第2話 母と子――戦後の再生
当時においては大東亜戦争、ついで太平洋戦争、最近はアジア・太平洋戦争ともいうそうですが、日本の歴史のなかで最悪の歳月となった4年間、あれはいったい何だったのでしょうか……。一部の人たちの判断ミスまたは
*
うちは海鮮問屋を営んでいました。
大勢の人たちが出入りする、そりゃあ活気のある
ぼくはそこの長男として生まれたのですが、幼いころの病気がもとで足が不自由でしたから、とうさんかあさんはもちろん、七つちがいのねえさんも、祖父母も、いつも十数人はいた使用人たちも、みんなとてもやさしくしてくれました。
軍国少年? そういう空気からみんなで守ってくれていたんでしょうね。
そうそう、うちには大正時代にドイツから輸入されたグランドピアノがありましてね、ねえさんは日本舞踊も得意でしたが、ピアノも巧みに弾きこなしました。
細い腰に蝶むすびのリボンを巻いた、赤いワンピースすがたが目に浮かびます。
暖炉のある洋間に流れるショパンやモーツアルト、それがわが家の日常でした。
でも、みんながいたあのころを思い出しても何になるというのでしょう。
いまはむかしの遠い物語、いっそうさびしくなるだけではありませんか。
憎んでも憎みきれない戦争によって、なにもかも奪われてしまった……。
それがあの不運な時代に巡り会わせた子どもたちの身の上だったのです。
*
あの夏の日のことは、いまなお口悔しくて、せつなくてやりきれません。
日本国中が一丸となって戦争の勝利に向けてつき進んでいるとき、どうしたって目立ってしまい目障りなのが、勝利の役に立つことができない人たちの存在です。
――非国民。
それがそういう大人たちに侮蔑をこめて与えられた呼び名でした。
問答無用で国にいじめられていた人たちは、いじめ返す相手を探していたのでしょう。尖りきった世相は、少国民だって例外でいることを許しませんでした。
身体の不自由な子どもたちにも、過酷な軍事教練が課せられたのです。
炎天下、松葉杖をつきながら、校庭をひきまわされる子どもたち……。
ある日、あまりの暑さに意識が遠のいたぼくは、その場にしゃがみこんでしまいました。担任の先生が駆け寄って来て「木蔭で休んでいなさい」と言われました。
桜の木の下まで行って、ようやくひと息ついたとき、職員室から出て来た軍配属の教官がこちらに向かってずんずん歩いて来ると、厳しい口調で一喝したのです。
「国中がお国のために尽くしているときに、おまえはいったい何をやっておる!」
そして、木陰からぼくを引っ張り出すと「こういう
*
――神国日本が負けるわけがない。
そう言われつづけながらも戦況は日を追ってひどくなり、本土への空襲が激しくなって来たので、大都会の国民学校生は地方へ集団疎開することになりました。
ぼくたちが信州の戸倉駅に降り立ったのは昭和20年5月15日のことでした。
東京は焼け野原なのに、ここにはのどかな田園風景が残っていることが不思議でした。有名な温泉のホテルに着くと宿や地域の人たちが温かく迎えてくれました。
千曲川畔でセリを摘む。
顕微鏡でノミを観察する。
幻燈会で古い写真を見る。
みんなで国宝十一面観音を拝みに行く。
図工で「われら特攻」というポスターを描く。
そんな疎開生活を送ってちょうど3か月後、8月15日のことです。
正午に天皇陛下のお言葉があると先生に言われ、ぼくたちは粗末な服装を何とか整えてラジオの前に並びましたが、敵の電波妨害なのかほとんど聞き取れません。
お昼ごはんをいただくとき、校長先生が男泣きに泣きながら「みなさん、日本は負けました」と言われたので、ぼくたちもいっせいに泣いてしまいました。絶対に勝つと言われていたのに、どうして負けたのか、ちっとも分かりませんでした。
*
信州から東京へ帰ったのは翌年の春のことです。
疎開の枕を濡らさせた故郷には、一木とてない灰色の風景が広がるばかり。
お店も、とうさんかあさんも、祖父母も、何もかもが消え去っていました。
ピアノが大好きで、上野の音楽学校を目指していたねえさんは、勤労動員に狩り出された軍需工場で爆死していました。
独りぼっちになったぼくの足は、吸い寄せられるように上野駅へ向きました。
寒くて暗い構内には、同じ境遇の戦災孤児たちがたくさん集まっていました。
