第13話 日めくり暦――戦勝祈願




 毎朝、家の大黒柱に掛けた日めくりこよみをめくるのは、おれの仕事でした。

 ペリッと紙をはがすときの音と感触を、いまもこの指先が記憶しています。


      *

 

 農家の朝は早い。

 まだ薄暗いうちから起き出し、とうちゃんは田んぼの水を見に行き、かあちゃんはかまどを焚きつけます。やがて家中に旨そうな味噌汁の匂いが漂い始めると、子どもたちも眠い目をこすって起き出して来ます。

 

 ――じいちゃん、ばあちゃん、とうちゃん、かあちゃん。

   にいさん、ねえさん、みなさんおはようございます。

 

 畳に手をついてあいさつすると、ついでに猫のミーコの頭も撫でてやります。

 縁側の向こうでは、犬のゴローが尻尾を振って待っているので、そっちの相手もしてやらなければならず……こう見えて、おれたちの朝はけっこう忙しいのです。


 そうこうするうちに、かあちゃんが仏壇のお茶碗に炊きたてのごはんを山盛りにしてくれるので、それをお供えして、ご先祖さまに今日の無事をお祈りします。


 一連のルーティンが済むと、いよいよぼくの出番です。7人兄妹の真ん中のぼくがどうして暦をめくる役割なのかというと……えへへ、寝小便小僧だから。(*'ω'*)

 

      *

 

 去年の暮れ、出入りの酒屋の丁稚どんが今年の日めくり暦を届けてくれたとき、

 

 ――いいか、シロー、来年はおまえに暦をめくる係を申しつけるぞ。

   寝小便が治るように、心をこめてめくるんだぞ。分かったな?

 

 そう命じるとうちゃんに「うん、おれ、がんばるよ」力んで答えていました。

 

      *

 

 わが家の毎朝の行事が終わると、ようやく朝食の膳につきます。

 といっても一汁一菜が当たり前、なんの拍子か魚の干物でもあれば大ごちそうという質素なものでしたが、祖父母や両親のもと、上から順にお下がりの着物を着た子どもたちがみんな打ち揃ってちゃぶ台を囲むのは、なかなかいい眺めでしたよ。


 たまに仏頂面をしている子がいると、たちまち、かあちゃんの叱声が飛びます。

 

 ――自分の不機嫌を、ひとに移すんじゃない!

 

 おかげで、おれたちは自分の気持ちをコントロールできるようになったんです。

 

      *

 

 ところが、そんなささやかな平穏すら許されないときがやって来ました。


 昭和16年12月8日午前3時19分(日本時間)、日本軍がアメリカの真珠湾を奇襲攻撃し、どうしても適うはずがない列強諸国と無謀な戦争を始めたのです。


 といっても、国民のほとんどが会ったこともない政府や軍の偉い人たちが勝手に決めたことですが、わらべ歌のように「いち抜けた~」とはいかず、ふと気づけば真っ黒な投網とあみにがんじがらめに搦め取られ、身動きできなくなっていました。

 

      *

 

「赤紙」というものを初めて見たかあちゃんの顔は真っ青で、堅く握った拳をブルブルふるわせています。そのかたわらで、とうちゃんは黙ってうつむいています。


 日の丸の小旗に送られ、とうちゃんは出征しました。長兄と次兄は自ら予科練に志願し、中学校に入ったばかりの三兄には、学校ごと勤労動員令がかかりました。日めくり暦をめくるおれは、戦勝祈願と武運長久を懸命に祈るようになりました。


 そして、おれもお国のために役立ちたいと決意したとき、日本は負けたのです。


 特攻隊として出動した長兄は南の空に散華し、次兄は人間魚雷回天で海の藻屑と消え、陸軍二等兵として中国大陸に連れて行かれたとうちゃんは、英霊と書かれた小石になって帰って来ました。三兄は動員先の名古屋の工場で空襲を受けました。

 

 ――日めくり暦のばかやろう!

 

 大切な家族を守ってくれなかった暦を、おれは二度とめくらなくなりましたが、ペリッと紙をはがすときの音と独特な感触は、76年後のいまも忘れられません。

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