第10話 9歳、飛行訓練
ユリアローゼは焦っていた。
リーンハルトがユリアローゼに与えた離宮は、彼の寵愛する皇妃という立場に相応しい広く美しい城で、立地も申し分ない。豊かな自然に囲まれており、日当たりが良く、風通しも良好だ。
おまけに、離宮の食事はどれも絶品。
当初は慣れない帝国料理に舌が馴染むか不安に思っていたユリアローゼだったが、豪商の邸で世界各国の料理や珍味を試して来たためか、帝国料理もすんなり受け入れられた。頼めば祖国の郷土料理も食卓に上がる。
さらに衣装も大量に用意されていた。
親バカの国王と過保護なルッツが支度してハイリヒトゥームから持ち込んだドレスと合わせると衣装部屋が溢れ返った。おかげでユリアローゼの衣装部屋は全部で5部屋にものぼる。ドレス部屋2室、靴部屋1室、帽子やバッグなどの小物部屋1室、宝飾品・貴金属部屋1室。
特にどこかに出かける用事のないユリアローゼには過ぎた贅沢だが、止める者がいなかったためこうなってしまった。
おまけにユリアローゼは、離宮の中なら庭も含めて自由に過ごすことを許された。
元々デリンガーの邸に閉じ込められていたユリアローゼにとっては、外出を制限されたところで苦痛も少ない。
なおかつ、特にこなさなければならない仕事も与えられなかったので、やることがなくて暇を持て余すほどだ。
自分の皇妃としての待遇は、そう悪くないものだとユリアローゼは思った。頼りにされていない人形扱いではあるが、大切にされてはいるし、恵まれている。
しかし、である。
どうしましょう。リーンハルト様に会えません!
あの色々あった舞踏会の夜から半月が過ぎた。しかし、リーンハルトとは、彼が怒って控室を出て行ってしまったきり一度も顔を見合わせていない。
公式にはリーンハルトも同じ離宮で寝食を共に過ごしていることになっているのだが、オトテール侯爵の話によると実際の彼は、執務室の奥の部屋で寝起きをしているそうだ。
ユリアローゼは初夜だと聞かされた夜にさえ一晩放置され、その後も一向に彼が訪れる気配はない。女性不信の皇帝は、ユリアローゼを完全無視すると決め込んでいるらしい。
リーンハルトにとって、ユリアローゼとの結婚は政略でしかなく、女など煩わしいという態度を隠しもしない。
これでは、とてもじゃありませんが、リーンハルト様に夢のことを相談出来ないではありませんか!
もしかしたら帝国に行けば、あるいは結婚生活の中で忙しく過ごしていれば夢の中の男の子のことを忘れられるのではないか。などと少しは期待もした。
実際にリーンハルトとのダンスは恥ずかしかったけれど悪くはなかったし、その後の歓談の時間も何くれと世話を焼いてくれる優しい態度にときめいたりもした。
しかしそれは全て演技で、その後彼の事情を知り、毎日無視されていても全く悲しくはないのだ。
夢の中の男の子には隠し事をされただけで裏切られたと泣き、好きな人がいると知っては胸を痛めたというのに、実際に伴侶になった男に対する想いは淡白なものである。
5年も執念深く追いかけている人をそう簡単に手放せるはずがなかった。
むしろ、輿入れしてからと言うもの、何故か夢がより鮮明にくっきりはっきりしてきたようにさえ感じられる。
夢の中の小さな魔法使いに対する想いは日毎に増すばかりだ。
リーンハルトも冷たいが、ユリアローゼ自身も大概だった。相手が子どもで、いまどこにいるのか、はてはその生死さえ不明とはいえ、夫以外の異性のことを夢にまで見て想いわずらっているのだから。
そんな自覚のないユリアローゼは、毎日気になる男の子を想っては、彼に教わった魔力増幅訓練に精を出すのだった。
9歳のユリアローゼは、自室から連なる侍女用の私室のバルコニーで、小さな魔法使いを待ち構えていた。
「……ただいま」
空からすとんと降り立った自らの片割れを、ユリアローゼは半眼で睨みつけた。
「おかえりなさい、とわたくしが優しくお迎えすると思いましたか?」
「怒ってるのか?」
首を傾げた金髪碧眼の少年に、ユリアローゼはまなじりを釣り上げる。
「怒ってるのか、ではありません! 怒るに決まっているでしょう! またわたくしを置いてひとりで勝手に朝焼けの雲を採りに行きましたね! 前回あれほど、わたくしも連れて行ってとお願いしましたでしょう!」
「まだ諦めてなかったのか。ユリアには無理だと断ったはずだ。魔力増幅訓練でも不合格のままなのに、なんでついて行けると思ったんだ?」
「ずるいではないですか! わたくしが飛べるようになってから、一緒に採りに行けばよろしいでしょう!? そう何度もお願いしていますのに!」
