第64話 氷海のクロ――シベリア抑留②




「よし いい球!」

「空振り 三振!」


 白夜びゃくやの 空に 男たちの 元気な 声が ひびき わたり ます

 

 ――カ~ン! ⚾

 

 澄んだ 音が して ボールが 空に きれいな アーチを 描き ました

 とそのとき 地面に 伏せて いた クロが 起き上がって 猛ダッシュ!

 ボールが バウンド した ところを 黒い 口を あけて パクッ! 🐶


「うまいぞ クロ!」

「いよっ 名選手!」


 みんなに ほめて もらった クロは まんざら でも なさそう です


      🌞

 

 名づけて 「クロ野球」は 短い 夏を 大いに 楽しませて くれました

 

      *

 

 シベリアでは 9月に 入ると もう 霜が おります

 秋の 草花も 一夜にして しおれて しまい ました

 またしても 長くて きびしい 冬の はじまり です

 

 男たちは 暗い顔で むっつりと 黙りこむ 日が 多く なりました

 人間が 一片の 希望も なしに 生きる ことなど できましょうか


 祖国日本で 待つ 家族も 自分も 無為に 歳を かさねる ばかり

 絶望の あまり 肩を 丸めて ふさぎこんだり 捨て鉢に なったり

 からだを こわして 死んで いく ひとたちが あとを たちません

 

      *

 

 そんな ある夜――

 遠くの ほうから 調和の とれた 美しい 男声が 近づいてきました🎶

 見まわりの ソ連兵たちが 得意の ロシア民謡を うたって いるのです

 

 収容所の 扉が 外から 開けられた とき ある 出来事が 起きました


 それまで 静かに 床に 伏せて いた クロが むっくり 起き上がると

 顔を 上気させた ソ連の 若い 兵隊たちに 猛然と 吠え始めたのです

 歯を むき出した クロは いつもの やさしい クロ では ありません 

 

 あまりの 剣幕に 恐れを なした ソ連兵たちが 立ち去って しまうと

 呻りを やめた クロは どっと ばかりに 男たちに かこまれ ました


「クロよ おまえは ほんとうに かしこい 犬なんだなあ」

「おれたちの 気持ちを わかって くれて いるんだよな」

「えらい えらい さしもの ソ連兵も クロには 降参だ」


 みんなに ほめられた クロは またしても まんざらでも なさそう 🐶

 

      *

 

 何日にも わたって 猛吹雪が つづいた ある 寒い 晩の こと

 寝静まった 収容所で 黒い ものが むくりと 起き上がりました

 全身の 神経を 張りつめて なにかを うかがって おりましたが

 

 ――ワンッ!

 

 ひと声 大きく 吠えました

 

 男たちが 慌てて 飛び 起きると きなくさい 匂いが 立ちこめ

 どこかで パチパチと なにかが はぜる 音も 聞こえて きます

 さいわい ボヤで おさまったので クロの 大手柄と なりました


      *

 

 よろこびも かなしみも さびしさも 不安も ひとつの 心にして

 シベリアの クロと 日本の 男たちは 強く 結ばれて いきます

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