2


 2.

 

 翌朝、学校へ行くと奈穂が【成彩】を迎えていた。


 彼女とは小学校からの仲なので、実に十年来の付き合いがある親友だが、当然どんな容姿をしているのか、どんな色を有しているのかはこれまで知る由もなかった。幾度と想像を巡らせてみたことはあるけれど、手掛かりなんて一つもないものだから、ふわふわと曖昧な容貌を思い描いては掻き消し、浮かべては手放していた。


 そんな彼女が色付いている。


 姿形がはっきりと認識できる。


 私は肺を空気でいっぱいにしてから、笑顔を浮かべて駆け寄った。


「奈穂! おはよ!」


「……宵? おはよ~」


 奈穂は力の抜けるような微笑みを口元に湛え、私にひらひらと手を振った。彼女の姿が隈なく見える。こんな風に笑う子だったのか。


 新たな発見に胸を躍らせていると、不意に彼女は何かを思い出したらしく、「あ」と短く呟き、私に向けていた掌を翻して握り込んだ。


「……どうしたの? ケガでもした?」


「え、いや~……うん、何でもないよ。だいじょぶ」


 そう云って笑う奈穂は、全然大丈夫なように見えない。


 しかし、長い年月をともに過ごしてきた私にとってみれば、彼女がそれ以上踏み込まれたくないと思っていることは容易に分かる。互いの顔が見えないからこそ、醸す雰囲気を察するのは慣れていた。だから私は彼女の素振りに気が付かなかったふりをして、近くの椅子を引き寄せた。


「それにしても奈穂、はにゃって笑う系の子だったんだね。笑い声から想像つかなかった」


「えっ、はにゃっとしてる?」


「うん、はにゃはにゃしてるよ」


「うっそ~……へ、変?」


「いやいや、柔らかい笑顔でいいと思うよ。ほら、たまに最初は笑顔が下手な人いるけどさ、奈穂は初めから上手に笑えてるし、めちゃいい感じ」


「お~、そっか~……って、べた褒めじゃん。こわ~」


「なんでよ」


「宵のことだから、なんか裏ありそう」


「はい、さっきの全部取り消し。このやろ」


 奈穂の頬を軽くつまみ、引っ張ってみる。これまでボディタッチはあまり行ってこなかったけれど、輪郭を捉えられるようになったとなれば話は別だ。遠慮なくいかせてもらうとばかりに外側へ広げると、奈穂は一瞬驚きで目を見開いたが、すぐにはにゃっと柔和な笑みを形成した。くっ、こいつめ。


「これ、お仕置きなんですけど。笑っとるんちゃいますよ」


「え~、お仕置きだったの?」


「おうよ」


「ふふ、随分優しい手つきのお仕置きですこと」


「引き千切ってもいいけど、このほっぺ」


「困るなぁそれは。っていうか、宵は見えないから仕返しできないの、ずる~」


「見えなくても掴めるでしょ」


「そうだけど、間違えて目とか突いちゃったら大変でしょ~」


「まぁ、確かに。……じゃあ」


 彼女の頬から指を離す。


「明後日。私に色が付いたら、好きなだけやり返していいよ」


「ほう、好きなだけ?」


「……嘘。やっぱり常識の範囲内で」


「ふふ、楽しみにしてるね」


 掬った清らかな水が指の間をすり抜けるように、相変わらず奈穂はのらりくらりと会話を重ねる。


 その喋り方に、私はふと、「あぁ、ちゃんと奈穂なんだ」と心の中で思った。


 彼女は昨日まで透明だったわけで、言ってしまえば彩られている奈穂にまったく見覚えはない。しかし、その喋り方は目の前の少女が確かに奈穂であるという証左たりえた。抽象的だった眼前の女の子と奈穂のシルエットが、ジグソーパズルのピースを繋ぎ合わせるが如く、今になってようやく完全に重なったのを感じる。