「ずるいって、お前な」
少年は呆れた顔でため息をついた。
「これは、あると色々便利なんだよ。回復薬の調合にも使えるし、小遣い稼ぎに丁度いいんだ」
「お小遣いなら、わたくしが差し上げますわ」
「お前から金は受け取りたくない」
「むうう」
ユリアローゼが頬を膨らませると、少年は困ったように肩をすくめた。
「意地悪ばかりおっしゃらないで、今日こそ、空を飛ぶ方法を教えてください!」
「だからそれは……訓練を相当頑張らないと無理だ。ユリアの元からの魔力値を考えたら、飛べたとしても数分だろう」
「また、そんな意地悪を! わたくし、―――の言う通り、魔力増幅訓練を頑張っています。毎日毎日、忙しい日も欠かさず頑張って、もう2年ですよ! そろそろわたくしだって成長したはずです。やってみなければ分からないではありませんか!」
「仕方ないな、気は進まないが……」
「教えてくださるんですか!?」
「午後の自由時間になら」
「ありがとうございます! ―――大好き!」
とたんに笑顔になったユリアローゼに、少年は真っ赤に染めた頬をかいたのだった。
そしてその日の午後、ユリアローゼは、彼女の魔法の師範とともに王宮内の広い庭に来ていた。身体を動かすということで、ふたりとも男装姿だ。
長い髪を馬の尻尾のように結った少年が、改まったように咳払いした。
「ユリアは、魔力増幅訓練で手のひらから魔力を放出する感覚を掴んだと思う。今回の講義では魔力を放出する場所を、手のひらだけでなく、身体のすべての場所で出来るように訓練する。地面に対して強く魔力を放出すれば、重力に逆らって身体が浮き上がる。空を飛ぶためには、この他にも風や大気の影響も考慮しなければならないが、まずは全身から魔力を放出できるようにならなければ話にならないからな、それを練習しよう」
ユリアローゼは瞳を輝かせてうなずいた。
「わかりました。全身から魔力を放出すればよろしいんですね」
「ああ。無理はするなよ」
心配そうな少年を無視して、ユリアローゼは小さな手を芝生の生えた地面にかざして目をつぶる。意識を集中させ、全身にめぐる魔力を感じ、それを身体の外へと放出しようと試みる。
「きゃっ!」
両手を高く掲げたポーズで、ユリアローゼは目を見開いた。
「あれ?」
「両手からだけ魔力を放出したせいで、勢い余ったんだな」
「……なるほど」
いつもはガラス玉に吸わせている魔力を、空気中に放出したのは初めてのことだった。地面との間に空気抵抗のようなものを感じ、かざしていた手がその反発に負けて勢い余って万歳ポーズになったらしい。
「全身から魔力を放出するのは難しいですね」
「まあ、慣れないうちは少ない部位から初めて、徐々に増やしていけばいい。例えば、最初は足の裏からやってみてはどうだ?」
「足の裏……。わかりました」
ユリアローゼはうなずいて、素直に指示に従った。
全身を巡る魔力を、足の裏に集めるようイメージする。少しずつ足先が温かくなってきた。ユリアローゼはドキドキする鼓動をなだめ、集中を続ける。
「えいっ!」
気合の声とともに、足裏から魔力を放った。
ユリアローゼの身体がぴょこんと一瞬浮き上がった。
「お、すごいじゃないか。初めてにしては上出来だ。あとはこれを根気よく続ければ……ユリア? どうした?」
「……だって。こんな、ほんの一瞬しか。これなら、普通にジャンプした方が余程高く飛び上がれます!」
涙目になるユリアローゼに、少年は肩をすくめた。
「だから訓練を相当頑張らないと無理だと言ったし、気が進まないと言ったんだ」
「ううう」
ユリアローゼは、すっかり意気消沈してしまった。
「これでは、わたくしには朝焼けの雲の採集は難しいですね」
ユリアローゼがしゅんと肩を落とすと、少年は慰めるようにその肩を叩いた。
「もう少し魔力値を上げてくれ。そうすれば、俺が何とか出来る。俺と手を繋いでで良ければ一緒に空を飛ばせてやれるから」
「本当?」
「ああ。朝方の人が起きだす時間では目立って問題になるだろうから、朝焼けの雲の採集は難しいかもしれないが、夜に採集できるものもある。いつか、俺と夜に採集に行こう。それで良いだろう?」
「夜に採集できるものって、朝焼けの雲のように美しいものですか?」
「ああ、もちろん」
少年はユリアローゼを安心させるように、しっかりとうなずきを返してくれた。
「ありがとう、―――。約束です。絶対ですよ!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます