花の葬列――人間の土地――
時雨薫
第1話
夜明けの砂漠は煮え立つ大地だ。泣く赤い目だ。不定性の丘を、辰は無数に越えていった。途方もない無音。聴覚の不在を埋め合わせようとして、鼓動や、うっすらとした頭痛、そういった生理的な現象が彼の耳の奥に読経のように聞こえてくる。この広大な空漠の中にさえ、人間の生活がある。外界から隔絶し放浪生活を送る部族があるらしい。彼らは動物に乏しいこの砂漠でおそらく最大の哺乳類の群れだ。
実のところ、辰自身彼らの実在をつい最近まで信じてはいなかった。仮にいたとしても既に死に絶えたか、砂漠を越えて何処か緑のある所へ定住したものと思っていた。なぜというに、彼らのキャンプを写した衛星写真は一つとて無かったから。先日、試験飛行中の夜間偵察機が人影を捉えた。周辺のいかなる結社によるサービスも受け入れない人々がこの砂漠に存在する。もしそれが本当なら、会ってみたい。パラダイスを出てもう四週間になる。遭遇が予想されるポイントへの到着は今夜だ。例の写真以降、彼らの姿をとらえたという報告はまだない。
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西サハラの港湾都市パラダイスは過去数十年の間で最も文化的なものが集積した都市かもしれない。治療された人類になることを拒む変わり者が世界のあらゆる場所からやって来たからだ。辰の旧友であるアフマドはそこに王として君臨していた。彼は再会を喜びもしたが、それ以上に四十年前に起こったことの意趣返しとして辰をこき使ってやりたいらしかった。彼は金装飾が施された豪奢なベッドに横たわり、艶めかしい娼婦たちの慰めを受けながら言った。
アフマドは腰から下を覆っていた布団をどかしてみせた。彼の両脚は異常にやせ細っていて、もう何年も体重を支えていないことがわかる。
パラダイスの王宮はワインボトルが逆さに突き刺さった形をしている。アフマドの趣味だ。
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辰の背後二キロの地点を
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風がやんだ。
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補水液は死守したが、空き容器とまだ手を付けていないクラッカーが飛ばされた。炭水化物不足で歩くことになると思うとげんなりした。マニュアルにどう書いてあったかは忘れたが、昼食の分を先にもらおうと思って
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テントを組み上げたころには全身の筋肉がひどく悲鳴を上げていた。この極小の庵の壁には使用法についての注意書きが細々と書かれていて、文明との心細いつながりを提供してくれる。しかし辰は文字を見ない生活に快さを覚え始めていた。代わりの
七人の子どもたちの筆頭が遼子だ。見たことがないはずの十歳くらいの姿。絶えず体を揺らしていて、しばしば右の目が落っこちている。自分の身体を大切にしようという気持ちが全く欠落している。だからよく高所から飛び降りて足を粉々にするし、ちょっとした癇癪で指を切り落としたりする。何にせよ空想の存在だから問題はない。
残りは二人ずつが組になっている。一組目はパウルとミハイ。パウルは繊細で自己犠牲の心が強く、いつも顔中を痣だらけにしている。誰に殴られてくるのかわからない。しかしどんな痛みも自分が引き受けなければ気が済まないらしい。殴られないことで不安になるよりは殴られて安心していたいのだそうだ。ミハイは何かに怒っている。何に怒っているかは彼自身思い出せない。七人の中で一番気楽だ。
二組目は同じ名前の双子だ。赤髪のエヴァと黒髪のエヴァ。赤髪のエヴァはいつも寂しくて泣いている。ひとたび辰に張り付くと三日くらいは消えてくれない。胸の奥の洪水が引かない。怯えることが呼吸することのようになっている。黒髪のエヴァは心を開かない。沈黙と不信。氷点下の空気を肺一杯に吸いこんでしまったときのような鋭く持続する痛みを霧のように纏っている。
三組目の兄妹は遂に名前を知る機会が無かった。上は五つで下は三つくらいに見える。兄は左脚の膝から下が千切れていて松葉杖を突いている。妹は裸でやせ細っている。二人とも淀んだ沼のような目をしている。
七人の子供たちはばらばらに話し始めた。聞き慣れたシリアの言葉があり、ウクライナ語があり、ルーマニア語やヘブライ語がある。その背後に喧騒が聞こえる。男たちの叫びと、銃声と、女の悲鳴が聞こえる。砲撃を受けて建物が崩れていく轟音が聞こえる。幻聴が世界で唯一の音になり、現実になった。テントの入り口が開いて、光が強く差し込んだ。こちらへ突き付けられた銃の影と、それを担ぐ男とが見えた。
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辰は手足を堅く縛ったうえで熱い砂上に寝かされていた。男の仲間が現れて彼の背嚢をあさっていた。食べ物が無いことがわかると辰の腹を強く蹴り上げた。辰は嘔吐した。緑色の液体だけが出た。男たちは三人組だった。二人がかりで辰をラクダの背中に括り付けた。残る一人が手際よくテントを回収して荷物に加えた。
砂漠の太陽は瞼越しにも痛い。それでも辰はときどき目を細く開けて、三人組を観察するように努めた。第一に気になったことは男たちの服装がまるでばらばらだということだ。中東風の白い服を纏った男がいれば、サハラ以南との接触を感じさせる派手な花柄の男もいる。リーダー格の男はジーンズをはいていた。そのくせ、三人の顔はほとんど見分けがつかないくらいに似ている。ナイジェリアあたりで見る顔だ。体格は恐ろしくいい。口数は少なかった。それも辰から離れたところでささやくように喋るのだから、どこの言語かもわからない。彼の耳に入ったのはラクダの背中で荷物同士が擦れる音ばかりだ。空想の子供たちは既に遠ざかってしまっている。ジーンズが先行してしまいがちで、花柄と白服がときどき駆けて追いつく。そのたびに辰は体中をひどく締め付けられる。花柄が一番下っ端らしい。三人の暴力的なじゃれあいが辰に花柄への同情を催させた。そのじゃれあいもいつの間にか止んで、白服の口笛だけが高く聞こえている。
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男たちが何を目当てに歩いているのか、知る術もなかった。それでも彼らの足取りには少しの不安もなかった。日が傾いたころになって男たちは小休憩をとった。辰にも水が与えられた。容器は動物の胃か膀胱で作られているらしく、辰は少なからず落胆した。なんらかの工業製品であれば彼らの素性を明らかにする手掛かりになったからだ。
直ちに殺すつもりはないことが明らかになって、多少の安堵と、これから経験するだろう苦痛への不安を感じた。試みに彼らへ話しかけてみた。初めに英語で、次にアラビア語、ハウサ語、フランス語、ベルベル語。それから無数の現地語で。彼らはいずれにも返事をしなかった。理解して無視したという体ではなかった。なぜというに、三人は辰の声に真剣に耳を傾けていたから。明らかな好奇心がうかがえた。こちらに多少の興味を持っているからにはコミュニケーションもきっと可能だ。ラクダへの括り付け方があんまりだったことを身振り手振りで三人に伝えた。三人は辰の意味するところが何か軽く議論を交わした。短い会話だったから声調のある言語だという以上のことはわからなかった。それから辰を人間らしい姿勢でラクダの背中に座らせた。さっきまでは空に向けて仰向けに括り付けられていたのだから、これは大きな進歩だった。
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灼熱が遠ざかり、血も凍る寒さがやってきた。意識が次第に遠ざかって辰は何度も短い眠りに落ちてしまった。半月が天高くに見えた。既に零時に近いことと、東の方角、すなわち砂漠の更に奥の方角へ向かっていることを知った。代理の
*
だんだんと熱くなる空気から朝の訪れを知った。歪な格子の向こうに東の空が見えた。その明かりで自分のいた空間が電話ボックス程の広さだったとわかった。群れはすでに動きはじめていた。それが砂漠の生き方だ。まだ灼熱に呑まれず、かといって暗くもないこの時間に人々は労働を済ませる。辰はそのことを遠い昔に本で読んで知っていた。歩きはじめたばかりの女の子が格子の前に来て、辰を見た。後ろから男が来て女の子を抱き上げ連れていった。昨日の白服だった。父娘なのだろう。空がもう全く夜を駆逐したころになって、初めて見る女が辰に干し肉とチーズをひとかけづつくれた。口に含んでも唾液が碌に出なかった。飲み込むたびに喉が酷く傷んだ。
食べ終わったところで格子が開いた。花柄と白服が辰を左右から拘束して、平たいテントの前へ連れて行った。正確を期して言えば彼らのテントは貝が小さく口を開けた形をしていた。辰の知る建築様式ではない。彼らのキャンプが衛星写真に写らなかったことに納得がいった。屋根に砂をかぶっているのだ。彼らはヒラメのように暮らしている。振り返ってみると自分がいた牢屋も同じ造りだ。屈まされ、貝の口から奥へ入る。皺まみれの老父が胡坐をかいて辰を待っていた。
フランス語だった。辰は答えなかった。
老父はそれきり黙った。三分か五分の時間の後、老父は横に控える男へ目配せした。男は昨日のジーンズだった。男が包をほどいた。中身は辰の液体クラッカーだ。
辰はまだ押し黙っている。
花柄が辰の右手を地面へ押さえつけた。白服が人差し指の爪をつまみ、勢いよく引き剥がした。花柄が怯えたのがわかった。熱さに近い痛みが走った。
*
辰はまた牢に戻された。脱水でとてもひどい頭痛がした。その惨状とは裏腹に空想の子どもたちは狭い牢の中でしばしば重なり合いながら激しく跳ね回っていた。遼子が左の目を抉り出していた。二つの眼孔を空にして辰に向かって微笑む。日が沈むころになって朝の子どもがまた牢の前に現れた。遅れて白服がやってきて辰に水を与えた。女の子は白服に手を引かれて去った。深夜になって牢から出された。瞬く間にすべてのテントが畳まれた。人間が二十人程度とラクダが三頭いるらしかった。花柄に引かれて歩いた。夜の砂漠は極寒だった。無数のサイコロを転がして自動生成したかのように単調で変化のない景色が続いた。星が百回滅ぶほどの長い時間歩いた後に朝が来た。群れは直進をやめ、手際よくテントを組み立てた。辰はまた牢に入った。
同じ日々を繰り返しすこと五回になった。毎日一回の食事と二杯の水が与えられた。白服の娘は朝夕ごとに辰の牢の前に来た。辰は老父の前に座らされ、詰問され、沈黙を貫いた。一枚づつ爪がはがされていった。右手には爪が全くなくなってしまった。辰は幾度も空を見上げ、人の目を盗んで両手を振った。
牢に籠る生活を続けるうちに匂いというものが気になるようになってきた。歩き続けた日々もずいぶんひどい匂いがしていたはずだが、まるで気にかけなかった。おそらくは停滞のせいなのだ。進むことも退くこともままならなくなって、肌にべたりと張り付いた汗と、熱せられた砂の匂いとだけが辰の意識を占領している。これまで踏み歩いてきた土地を、彼はぼんやりと思い出していた。
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