 もちろん、彩られたからといって元の人格や癖が変わることはそうないと知っているけれど、一抹の不安は拭いきれていなかったらしい。もしも奈穂が、昨日までと違う人間になってしまっていたらどうしよう、みたいな。


 私は悟られないようにそっと胸を撫でおろした。きっと今の私は奈穂の笑顔を評するのもおこがましいほど間抜けな表情をしているのだろうが、ばれないのが救いだ。


「……あれ、もしかして緊張してる? 宵?」


 ——などと思っていたら、当たらずといえども遠からずな線を奈穂がついてきた。彼女もまた幼馴染なりの勘を備えているようだ。なんと厄介な。


「き、緊張って、何が」


「え? 二日後のことだよ。ほら、成彩」


「あー」


 そっちか、とは声に出さないようにして、その体で話を進めることにする。


「まぁ緊張しないってことはないかな。うち、ちょっとあれじゃん」


「うんうん、あれね。厳しいもんね~」


「そうなのよ。厳しいどころか、瞳にしっかり色が入らなかったらお前は淡海家の人間じゃない! 出てけ! 的な勢いだからね」


「うわぁ、きっつ~」


 これが誇張表現ではないというのだから、つくづく我が家系は狂っていると思う。一族郎党、未だに十九世紀くらいを生きているのではないだろうか。そんな時代はとうに古典として消化されるご時世だというのに。


「色を誇る名家、とかほーんと今時流行んないって。ねぇ?」


「それは、うん。そうかもだけど……でも、さ」


 ぽつりと、奈穂が呟いた。


「私は楽しみだよ。すっごく。宵の姿が見えるようになることも、瑠璃色と浅葱色が眼に入ることも。きっと綺麗だろうな、って思うし」


「……奈穂」


「お家の人はぐじゃぐじゃ〜っていろんなことを考えながら宵の成彩を待ってるかもしれないけど、私は違うから。ね?」


 見えないはずの私の眼をまっすぐ見据えながら、彼女は淀みなくそう云い切ってくれた。


 嬉しい、という感情が萌す。成彩が楽しみだと感じたのは、この瞬間が初めてのことかもしれなかった。彼女の云うとおり、淡海家の人間はお母さんも含めて、私の色に純真な期待を向けてくれないけれど、奈穂は違う。


 親友の言葉が仄かな温かみでもって、来たる私の二日後を灯してくれる、そんな心地すら覚えた。


 だが、彼女が伝えたかったことは、それだけではなかったらしい。自分を納得させるように奈穂は一度頷くと、


「だから——うん。隠すのはフェアじゃないよね」


 と言葉を継いだ。


「隠す?」


「……明後日、宵が彩られたら、その色を見せてもらうでしょ? なのに、私の色を見せないのはダメだな~って思って。どうせ隠しきれるものじゃないし」


「奈穂の、色?」


 ふと彼女の全身に目を向ける。けれど、違和感は一つもない。髪も黒色だし、瞳も黒色だ。それはとても普遍的な色で、何もおかしいところはない。


 ……と、そこまで思い至って気が付いた。


 成彩を迎えた後、特徴的な色が浮かびやすい部位は限られている。


 それは、たとえば髪。たとえば瞳。


 そして。


「宵。私の爪、見てほしいの」


 彼女はそう云って、恐らく見せないようにしていたのであろう手の甲をこちらへ差し出した。その動きにつられて、ゆっくりと視線を落とす。


 刻み込まれた【有坂 奈穂】という文字が視界に映るが、それは一瞬。すぐにその手前へと意識が引き寄せられる。


 奈穂の指先は、爪は、紺色を帯びた深い紫色——紫紺色で彩られていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

天鵞絨で空を覆う 炉月 隼 @Roduki_Shun

作家にギフトを贈る

カクヨムサポーターズパスポートに登録すると、作家にギフトを贈れるようになります。

ギフトを贈って最初のサポーターになりませんか?

ギフトを贈ると限定コンテンツを閲覧できます。作家の創作活動を支援しましょう。

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