第3話 クジラのしぶき――配給切符




 これは海辺の村の小さな物語です。

 

      *

 

 ヒロシのとうちゃんは遠くの海でクジラを捕る船に乗っていた。

 ときどき帰って来るときは、珍しいお土産を買って来てくれた。


 にいちゃんやねちゃんたちとふざけながら、ヒロシはそんなとうちゃんが自慢で大きな声をあげて笑った。でも、とうちゃんもにいちゃんも戦争に行ってしまったいまは、じいちゃんとばあちゃん、かあちゃん、女学生のねえちゃんだけ……。

 

 いや、もうひとり家族がいた。

 離れに住むヨウコおばさんだ。


 母屋の北の、1日中太陽の光が届かない、6畳ひと間の小屋みたいな家にひとりで住んでいるヨウコおばさんは、ヒロシが生まれる少し前にとなり村の漁師の家に嫁いだが、身体が丈夫じゃないからと、たった半年でもどされて来たそうだ。


 色白で華奢で、愁いを含んだまなざし。

 たしかに漁師の女房には、ちょっとね。

 ヒロシは子ども心に思ったものだった。

 

 ヨウコおばさんは、ひっそりと影のように暮らしていた。

 家族のみんなに遠慮ばかりして、もどかしいほどだった。

 幼いヒロシにまで「わりいね、わりいね」が口癖だった。

 

 ヨウコおばさんは長い黒髪を三つ編みにしていた。

 

 ――贅沢は敵だ! パーマネントはやめましょう!

 

 そんな勇ましい標語のもとで「決戦型の結髪けっぱつ」なるものが奨励(というより強制)されていた時代、ヨウコおばさんの三つ編みには冷ややかな視線が浴びせられたが、ふだんは気弱なヨウコおばさんが、それだけは頑としてゆずらなかった。

 

      *

 

 戦時下の国民の暮らしは「隣組」のネットワークでつながっていた。

 表向きは銃後の生活を支え合うことを目的に設置されたものだったが、為政者の思惑どおり、お互いの行動を監視し合うための組織へと、急速に変容していった。

 

 ひそひそと陰険な陰口。

 聞こえよがしのうわさ。

 

 国から思うさま甚振いたぶられた人たちは、憤懣の矛先をぶつける弱い相手を探した。

 

      *

 

 日々の報道とは裏腹に戦局が逼迫ひっぱくし、働き手がつぎつぎに戦地へ狩り出されるようになると同時に食糧や日用品が不足し、生活必需品の配給制度が始まった。


 米、味噌、醤油、油、砂糖、酒、煙草、石鹸、衣料品、縫い糸、魚介、野菜……ありとあらゆるものの不足を補うために、人びとは知恵を絞った。空き地を耕して「戦時農園」とし、池で淡水魚の養殖を始めた。米の代わりにコーリャンを食べ、漁獲高の多いイワシやクジラを食べ、飼育ウサギの「国策料理」も登場した。


 当時のヒロシが食べたかったものは、かあちゃん手製の卵焼きだった。ふっくら膨らみいい匂いのする黄金色を思っただけで、口のなかがジュワッと熱くなった。

 

 その必要もないのに動物園の猛獣や象を薬殺、毒殺、あるいは敢えて餓死させたのは、生ぬるい国民の意識に喝を入れようという愚かな企てだったと戦後になって知らされたが、軍や政府の上層部がヤキモキしなくても、戦争という愚昧ぐまいの苦い味わいを、日本中の国民がみな、いやというほどしゃぶり尽くしていたのだが……。

 

      *

 

 そんなある日、人として絶対にあってはならない重大な事件が起きた。配給品を受け取るための配給切符が、なぜかヨウコおばさんの分だけ配られなかったのだ。


 かあちゃんが町内会長宅に直談判に乗りこみ、押し問答の末にひったくるようにして受け取って来たのだったが、床に就いていることが多いため竹槍訓練やバケツリレーの消火訓練にも参加できず、「非国民」と陰口されていたヨウコおばさんへのあまりにひどい仕打ちに、ヒロシは小さな拳を握りしめ、ブルブルとふるえた。

 

     *

 

 西の空がかつて見たことがないほど真っ赤だった。

 人びとが逃げ惑う様子がジリジリと伝わって来る。

 昭和20年3月10日未明の東京大空襲だった。

 

      *

 

 近所の人たちが集まり、ヒロシの家のラジオの前で正座していた。

 ぎらつく真夏の逆光を背負った人たちは、存在自体が影みたいだ。

 痩せ細り目ばかり光らせた顔が、ジャガイモみたいに並んでいる。

 

 ――チン フカク セカイノ タイセイト テイコクノ……。

 

 ほとんどなにも聞き取れないうちに、玉音放送は終わっていた。

 背中を丸めたじいちゃんが「負けたらしいぞ」ぼそっと言った。

 

 ヒロシは海岸の高台へ向かって突っ走った。

 生ぬるい海風が吹く絶壁のてっぺんに立つと、マリンブルーの沖にシュンシュン白いしぶきが上がっている。潮を噴くクジラだ! 戦争はたしかに終わったのだ。

 

 ――戦争のばかやろう! とうちゃんやにいちゃんを帰してよこせ!


 一艘の船のすがたも見えない沖に向かって、ヒロシは思いっきり叫んでいた。

  

      *

 

 愛国婦人会や国防婦人会のオバサンたちからなにを言われても三つ編み髪を貫き通したヨウコおばさんには、ひそかに想いを寄せていた青年がいた。特攻隊に志願した青年が南の空に散華したことを知ったのは、戦後だいぶ経ってのことだった。


 そのころ早くも半白髪になっていたヨウコおばさんは、

 

 ――なにね、あの人が三つ編みが好きだったもんでね……。

 

 やさしい温顔をゆるめ、少女のように恥じらいながらヒロシに語ってくれた。

 

      *

 

 不明瞭な玉音放送が流されて76年目の夏、グローバル経済が席巻する世界中に新型コロナウィルスが蔓延し、日本にも戦時下のような同調圧力が復活していた。


 後期高齢者として優先的にワクチンの接種を受けたヒロシは、少ない薬剤の奪い合いが報じられるたび、生きるための唯一の手段である配給切符をヨウコおばさんに渡さなかった人たちの心に棲む魔物を、あらためて恐ろしいと感じている。

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