第63話 氷海のクロ――シベリア抑留①
ひゅーっ
びゅーん
さえぎるもの とてない シベリアの 凍土を すさまじい 音を 立てて
寒風が わたって 行きます 灰色の 空に 有刺鉄線が つきささり……
――この 北辺の 地で どう 生きて いけと いうのか
ひらおさんは なげやりな 視線を 南の 空に 放って から 胸の 底に
たまった 黒い 重苦しい ものを ふうっと ばかりに 吐き出し ました
*
戦争が 終わった とき ひらおさんは 24歳の 若者 でした
戦時中 陸軍中野学校 出身の エリート軍人 として モンゴル民族社会で
ソ連軍の
――
シベリア 抑留者中で もっとも 重い 刑を もうし わたされた のです
*
極寒の ツンドラ 地帯に たてられた バラック づくりの 捕虜収容所で
ソ連兵に 追い立てられ ながら 過酷な 鉄道敷設に 従事 していました
夜は 寒さに ふるえ ながら わずかな 黒パンを 塩汁で 流しこみます
――ああ ふるさとへ 帰りたい なあ
囚われ人の 心を 置き去りに して 季節は むなしく 過ぎて いきます
秋 🍁
北の ふるさと シベリアで 生まれた ばかりの ひな鳥たちを 連れて
鶴や 白鳥などの 渡り鳥の 家族が 南へ 南へと わたって いきます
遠い 空へ 消えて いく 白い 鳥の影を 黙って 見送る 男たち……
春 🌺
南の ふるさと 日本から 三三五五 渡り鳥 たちが 帰って 来ました
1年の 半分を 北の 国で のこりの 半分を 南の 国で 暮らすのが
渡り鳥の 宿命と わかっては いても 男たちは あきらめ きれません
――ああ おれたち にも 羽が あったら なあ
自由に 行き来 できる 渡り鳥が うらやましくて たまらない のです
*
春が 過ぎ
夏が 過ぎ
秋が 過ぎ
冬が 過ぎ
いくつもの 季節が 男たちの 目の前を ただ 通り すぎて いきます
*
そして また 南の 空の かなたに ぽつんと 浮かんだ 白い 鳥影が
見る見る 大きく なり 日本 から 春の 使者が もどって きました
*
祖国では とっくに 桜の 花も 散ったかと 思われる 5月の 末ごろ
ハバロフスク収容所の 前庭で なにか 黒い ものが うごいて います
――カッ カッ カッ カッ
前足で 地面を ひっかく 音
――フン フン フン フン
濡れた鼻を 押しつける 気配
とそこへ 野太い 声が しました
「おおい クロよ なんか いい ものでも 入って いる のかい?」
にこにこ 笑って いるのは 34歳に なった ひらおさん です
萌え 出る 若草の かぐわしさに 夢中に なって いた 黒犬は
はっと 顔を あげると ひらおさんに 体当たりを 食らわせます
「おい クロ よせ よせったら ははは くすぐったい じゃないか」
クロに 顔を なめられた ひらおさんは 楽しくて たまりません
*
今日も 1日 労働の 日が 暮れました
疲れた 足どりで 帰る 男たちを 黒犬が しっぽを 振って 迎えます
「クロが 待っていて くれると 思うと つらい 仕事も 苦に ならんよ」
「おお よしよし いい子だ 郷里から 送ってもらった 菓子を やるでな」
口々に 言い立て ながら 男たちは 黒犬の 身体を 撫で まわします
――キュイン キュイン
クィ~ン クィ~ン
日本人 捕虜収容所の 近くに 捨てられて さまよって いた 黒い犬は
孤独な 男たちの かけがえのない 家族 であり 親友 でもありました
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