第11話 赤い靴――中国残留孤児




 わたしね、自分がだれだか知らないの。

 知らないままこの歳になっちゃったの。

 ええ、王美鈴ワンメイリンというのは、中国の養父母がつけてくれた名前よ。


 戦争が終わり日本人が祖国へ引き揚げて行くとき、引揚船が止まっている波止場でひとりで泣いていたんですって。ピンク色のワンピースに赤い靴を履いて……。


 ただそれだけが、わたしのルーツ。

 当時まだ2歳にもなっていなかったみたい。

 満鉄〈南満洲鉄道。日露戦争後のポーツマス条約で日本がロシアから譲り受け、大連・哈爾濱ハルピン間を最高時速130キロで蒸気機関車「特急あじあ号」が走っていた)の職員の子ども? さあ、どうかしら。だれにも分からないことよね。

 

      *

 

 小さいころからパーパマーマに連れられて来ていたから、炎天下だって、ちっとも辛いとは思わない。ほら、向こうに陽炎が揺れているでしょう。シルクロードのあれとお話させておいたら、いつまでも飽きずに遊んでいたものだよって、いまは亡き養父母がよく話してくれたものだわ。


 ああ、この子? テンテンっていうの。ワンの家に引き取られたときから、犬さえそばにいればご機嫌だったんですって。ええ、それから、ずっと犬は友だちよ。


 西瓜? 売れるときもあれば全然なときも……。そういうもんでしょ、商売は。

 そうそう、マンマンデ、マンマンデ、マンマンデ。人生、ゆっくり少しずつね。

 

      *

 

 物心ついたときは養父母や兄姉と一緒に暮らしていたの。揃ってやさしく慈しみに満ちた人たちだったので、じつの子どもよりも大事にして可愛がってくれたわ。


 たまに村の腕白坊主どもに「やあい、日本鬼子リーベングイズ!」なんていじめられたりするとね、父母はもちろん兄や姉たちまでが血相を変えて追い払ってくれたものよ。


 ごらんのとおり敦煌とんこうは砂漠地帯だから、たしかに生活はゆたかとは言えなかったけど、家族みんなで助け合い、いつも笑顔が絶えない暮らしでね、悲惨な目に遭った人が多い日本人孤児たちのなかでは、わたしはとても運がよかったみたい。

 

 ときどき来るわね、日本人観光客を乗せたバス。

 遠くからでも、なんとなく分かっちゃうのよね。

 これ、犬ゆずりのわたしの動物的勘よ、ふふふ。


 あのバスのなかに、ひょっとしたらわたしの両親も……なんてくるおしい気持ちに駆られたこともあったりしたけど、それも遠い話、考えても仕方がないものね。


 そんなことは養父母には打ち明けなかったわ。心底から大事にしてくれる両親を悲しい気持ちにさせるようなことは、いっさい言わないようにしていたから。


 でも、ひとりでこっそり思ってみることはあったわね。

 聞くところによれば、戦争に負けた日本はいち早く発展を遂げたそうじゃない? そんな母国に帰っていたら、いまごろ、どんな暮らしだったかなあ、なんてね。

 テレビで観るように、お正月には振袖を着せてもらい、髪飾りを付けて、初詣とやらに出かけたりしたのだろうかなんて……考えてみれば、運命ってふしぎよね。

 

      *

 

 ほら、また砂が鳴いている。

 

 ――キシキシ、キシキシ……。

 

 言い伝えによれば、この砂山の下には漢軍の兵士たちがたくさん埋まっていて、いまも敵の軍と壮絶な戦いを繰り広げているんですって。キシキシ、キシキシっていう砂の声は、傷ついた兵士がふるさとを恋しがって哭いている声なんですって。


 鳴沙山めいさざんはね、風が吹くたびに少しずつ山のかたちを変えているの。そう、砂漠の山はあなたまかせ、風まかせ。まるでわたしの人生そのものみたいでしょう。


 その山の向こうには、三日月型をした美しい湖があるのよ。そう、月牙泉げっがせん

 古代から決して涸れない湖と言われつづけて来た砂漠のオアシスなんだけどね、うわさによれば、近ごろほんの少しずつ湖周が小さくなって来ているんですって。


 ここだけの話、文化大革命が終わってから湖畔に古い楼閣を復元したでしょう。そのせいじゃないかって、村の人たちはこっそりうわさしているのよ。いやあね、だれもかれも、お金お金って目の色を変えちゃって。マンマンデが当たり前だったこの国も、そのうちに日本のような社会になっていくのかしら。さびしいわね。

 

      *

 

 毛沢東主席の革命が始まったころ、わたしは24~25歳だったの。

 都会では偉い人たちが首からプラカードをぶら下げられたり、奇妙な紙の帽子をかぶらされたりして、年端もいかない紅衛兵たちにこづきまわされたんですって。


 文革の嵐は、とりわけ日本人の残留孤児にきびしかったと聞いている? 

