第10話 人間の盾――満蒙開拓青少年義勇軍




 さっそくですが、社会の教科書に出ていた屯田兵とんでんへいをご存知ですよね。明治時代、北海道の農地開拓をしながら、北方の警備や治安に当たっていた民兵のことです。


 国策として、まぼろしの満洲まんしゅう開拓を強力に推進させようとした戦時下の政府が、その昔の制度に倣おうとしたのかどうか知りませんが、ソ連との国境に近い北辺の地で人間の盾にされた少年たちは、弱冠15歳の屯田兵そのものだったのです。

 

      *

 

 当時、学校の教師はなぜあれほど熱心に義勇軍への参加を勧めたのでしょう。

 

 ――少年よ、北満(ソ連との国境)の沃野よくや(地味が肥えた土地)へ行け!

 

 国策にしたがって狭い日本から脱出すれば、20町歩という広大な土地の地主にしてもらえるという、それこそ夢のような話を、なぜ信じてしまったのでしょう。


 国中の教育界あげての熱心な啓蒙活動により、全国の都道府県で満蒙開拓青少年義勇軍に応募した少年たちは10万人にのぼりました。用意周到な国策により熱い軍国少年が育っていた当時、教師の説得は子どもたちにとって絶対だったのです。

 

      *

 

 家族と暮らしていた故郷の村を離れ、トオルが遠い異国に渡る気になったのも、

 

 ――祖国日本は島国ゆえ狭いが、大陸には無限の大地が待っている。

   若いおまえたちが耕さずして、いったいだれが耕すというんだ。


 教室はもとより、家庭を訪問しての担任教師の熱心な説得があったからでした。

 教師も、学務委員会(現在の教育委員会)も、ピラミッド型の組織からきびしいノルマを課せられていたことは、戦後、引き揚げて来て初めて知ったことです。


 開拓を統括する拓務省が配布した小冊子には、約束事が明記されていました。

 

 ――義勇軍が耕作する土地は、満洲国政府が斡旋あっせんする。

   さらに、関東軍が責任をもって警備・保護を行う。


 そう言われてもまだ決心がつかずにいる少年や保護者には、子ども向けにやさしく解説されたマンガ『あなたも義勇軍になれます』が有力な効果を発揮しました。


 

 ――満洲を食おうとして世界各国がねらっていましたが、日本が助けて独立国にしたので、王道楽土おうどうらくどになったのです。でも、そのままでは再びねらわれる恐れがあったので、優れた日本の学問や技術、商業、交通などを伝えて発展させました。こうして「青年」になった満洲は、日本に心から感謝しているのです。日本と満洲は、肩を組んで互いに助け合う間柄なのです。

 

 ――満洲は広大な面積に人間が少ないが、かたや日本は狭い土地にたくさんの人がいる。まったくもったいない話ではありませんか。ぜひとも来てください。土地を開拓してください。よし、それでは立派な日本人を送って開拓しよう。われらが日本政府がそのように約束をしたのです。学校で先生からお話があったでしょう。日本のちからを大陸に輝かせる責任。それはひとえに諸君の肩にあるのです。

 

 

 このように四方八方から責められたうえ、『義勇軍応援歌』まで生まれました。


 ――われらはわかき義勇軍

   祖国のためぞ鍬とりて

   万里涯ばんりはてなき野に立たむ

   いま 開拓の意気高し

 

 こうまでされては、誇り高い軍国少年としては応募するしかありませんよね。

 

      *

 

 こうして近所の友だちと一緒に応募したトオルは、満洲へ渡る前、内原訓練所(現在の茨城県水戸市内原)に入り、『義勇軍心得』(「いにしえの武士に負けるな 生命いのちをたっとび、死を怖れるな……」)の音読、『満洲開拓の歌』『殖民の歌』『開拓行かいたくこう』の斉唱、現地の言葉を知る『満語読本』の勉強、日本やまと体操、速足はやあし訓練などで3か月を過ごしました。


 広大な敷地に並ぶ300棟の日輪にちりん兵舎、1万人を一堂に会せる弥栄いやさか広場のまわりは、どこまでも青々とつづく田園地帯と美しい松林……。満洲へ渡ってから、故郷の山河と共に、内原訓練所の風景をどれほど懐かしく思い出したことでしょう。

 

      *

 

 期待半分、不安半分で渡った地域は、少年たちの想像を絶する北辺の地でした。冬は零下30度に下がる苛烈な気候はもとより、少年たちをうろたえさせたのは、「現地の訓練所に満洲国の国旗が掲げられていない」という決定的な事実でした。

 

 ――「王道楽土」や「五族協和」の標語は絵に描いた餅だったのか。担任教師が語ったことはすべて偽りだった。ソ連との国境に近いこの危険なところで、匪賊ひぞくの来襲を鍬1本で防がなければならない自分たちは、まさに人間の盾ではないか!

 

 そんなある日、ふと気づくと、満蒙開拓幹部訓練所(現在の茨城県鯉淵村)から配属されていた中隊長や教官など本部の大人たちはだれもいなくなっていました。


 命をつなぐ食糧を運んでいた森林鉄道の撤去も少年たちの不安をあおりました。

 それまで従順だった現地の中国人の態度も、あきらかに変わって来ていました。

 

      *

 

 昭和20年8月10日。

 われ先に大人が逃げた訓練所は、いきなり烈しいソ連の爆撃にさらされました。


 命からがら逃げ出した少年たちが、ひたすら南方を目指して歩いて行くと、一般の開拓団の避難民と一緒になりました。といっても女性や子ども、病人、老人ばかりの弱々しい集団ですが、そんな人たちにも容赦なく機銃掃射が浴びせられます。


 絶望した人たちは自ら川に飛びこんだり、中国人に幼子を託したり、しまいには何十人もが同時に集団自決……まことに酷い阿鼻叫喚図が繰り広げられたのです。


 運よく生き延びて帰国したトオルは、生家から遠く離れた山麓を再開拓して戦後を送りましたが、満洲での出来事を、生涯、だれにも語ろうとはしませんでした。


 

      *

 

 あのとき、あれほど少年たちの気持ちを駆り立てたものの正体は何だったのか。関わった大人のだれに責任があるのか。いまとなっては、雲をつかむような話ではありますが、戦慄せんりつすべきは、決して過去の茶番では済まされないということです。


 恣意しいに操られた民情を顧みないと、いつまた同じことが起こるか分かりません。

「二度とだまされてはいけない」という戒めをこめて、この短い物語を閉じます。

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