第3話 湖面に差した月光
ユリアローゼは、自分の片割れともいうべき少年を、夜毎夢に見た。
7歳の冬の夢を見た次の日には、10歳らしい夏の夢を見て、その翌晩は9歳らしい春の夢を見る。時系列にそぐわないちぐはぐな順番に混乱させられながらも、過去の記憶を夢の中で覗き見る。
目覚めても夢に見た内容を忘れることはなかったので、やがて次第に、少年という存在の輪郭がおぼろげながらに見えてくる。
少年とユリアローゼは、どうやら眠る時以外のほとんどの時間を一緒に過ごしていたらしい。
ユリアローゼが起床してすぐに、時間を見計らっていたかのように姿を現しては、同じ衣装を身に着け、同じものを食べ、ともに学び、鍛錬に励み、時にイタズラを企んではその成否に笑いあった。そして、眠りに落ちる寸前まで手を取り合ってともに過ごす。
少年はユリアローゼと違って、何をさせても優秀だった。
洗練された身のこなしで礼儀作法の教師をうならせ、護身術の授業では魔法を使わずに暴漢役の騎士を打ち負かし、馬術を習っては馬丁を困らせる暴れ馬を乗りこなした。ダンスのリードは完璧で男女両役をこなし、繊細な刺繍を刺したかと思えば、天界の調べもかくやという歌声を披露してみせる。楽器を持たせれば超絶技巧を駆使して聴く者の琴線を震わせ、絵を描けば巨匠と呼ばれる画家にさえ絶賛された。
幼いユリアローゼは、自分の立つ瀬がないと時折り少年をなじってはみるが、その天才的な才能に本気で嫉妬したりはしていなかったようである。
自分が結構ポンコツであることを棚に上げても、たいした努力もせずに常人を遥かに凌駕する成績を叩き出す少年の有能さに、比べるのがばからしくなってしまうという理由がひとつ。
そして、何より少年が、自身の能力の高さから他人を見くだすような尊大な態度を見せてはいても、ユリアローゼにだけは、とても優しいということを知っていたからである。
少年は、いつだってユリアローゼの味方だった。
ユリアローゼの嫌いな野菜をこっそり食べてくれたり、風邪をひけば見舞いに魔法薬と花を届けてくれたり、とりとめのない話を楽しそうに聞いてくれたり、王宮の外の世界や魔法、魔獣についてユリアローゼがせがむと気のすむまで繰り返し話してくれた。
そのひとつひとつの会話やエピソードをなぞるように、夜毎に夢に見ていった。
けれど、何故か少年の名前は分からないままだった。
ある晩見た夢の中で、10歳頃のユリアローゼは魔力を高める訓練にいそしんでいた。
天才魔法使いたる自身の片割れに、内緒で教えてもらった魔力増幅訓練法。
魔法の師匠として弟子の修行を見守る少年の前で、ユリアローゼはガラス玉に魔力を込めていく。ただの無機物だったガラス玉にユリアローゼの小さな手から放出された魔法の波動が沁み込んでいき、うっすらと輝きを帯び始める。
透明だったガラス玉が、白く明滅する。次第にその輝きは強くなり、最後にはピカっと閃光を発した。輝きが落ち着いたのを確認してから、ユリアローゼは師である少年の様子を伺った。
「いかがでしょう……」
ユリアローゼがおずおずと差し出した石を手に取って、少年はまじまじと検分した。
「ま、及第点といったところか。魔力を込めるスピードが遅すぎて宝石に形質変化しそこなっている。この品質では魔法使いの末端を名乗るのもはばかられるだろう。しかし、ガラスに魔力を込めて魔石に変えるというお題はクリアしている。魔力値が最低ラインを超えた証拠だ。それに、魔力の色は聖女の色とも称される白色で、そこも悪くない。訓練を続けていけば、いずれはガラス玉をダイヤモンドの魔石に形質変化させられるようになるだろう」
頷いて微笑んだ少年の表情を見て、ユリアローゼは飛び上がって喜んだ。
「やったぁ! ではでは、お約束通り採集に連れて行ってくださるのですねっ」
「約束したから仕方ないな。しかし、そのように尻尾を振る子犬のように喜色を振りまいていては、侍女たちに企みが見つかって部屋に閉じ込められるのがおちだぞ」
「まあ。それは大変。ポーカーフェイスでいなければ」
慌てて表情をとりつくろったユリアローゼの顔を見て、少年はくすりと笑った。
「ユリア、顔がにやけているぞ」
そう指摘するだけでなく、知らず上がってしまう口角に触れようとしてくる少年の指先からぎりぎりで逃れたユリアローゼは、顔を赤らめて怒ったふりをしてみせた。
数日後の晩、ユリアローゼとその片割れは、ひっそりと作戦を実行に移した。
ふたりは大人たちが寝静まった後に起きだし、一番飾りが少なくて動きやすいお揃いのドレスに着替えてから、少年の魔法で夜の空に飛び立った。
宮殿を抜けだし、眼下に広がる街を一息に飛び越えて、深い森の上空を滑空する。その姿をもし目撃した者がいれば、ふたりの妖精姫が手をつないで空を飛ぶ奇跡の瞬間を目の当たりにしたと錯覚したことだろう。その片割れが、実は姫ではなくどちらかというと騎士であることには誰も気づくまい。
満月の夜。幾千もの星が煌めく空の旅は、ユリアローゼが寂しいと感じる程にあっけなく終わってしまった。
到着した目的地は、澄んだ水をたたえた大きな湖だった。
湖畔の桟橋に降り立ったユリアローゼは、どきどきと胸を高鳴らせながら、視界の先までずっと続く巨大な湖を見つめた。凪いだ湖面には、夜空の煌めきのすべてが写し取られている。
王宮の外に出たことのなかったユリアローゼにとっては、初めて見る外の世界。未知の体験に気持ちは高ぶるばかりだ。
踊り出しそうなユリアローゼの横で、少年はおもむろにボートを出現させた。
「呆けてないで、さっさと乗り込むぞ」
「うんっ」
従順にうなずいて、ユリアローゼは湖面に浮かぶ小さなボートに乗り込んだ。少年が魔法によって用意したボートは、体重を乗せるとぐらりと揺れたので、慌てて腰を落とし、ユリアローゼはその辺のでっぱりに座り込む。ひやりと肝を冷やしたユリアローゼとは対照的に、後から続いた少年は、危なげなく乗り込むと、仁王立ちして進行方向の先を見つめた。
間もなく、ボートは漕ぎ手もいないのに湖面を滑りだした。
そして、湖の中央付近に到着すると、その動きを止めた。
「着いたぞ。今夜は、これを採集する。湖面を揺らすなよ」
声をかけられて、ユリアローゼは怖るおそるボートから身を乗り出した。湖面が完全に凪ぐのをしばらく待っていると、今夜の採集目標が現れた。
「湖面に差した月光……。美しいわね」
そしてロマンチックだ、とユリアローゼは胸をときめかせた。
夜空に浮かぶ満月から、光の
「不思議……濡れないのね」
「湖面に差した月光は、いわゆる聖水だからな。聖水の本質は光だから、濡れないんだ」
「へえ、そうなの」
少年の説明に、ユリアローゼはわかったふりでうなずいてみせた。
「お前、理解したふりで誤魔化す癖はいい加減直した方がいいぞ」
少年には呆れられてしまったが、上機嫌なユリアローゼには効果がなかった。えへへと照れ笑いをしてみせたら、少年を誤魔化せることは経験則として知っていた。
少年は咳払いをすると、何もないところからガラス瓶を取り出した。そしてそれをユリアローゼに押し付ける。受け取って、ユリアローゼは師たる魔法使いを期待の眼差しで見つめ返した。
なぜか少し怒ったような表情をした少年が、ぷいと明後日の方を見ながらユリアローゼに指示を出した。
「その小瓶に、月光を掬って入れるだけだ。多少の魔力があれば猿でもできる」
「なんだ、それだけ? 簡単じゃない」
一体どんな魔法を使って採取するのかと身構えていたため少し拍子抜けしたが、ユリアローゼは気を取り直して作業を開始した。
ボートから慎重に身を乗り出し、満月を写し取った湖面に小瓶を沈める。小瓶は気泡を吐き出して、代わりに聖水を飲み込んだ。十分に満たされたのを確認してから湖面から引き上げると、小瓶は、月光の淡い光をたたえて金色に煌めいていた。
「きれい……」
「うん。いいだろう。それはお前にやる」
「良いのですか!?」
「ああ。かまわない」
「ありがとう、―――!」
少年の名を叫び、ユリアローゼは満面の笑みを浮かべた。少年は、「べつに」などとつれない返事を返すとそっぽを向いてしまう。いつもの照れ隠しだと分かっているので、ユリアローゼは気にしない。少年はとても照れ屋なのだ。
「それにしても、まだ帰りたくないわ」
誰にも聞かせるつもりのなかったユリアローゼの本音は、知らず口から漏れ出ていたようで、少年の耳にも届いてしまった。
「すまない」
油断していたところに返事が返ってきた上に、謝られてしまい、今度はユリアローゼが照れる番になった。
これではまるで、ロマンチックな小舟の上でふたりきりというシチュエーションをもっと楽しみたいと言っているみたいだ。みたいではなく、それ以外の何物でもないのだが、そんなわがままを言うのは何故だかとっても気恥ずかしい。
恋人じゃあるまいし――。
ふと心に浮かんだ単語に、ユリアローゼはうろたえた。
恋人とは何ごとですか。わたくしと―――は別にそんな関係じゃ! わたくしはただ、この素敵な場所でもう少しだけ過ごしたいと思っただけで、―――と何かをしたかった訳ではありません! ああっ、何かって何なのですか!? 何故かどんどん思考が破廉恥な方向に!? まだ10歳、わたくしたちはまだ子供ですよ。婚約者でもないのにそんなこと、あり得るはずがありません、しっかりなさってよわたくし!
しかし、羞恥に頬を染め慌てる、混乱状態のユリアローゼの心中になんて、少年は全く気づかない。
「まだ俺の分の採集は終わってないんだ。しばらく待っていてくれ」
そう言うなり少年は、時空の狭間から大きな
これでは、情緒も風情もあったものではない。
ふたりの間に静かに揺蕩っていた幻想的な雰囲気は木っ端みじんに粉砕され、跡形もなく消え去った。そこにあるのは派手に水音を響かせせわしなく動きまわる少年の、ただの作業風景のみだ。
「よっせ! ふう、さすがに盥が大きすぎて重いか。鍛えていても力が足りん。早く大人になりたいものだ」
「…………ええ。本当に」
ユリアローゼはしばらく察しの悪い少年をジト目で見つめていた。
けれど、ここへ来たのは湖面に差した月光の採取のためであり、当初の目的を遂行する少年の行いにこそ正当性があることに気づいてからは、――ましてや、ふたりの関係は恋人ですらないのだから――少年に手を貸し月光採取を手伝ったのだった。
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