 それはどうかしら。このあたりの田舎では大したことはなかったから。

 

 ところで、敦煌へ来て莫高窟ばっこうくつへ足を運ばない人はいないでしょう? みなさん、千仏洞せんぶつどうの仏さまを拝みに世界各国からはるばるやって来るんでしょうから。


 ユネスコの世界遺産に登録されている莫高窟は本当にすごいのよ。

 600余りの洞窟に安置されている2,400余体の仏塑像ぶっそぞうは、紀元355年、一説には366年から1,000年間にわたって彫られつづけたのだそうよ。


 あら、言いそびれたけど、孫娘がね、外国人向けのガイドとして働いているの。少しばかり外国語を話せるものだから。いえ、それほどでも。大したことないわ。そうね、英語にフランス語、それに韓国語と日本語もちょっとばかりね。親孝行、祖父母孝行の自慢の孫娘でね、わたしも何度か千仏洞へ連れて行ってもらったわ。


 いまはこんなしわくちゃ婆さんになっちゃったけど、若いころはあなた、紅唇の姑娘クーニャンなんて騒がれてね。いまふうに言えば美眉ということになるのかしら、真っ赤なチャイナドレスなんか着て街を歩いたら、すれ違う人たちがみな目を丸くして振り返ったわ。中国娘より中国娘らしいって、養父母が褒めてくれたものよ。


 ええ、夫とは日本でいうところの見合結婚だったわ。ある日、父母に連れられて街の酒店ホテルに行ったら、髪をきっちり七三に分けたハンサムな男性が待っていたの。

 お互いひと目惚れでね、意気投合したってわけ。いまだってオシドリ夫婦よ。

 

      *

 

 初唐の詩人、王翰おうかんが詠んだ『涼州詞りょうしゅうし』をご存知でしょう?


 

 葡萄美酒夜光杯  ぶどうの びしゅ やこうのはい

 欲飲琵琶馬上催  のまんと ほっすれば びわ ばじょうに もよおす

 酔臥沙場君莫笑  ようて さじょうに ふす きみ わろうこと なかれ

 古来征戦幾人回  こらい せいせん いくたりか かえる

 


 わたし、どういうわけか幼いころからこの詩にとりわけ心を惹かれていてね、「この子はむずかしい詩をすぐ覚える」ってこれまた養父母のひとつ話だった。


 息子はね、その葡萄美酒を注ぐ夜光杯の製造工場で働いているの。

 ええ、観光客のだれもが買い求めていく、代表的な敦煌みやげよ。


 ほおら、こうして月明かりにかざしてみると、黒や緑、黄緑色の不規則な模様が妖しく浮かび上がるでしょう? ふふふふ「魔性のさかずき」と呼ばれる由縁よ。

 

      *

 

 日本ではわたしたちのことを「中国残留孤児」と呼んでいるんですってね。呼ばれるほうとしては、あんまりしっくり来ないけど。だって、そうでしょう? 侵略して来た国が負けて出て行った。その大混乱のなかで置き去りにされた子どもを、残留という言葉でひとつにくくられてしまったら、なんだか自分で望んで居残ったみたいじゃない? 事実は「残った」ではなくて「残らされた」なのにね……。


 もちろん知っていますよ、永住帰国のこと。

 いまから30年ほど前の話だわね。「おまえも帰りたいだろうね、祖国日本へ」養父母が遠慮がちに訊いて来たけど、わたしは思いきり強く首を横に振った……。


 だって、そうでしょう? わたしの祖国はこの国、中国だもの。ひとりぼっちの2歳のわたしを助けてくれ、珠のように大事に育ててくれた父母のお墓がある国、愛する夫や子ども、孫が住む国を捨てることなど、わたしにはできなかったわ。

 

      *

 

 戦争が終わって76年。

 どんな秘策を使ったのか、この国は信じられないような発展を遂げ、いまや経済大国アメリカを凌ぐ勢いなんですってね。砂漠の村ではあまりピンと来ないけど。


 反対に、一時は高度経済成長とかで羽振りがよかった日本は、後退する一方なんですって? 『涼州詞』がうたうように、かたちあるものはみんな変容するのね。


 日本流にいえば喜寿を控えたわたしの命も、そろそろ最後の変容かしら……。

 でも、わたしなりに精いっぱい輝いて生きて来たから、悔いはまったくないの。

 向こうの世界で待っていてくれる、実の父母と養父母に会えるのが楽しみだわ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る