天鵞絨で空を覆う

炉月 隼

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 1.


 若緑色が折り重なる葉を成し、涼しげな街路樹を形作る。

 白鼠しろねず色が陽光照る壁面を成し、そびえ立つビルを形作る。

 杜若かきつばた色が、深緋こきひ色が、蜜柑色が、街に華やぐ看板を成し、キャンバスの上に渋谷の街並みを形作っていく。


 私の傍らには数十種にのぼる絵の具が控え、今か今かと出番を待ち侘びていた。世界を表現しきるには心許ないが、私の手で織り成す閉ざされた箱庭程度であれば、彩るのにそう困らない色数だ。彼らを画布で躍らせ、跳ねさせ、時には静かに佇ませながら、小さくも凝縮された世界を作り出す。その行為は私にとって唯一の趣味であり、生き甲斐とも呼べるものだった。


 渋谷の、スクランブル交差点。


 私がいま描き出している光景だ。絵を描くとき、私は題材選びにそれほど深い理由を抱かない。だから、この渋谷も、先日たまたま通りかかったのを思い出したから、くらいの軽い切っ掛けで着手し始めたものだった。


 強いて他にも理由を挙げるなら、使える色数が多そうだったから、だろうか。これまでの作品たちすべてに通じることだが、私は色遣いに最も神経を尖らせながら筆を振るう。それ故に、絵画を構築する色彩のセンスには、我ながら自信があった。


 ところで、この絵の制作を始めてからすでに一週間が経つ。キャンバスに顕出しつつある渋谷は、およそ地表が完成していた。天を仰望するような構図に、迫力ある建物や行き交う人々が収まり、賑やかな渋谷という街を十二分に描写できている。しかし、その中央はエマルジョン地が剥き出しになっていて、他の塗料は何も付着していない。ぽっかりと穴が開いてしまっている状態だ。


 その余白を埋めるべきは、空。


 そう。私はまだ、空を描くことができていなかった。


 画竜点睛を欠くという故事があるけれど、この絵にとっての空はまさに竜の眼といっても過言ではない。人工物の集合体である都市の景観は、対比となる自然の景観を描き添えて初めて際立つ。西瓜に塩を振ると甘みがはっきりとした輪郭を持つように、都市の緻密さや無機質さは、雄大な自然によってより強調されるのだ。


 空をシンプルな天色で塗りたくることは簡単だが、果たして本当にそれでよいのか。いや、凡作を佳作に、佳作を傑作に押し上げるならば、この色遣いを妥協するわけにはいかない。必ずやあっと驚くような色彩を操り、魅力的な風景を描き出してみせる。


 そのように心を決めてしまったので、私は空が落ち窪んだ渋谷の前で、うんうんと唸るはめになっていた。


 すると、悩みに悩む私をいつの間に眺めていたのか、背後からお母さんの笑い声が上がった。


「相変わらずの熱中具合ね、よい。私がいること、気付いていないの?」


「わっ、ちょっとお母さん! いるなら云ってよ、驚くでしょ!」


「ふふ、ごめんね。でも集中しているみたいだったから——あら、綺麗な絵ね。これは……スクランブル交差点?」


「うん。こないだ奈穂たちと一緒に行ったから、思い出しながら描いてるの」


「そうなの。渋谷、人が多くて大変だったでしょう? ぶつかられたりしなかった?」


「大丈夫大丈夫、ちゃんと目立つ服着ていったし。それにもう色付いてる子も一緒にいたから問題なかったよ」


「ならいいんだけど。でも、人混みには気を付けなきゃだめよ?」


「うん、分かってる分かってる」


 適当な返事をする。お母さんは過保護すぎだ。

 そんな反抗期めいた私の思いを知る由もない彼女は、傍に来て絵を覗き込んだ。


「……良い絵になりそうだし、完成したらお母さんにも見せてね」


「いいよ」


 私は頷く代わりに名前の刻まれた右手を上下に振った。大人はみんな首を縦に振って肯定の意を表すが、私はまだ子どもなのでそうやって意思を示すしかない。首を動かしたところで、相手はその動きを認識できないからだ。


 お母さんは、揺れる【淡海おうみ 宵】という文字を眼で追っている。しかし、それは時間にして五秒ほどのこと。僅かな動きながらも軌跡を描きそうなほど美しい彼女の瑠璃色と浅葱色の瞳は、やがて私の眼を捉えた。お母さんからは見えないはずなのに、そのオッドアイは間違いなく私の双眸に焦点を合わせている。


 まただ、と思った。時折、お母さんは私の眼をじっと見詰めることがある。幻視なのだろうか。気付けば、彼女の口元からは笑みが失われていた。


「……三日後ね」


 零れたお母さんの呟きは、妙に力が籠っていた。


 その声に気圧されて、ふと私も明々後日に思いを馳せる。


 三日後。私の誕生日。十八歳になり、成人する日。

 すなわち私が——色付く日。


 きっと、お母さんは緊張しているのだろう。しかも、喉を締め付けられるようなその不安は、一過性のものではないはずだ。私が生まれてから今日に至るまで、平静という名の仮面を身に着けながらも、ずっと気が気でなかったに違いない。


 何故なら、淡海家の血筋は、瑠璃色と浅葱色以外の瞳を持つことが許されないから。

 淡海家の長女ともあろう者が、他の色に彩られるなどあってはならないことだから。


 その堅苦しい古典的な雰囲気は、私も幼少期から重圧という形でひしひしと感じ取っていた。正直どうでもいいことだと思っていたし、むしろこんな現代に旧世代的なしきたりを継承するだなんて馬鹿馬鹿しいことだとすら思っていたが、親類縁者に板挟みされているお母さんの境遇を考えると、軽々しく反感を口にするのは難しかった。


 なので、私の色がどうなるのか、気にならないと言えば嘘になる。

 結果次第では、私自身はもちろんのこと、私の両親も淡海家で肩身の狭い立ち位置に追いやられてしまうだろうし。


 ……だから、あと三日。三日ではっきりする。

 私の虹彩に宿る色が、淡海家にそぐうものなのか否か。


 まだ見ぬ自らの眼を想い、瞼越しにそっと触れる。仄かな脈動を指先で感じることはできたが、当然その色彩まで悟ることは叶わない。再びお母さんに視線を向けると、彼女は何事もなかったかのように仮面を貼り付けなおしていた。


「何してるのかな、って様子を見に来ただけだから。お母さん、そろそろ晩御飯を作りに戻るわね」


「……うん」


「絵の完成、楽しみにしているわ」


そう云い残し、お母さんは部屋を後にした。短い滞在だ。にも関わらず、彼女は私に言い表しがたい疲労感を残していった。

 描くことに没頭していたというのに、まったくはた迷惑なことを。


「……今日は休憩しよっかな」


 エマルジョン地の空をぼんやり眺めながら、その日私は筆を置いた。


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