第9話 作家先生の出征――赤紙




 その朽ちかけた長屋で、キヨシおじさんは「作家先生」と呼ばれていました。


 でれんとした着流しの格好ばかりがそれっぽい、売れない小説家への親しみと、鼻の奥をツーンさせずにいられない軽い侮りもこめた、ビミョーなあだ名でした。


 じっさい、キヨシおじさんはコツコツと小説を書きつづけてはいましたが、内容がむずかしいこともあり、なかなか売れてくれません。たまに新聞社や雑誌社から頼まれる雑文の原稿料で、どうにかこうにか暮らしを立てているようすでした。


 おじさんは母の弟で、夫の才能を信じて疑わない奥さんのたえさんと、ひとり娘のうめ子ちゃんの3人家族です。古い長屋のご不浄に近いところの六畳ひと間で、貧しさを6つの手の平で温め合うようなほのぼのとした家庭を営んでおりました。


      *


 女学校が休みの日、わたしが遊びに行くと、長屋の井戸端でままごと遊びをしていたうめ子ちゃんが「あっ、おねえちゃんだ!」笑顔で駆け寄って来てくれます。


 キヨシおじさん宅のちゃぶ台の定番は、うどんでした。具がなにも入っていない素うどんの日が大半ですが、原稿料が入ったのでしょうか、たまにたえさんがいそいそと運んで来てくれるのは、竹輪や油揚げ、野菜が見える煮込みうどんでした。


 キヨシおじさんもうめ子ちゃんも、素うどんをとても美味しそうに食べるので、苦労知らずのわたしは、なんてうどん好きな一家なんだろうと感心していました。じつはそうではなかったと知ったのは、戦後しばらく経ってからのことでした。

 

 ――そういえば……。

 

 思い出すのは、うどんをすするキヨシおじさんが一升瓶を手放さなかったこと。縁の欠けた湯のみをグッとあおる尖った喉ぼとけが生きものみたいに動いて……。


 そんなおじさんの横で、たえさんは塗りの剥げたお盆をわたしに差し出して、「お代わりどうぞ。たくさんあるから遠慮しないでね」と言ってくれるのでした。

 

      *

 

 貧しくても平穏な一家に、ある秋の夕方、とつぜんの嵐がおそいかかりました。

 たった1通の赤い紙が、長屋の片隅のつましい暮らしを根こそぎ奪ったのです。


 小柄で病気がちだったキヨシおじさんは、徴兵検査で丙種合格(つまり不合格)だったのですから、屈強な男衆よりも逸早く召集令状が舞いこむなど、ふつうならあり得ないことですが、戦局に馴染まない文章が軍部の癇に障ったのでしょうか、それとも、おじさんと反りが合わない在郷軍人がアカだと密告したのでしょうか。


 たえさんはキヨシおじさんの背中にしがみついて、わあわあ泣いたそうです。

 

 ――あなた、どんなことをしても、きっと生きて帰って来て! 約束ですよ!

 

 長屋の住人の盛んな万歳に送られ、にわか仕込みの軍体調でギクシャクと遠ざかって行くおじさんの小柄なうしろ姿に、冷たい秋の雨が降り注いでいました。

 

      *

 

 奥さんのたえさんやひとり娘のうめ子ちゃんの祈りも虚しく、キヨシおじさんはサイパンという名の、地図を見なければ位置も分からない南の島で戦死しました。


 戦後、行商をしながらうめ子ちゃんを育てていたたえさんも、父親に似て身体が弱かったうめ子ちゃんも、栄養失調で倒れたわたしの母も、かく言うわたし自身もこっちの星へ移り、相変わらず小説を書いているキヨシおじさんと再会しました。


 戦争のない星でわたしたちの安穏を脅かすものはありませんが、かつての故郷の地球では、キヨシおじさんや仲間の兵士たちの無念の想いが籠ったサイパン島は、戦争を知らない、知ろうともしない世代の無邪気な歓声であふれているそうです。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る