃声が響きアリーが倒れた。群衆にどよめきが起こる。辰は彼らの間を縫って進みアリーのいる建物の階段を駆け上った。ダマスクスの塔のことが頭をよぎった。アリーは仰向けに倒れていた。腹から勢いよく血が噴き出している。
辰は突然強い力にのしかかられた。鋭い風の音がした。辰はアリーに覆いかぶさられていた。アリーは力なく倒れた。彼の頭を銃弾が貫いていた。後ずさろうとした辰の手に柔らかいものが付いた。噴き出した脳だった。向かいの建物で狙撃手が撤退するのが見えた。これがアリーの最期だった。
辰は屋上の端に立ち噴水を見下ろした。彼はざわめきが収まらない群衆へ向かって呼びかけた。そうすることが義務であると感じられた。
辰は掌に付着したアリーの脳を飲んだ。食人はどんな宗教でも禁忌だということがふと頭に浮かんだ。この神聖な食人を否定するどんな信仰も、自分のためにはなりえないと辰は考えた。辰はアリーが所持していた装備を貰い受け階段を降りた。
*
アブドゥルアジズ中将を殺そう、この無謀なクーデターを終わらせよう、そんな声が兵士たちの間から聞こえてきた。彼らは揃って新市街の北西へ戦車を進めている。辰にはもう遼子のいる場所が鮮明に想像できた。辰は路上に乗り捨てられていたバイクを拝借した。快い夜風が辰を包み、
辰の声が壁に反響した。返事はない。辰は斜めに崩れているアーチの上へ登った。アブドゥルアジズを裏切った戦車の群れが遺跡を包囲している。異変を嗅ぎつけてきたのであろう山繭蛾や白鳥が集まりつつあり、天の光がことごとく人工物のようにさえ見える。
辰は遺跡の中心で叫んだ。また反響ばかりが聞こえる。しかし辰はその中に確かに一つ、彼の呼びかけに答える声を聞いた。辰はアーチを滑り降りた。声のした空間は壁で覆われていて大きく迂回しなければ入れない。辰は壁から離れ手榴弾を投げつけた。壁で跳ね返ったそれは砂に沈み、地面ごと壁を消し飛ばした。
軍服の老人が遼子を絞め殺そうとしているところだった。老人は辰に気づくと遼子を蹴って飛ばし拳銃を抜いた。老人は続けて三発発砲したがどれも辰には当たらない。辰は撃ち尽くすつもりで撃った。一発がまぐれ当たりして老人の拳銃を弾き飛ばした。拾おうとして屈んだところを辰の弾丸が襲う。老人は遺跡の奥へ逃げた。
遼子の表情が和らいだ。
また壁が吹き飛んだ。その衝撃で辰と遼子は抱き合って砂に飛び込んだ。遺跡を包囲する車両からの砲撃だった。
遼子は辰の手を振りほどき老人が去った方へ走った。辰はそれを追う。
遺跡の次の間で老人が言った。遼子はその肉体へ体を這わせようとしている。媚びだ。辰はそれに憤りを感じた。虐待されて形成された遼子という人格の結晶のような行為だからだ。辰は遼子のそんな姿を見たくなかった。
辰は叫んだ。老人には蠱惑的な、しかしあまりにも幼い遼子の姿など目に入っていなかった。彼は辰を見据えた。
老人は辰に銃口を向けた。辰はまた撃った。一度下がった遼子がまた飛び出してきて老人の手から拳銃を奪った。辰の弾が遼子に当たったが、辰はどうにもできなかった。恐怖と興奮で身体が言うことを聞かなかった。老人は姿勢を崩しながら遼子を庇い、体側へ無数に弾丸を浴びた。老人の左腕がぼとりと地面に落ちた。遼子と老人は砂の上に崩れ落ちた。
自分と老人の血で真っ赤に濡れながら遼子が蛇のように掠れた声で言った。
遼子は老人の拳銃を咥えた。引き金に指をかけ、銃声と同時に遼子の頭蓋が吹き飛んだ。遼子の右目が砂の上に転がった。辰にはそれが一つの宇宙のように見えた。
*
辰は留置場で朝を迎えた。アブドゥルアジズ中将発見の場に居合わせた彼は警察にとって確実に拘束する必要のある人物だったからだ。SDCFが手配したという弁護士が午前の一番早い枠で彼と面会した。彼女はまずアブドゥルアジズ中将があの場では死ななかったということを辰に伝えた。彼は血液の半分を失いながらもしぶとく生き残りラッカ市内の病院の集中治療室にいる。あくまで司法によって彼に死刑を言い渡さなければならないと考えている政府は名医の手配に忙しいらしい。
アブドゥルアジズ指揮下にあった数名の兵士の言葉として、弁護士はその日の軍の動きを次のように説明した。アブドゥルアジズはシリア北部一帯の電波を制圧したあと作戦行動を妨害したとしてSDCFの社員を拘束、さらに増援を寄せ付けないために毒ガスを使った。国内犯が相手となればこれらの使用が黙認されていたという事情もあり誰も異議を唱えなかった。過激派と衝突した直後、彼は北への不可解な撤退を指示。バイクでやってきた若い女の伝令が何か重大な極秘事項を伝えたからだろうと兵士たちの間で噂が広がった。部隊は北上を続けトルコとの係争地へ進入、そこでガザルの本体と合流した。ここに至ってアブドゥルアジズはこの作戦の目的が高速鉄道の防衛でなくラッカ占領とそれを足掛かりとする政権掌握であることを明らかにする。ガザルと反乱軍は大編成でラッカへ進撃、正規軍および複数の民間軍事企業から成る軍と市街戦を繰り広げるも証言者を含む一部の兵の離反により自壊した。またあるガザル幹部によれば、ガザルはアブドゥルアジズ中将ら正規軍内部の反乱分子を利用してシリア北部に独立国家建設を企図していた。そのために過激派の戦力を利用すべくシリア資本による高速鉄道敷設の阻止という共通目的のための一時的な連合という建前を用意した。実際には過激派に協力するつもりなど毛頭なかったし、ラッカ占領が済めばアブドゥルアジズを旧体制の後継と言う正統性を利用して傀儡化するつもりだったのだという。
弁護士が言った。
辰が訊いた。
辰の拘留は三日で終わった。アブドゥルアジズ中将と面識すらなかった彼は思いのほか早く警察の関心対象から外れたのだった。例のトラックでダンが迎えに来ていた。辰がこの車の助手席に乗るのはもしかすると初めてかもしれなかった。警察署から出るときに受け取った私物の中に覚えのない紙袋があった。遼子の義眼だった。
車は赤信号で止まった。市街戦からほんの数日しか経っていなくてもラッカの街はあちこちで規格化された秩序が顔をのぞかせている。
二人は事務所に着いた。日の光の下で見ると倒壊しなかったことが不思議なくらいにあちこちがひび割れ鉄筋が露出している。ガレージで眼鏡が兄妹と遊んでいた。
女の子がダンに飛びついた。
辰が訊いた。
辰は遼子の義眼をダンに渡すべきか迷った。しかし義眼などというものは平凡な死を望む人の生活にはあまりに似合わない気がした。辰は遼子の一部を永遠に自分で持っていることに決めた。
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