スリ。
ユスリ。
カッパライ。
生きるためには何でもやりました。足が不自由で活発に動けないぼくを見かねた兄貴分の少年が、みんなで少しずつ分け前を出し合うように計らってくれました。
暖かそうなコートを着こんだ人たちが、ぼくらの目の前を行き交います。
でも、みんな、ぼくらのすがたが見えていないかのように通り過ぎます。
自分に関係のない子どもには、どこまでも冷たくできる大人たち……。
*
そんなある日、ぶるるんと大きな振動音を立ててトラックがやって来ました。
GHQの指示による浮浪児狩りで荷台に放りこまれたぼくたちが連れて行かれたのは、篤志の人たちが建ててくれた戦災孤児収容施設「かねの鳴る丘」でした。
駅の雑踏をねぐらにしていたことを思えば、ここでの暮らしは別天地でした。
雨露を凌ぐ屋根があり、十分ではなくても食べ物にも困りませんでしたから。
夕方になると、ラジオから『鐘の鳴る丘』のテーマが聞こえて来ましたっけ。
けれど、あのころの自分の気持ちは、いったいどうひん曲がっていたのか……。
浮浪児時代に覚えた、不安定と引き換えの自由の味が忘れられず、規則づくめの施設暮らしに堪えがたい息苦しさを覚えるようになっていたのです。
同じ気持ちの仲間と一緒に脱走をくわだてたぼくは、ひとりだけ逃げ遅れて連れもどされましたが、諦めずに挑戦しているうちに、どうにか成功できたのでした。
ふたたび手に入れた自由な暮らしではありましたが、それは覚悟していた以上にきびしいものでした。ぼくはいつしか、当てもなく街を彷徨うようになりました。
*
ドキンとしたのはガード下の角を曲がったときでした。
そっくりだったのです、男客の革靴をみがく横顔が……。
――かあさん! 生きていてくれたんだね!
ぼくは思わず駆け寄りました。
でも、かあさんは訝しそうにちらりと見たきり、顔色ひとつ変えることなく仕事のつづきにもどりました。他人のそら似だと納得するまでに時間がかかりました。
*
まぶしそうに目を細めて笑うところや、ほおら、そうしてすぐに爪をかむくせ、子どものころのあの子にそっくりだよ。口も、鼻も、なにもかも生き写しだよ。
ところで、その足はどうしたの? そうかい、それは辛かったろうね。
あの子もね、戦地で足を負傷したらしいんだよ、敵の弾丸に撃たれてね。そう、ちょうどそっちの方の足だって、復員して来た仲間の兵隊さんが話してくれたよ。
その後のこと? さあねえ、ちりぢりに逃げて、それっきりだって。でもさあ、だれも戦死したところを見たわけじゃないから、どうしても諦めきれないんだよ、あたしはさあ。で、こうして人通りの多い場所で店を出しているというわけさ。
そうかい、やっぱり上野駅に……やれやれ、とても人の住処とはいえないようなところで年端もいかない子どもたちが肩を寄せ合って暮らさねばならないなんて、空襲で亡くなった親御さんたちが知ったら、どんなに悲しむことだろうねえ。(泣)
ねえ、あんた、うちに来るかい?
こう見えておばさん、このあたりの靴みがき仲間じゃ稼ぎがしらなんだよ。いいウデしてんだからさあ、あんたのひとりやふたりぐらい、どんと任せときなって。
よし、そうと決まったら、今夜は
むろん、あんたはカストリじゃなくて林檎ジュースで乾杯さ。
なあに、血なんかつながっていなくても、日本一の母と子さ。
*
ぼくたちは実の親子以上に仲むつまじく、労わり合って暮らしました。
かあさんはぼくを中学に通わせてくれ、高校にも進ませてくれました。
工場で働きながら夜間大学を出たぼくは、貧しくても向学心のある子どもたちのために夜間中学の教師になり、たくさんの教え子らに知識と生き方を伝えました。
還暦までガード下で靴みがきをつづけたかあさんは、引退して間もなく、ついにこの星には還ることがなかったトオル兄さんの住む異星へと旅立って行きました。
それからのぼくが人並みに人生の哀歓をひととおり経験することができたのも、あのとき「あんた、うちへおいで」と声をかけてくれたかあさんのおかげです。
いま、ぼくは、ふたりのかあさんに会える日を、とても楽しみにしています。
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