第54話 おじいちゃん――満洲開拓⑤




💃 5 決死の逃避行


 

 永遠につづくかに思われていた平穏な暮らしに、なんの前触れもなく、とつぜんの終止符が打たれたのは1945年日本でいえば昭和20年8月10日のことだった。


 それより数日前、開拓団から見える地平線のかなたを、濛々と土ぼこりをあげながら急ぐ行列を見て、「あれはいったい、なんの騒ぎだろう」とうわさしていたんだ。


 大車ダーチャに家財道具を山積みした人たちが、南へ南へと速足でくだって行く。

 いち早く敗戦を知った関東軍の家族だったことは、あとで知るのだが……。


      *

 

 8月10日の明け方、いつもとちがう不穏な空気が開拓団を包み始めたかと思うと、手に手に草刈り鎌を持った暴民が恐ろしい声をあげておそいかかって来た。


 なかには、昨日まで苦力クーリー(労働者)として雇われていた現地人の顔もあった。

 あっという間に家は破壊され、家財や食べ物は奪われ、牛馬は野に放たれた。

 なにがなんだかわけが分からないまま、着のみ着のままの逃避行が始まった。


 そのころ、国は約束を破り、村の男衆は兵隊にとられていたので、開拓団に残っているのは女性や年寄り、子ども、病人など弱いものばかりだったが、団長の指示で、とにもかくにもひとつにまとまり、ひたすら南を、祖国日本を目指して歩き出した。

 

      *

 

 行く先々の暴民に怯えながらの逃避行は、まさに生き地獄そのものだった。


 家から持ち出したわずかな食糧はとっくに底をつき、歩きながら口にできるものといえば、木の実や草の根、畑に残されたトウキビやキャベツの下葉したばだけだった。


 のどが渇いても泥水をすくって飲むしかない。

 飲むはしから激しい下痢におそわれたが、腹が痛くても、立ち止まってなどいられない、水のような下痢を垂れ流しながら、みんなのあとをついて行くしかなかった。

 

      *

 

 考えられないほど簡単に、つぎつぎに人が死んでいった。


 前を歩いていた人が、歩きながらすっと倒れたと思ったら、もう息をしていない。

 夜、山の木の幹に寄りかかってともに眠った人が、明け方には冷たくなっていた。


 大きな川の濁流に呑みこまれた人も数知れず……。


 まるで順番が決められてでもいるかのように、弱いものから死んでいった。

 妊婦は藪に入って出産し、赤ん坊はそのまま置き去りにするしかなかった。

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