第20話 花が咲いた――食糧増産




 勝った勝ったの勇ましい報道をよそに戦局が悪化して来ると、社会がまわらなくなり、食べもの、着るもの、日用品……あらゆる品物が足りなくなって来ました。


 なかでも、もっとも困ったのは食べものです。

 栄養のあるお菜など夢のまた夢、白いごはんも昔語りとなり、来る日も来る日も水っぽい雑炊ばかり。ホッカホカの炊き立ての飯、田んぼの畔で頬張ったむすび、思いっきり食いたいなあ。おい、そんなこと言うなよ。のどから手が飛び出すぜ。


 国民が一丸となっているときに不謹慎だと叱られてしまいますから、おおっぴらには言えませんが、親しい仲間内では、うっそりと暗いため息をつき合いました。

 

      *

 

 なんのこれしき、戦地の兵隊さんのご苦労を思えば、腹が減るぐらい……そう思って、みんなけんめいに堪えていますが、どう我慢しても、腹は空くのです。


 なら、手っ取り早くみんなで食糧増産を図ろうということになり、家庭や学校、職場、公園など思いつく限りの空き地を開墾して、野菜畑にすることにしました。


 むろん、スズ子さんの家も例外でいられるはずがありません。

 戦時下での例外は、「非国民」と呼ばれることを意味します。


 日々の暮らしをつなぐ配給切符も隣組単位で管理されているご時世に、地域から弾き出されてしまったら、今日明日からさっそく生きていかれなくなるでしょう。


 幼いころから花が大好きだったスズ子さんは、心の内で「ごめんね、ごめんね」と詫びながら、長いこと丹精して来た花の根を引き抜いて野菜の種を蒔きました。


 家といっても生まれ育った家ではなく、嫁いで来た家ですから、頼りの夫が出征してしまったいま、スズ子さんは寄る辺のない心細さをひしひしと感じています。

 

      *

 

 女手ひとつで5人の子どもを育て上げたお姑さんは、スズ子さんの夫である長男と年子の次男とを相次いで戦地に送ってから、目に見えて元気がなくなりました。


 近所に嫁いでいる義妹たちがやって来ると、母子水入らずでひそひそ。

 スズ子さんがお茶を運んで行くと、ピタッと声が途絶えてしまいます。

  

      *


 そんな晩秋のある日のことです。

 裏庭でとつぜん蛮声がしました。

 

 ――これはどういうことだ? このご時世に!

 

 地域住民の動向にいつも鋭い目を光らせている在郷軍人会のなかでも、とりわけ強面で恐れられている屈強な老人が、ぬっしとばかりに仁王立ちになっています。

 

 ――あっ、それは……。

 

 スズ子さんが慌てて裏庭へ出ようとすると、奥の部屋にいたお姑さんがいち早く飛び出して来ました。そして「それは戦地の兵隊さんたちの武運長久を祈願して、このわたしが大事に育てているのですよ」昂然と胸を張って言ってくれました。


 一歩も退かない気構えのお姑さんに、元軍人は不承ぶしょう立ち去りました。

 薄紫のひと群れは、スズ子さんがほんの少し残しておいた野菊だったのです。

 

      *

 

 すべての国民を泣きに泣かせたまま、戦争は惨めに負けて終わりました。

 遺骨の代わりに小石や貝殻を入れた白木の箱がふたつ、縁側に並んでいます。

 山から吹いて来た秋風が、薄紫色の野紺菊を、フルフルとふるわせています。


      *

  

 とある高原都市のひとりの小学校教師が荒みきった戦後社会に灯をともそうと、家庭の庭や地域の空き地に花を植える活動を始めたのは昭和27年のことでした。


 小さな苗のひと株から始まった草の根活動は、やがて「花いっぱい運動」として全国に広がってゆきました。76年後のいま、日本列島には花がいっぱいです。

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