殺?愛

七山月子

第1話 お化けコントロール



小川さんはいつも褌いっちょうだ。それも真っ赤っかな褌だ。そして彼はいつも、ふとした些細な過去を思い出す傍にそっと居る。

彼はおばけなのか? 

訊いたことはないが、そうとしか捉えられないほど一瞬のうちに現れていつの間にか居ない。

あるようでないような、赤い褌の小川さんと今夜も妙な晩酌の予定がある。

私の名前を呼ぶ声がする。それはいつだったか遠い初恋の相手の声だった気がする。

小川さんに会うようになってからなのか、初恋の彼の「あいこ」と滑舌悪く私を呼ぶ声を思い出すようになってからなのか、お猪口を二つ並べてリビングテーブルに突っ伏すくらいくたくたに酔っ払う日々の始まりは曖昧である。

すうっと小川さんの気配がすると会話が始まる。会話というよりは小川さんのお話だ。因みに初恋の彼とは数十年会ってないし、名前すら朧げな記憶の中でしか生きていない。

「やあやあ、あいこさん。今夜も寂しく生きているんですか?嫌になっちゃった?この世の中が。早く僕に憑依されてくださいよ。そうして彼の生きた姿に会いに行きましょう。僕が会わさせてさしあげますよ」

今夜の小川さんは少しばかりもいつもと変わらず上機嫌で、気配はいつも通り少し気分の悪いほどノリのいい音楽を全身に浴びさせられたようなものだ。

何度もなぜ、美爪くん(初恋の彼の名前は美爪だった...と何故か小川さんに思い出させられている)と私をそんなに会わせたがるの。小川さんに得でもあるの。

「まあまあそんなこと言わずに、さて呑んで、さて呑んで」

飲み干したばかりのお猪口に水か酒か怪しいものが湧き出るのを見るのはそれまで何度もあったしそれはどんなメーカーの酒よりも甘く切なく苦しく美味しいので何の疑いも既になくなっていたし私は口をつけた。


夢を見ているのかと思った。

果たして酔っ払っているだけかもしれない。

小川さんが憑依した身体で頭は二日酔いの私だったけれど、口をも彼に持っていかれている。

「さてさてあいこさんあいこさんあいこさんの身体は僕のもので頭だけは君のものに仕立てあげてみましたよ、どんな気分ですか僕は最高に気持ちが悪くて最高ですあいこさんにはお伝えしていなかったかと思いますが僕は変態です!」

そんな事を今こんな状態で得意げに宣言されても。これからどうやって生活すればいいの。やめてほしい。本当にやめてほしい。そのダンス異常に気持ち悪い。やめてほしい。

「だめですよあいこさん、このダンスは僕の身体に仕立て上げる最後の儀式でございます、そやっ」

本当にやめてほしい。だめ、眠い。


気づいたら彼...いや私は服装が変わって道路のど真ん中で眠っていた。車が来るんじゃないかと思ったが身体は動かせず、どうやら小川さんは眠っていて歩行者天国になっている道路の上だったので妙に安心して私は安心した自分が消えかかっていることに気づいた。

「よーうやく気づかれましたかあいこさんあいこさんは今最早かけらほどもなくなっていますこのままだと死にます殺されます誰にですか?美爪くんですよ美爪くんが僕をあいこさんに送り込んだのですででーん」

口の達者なお化け(?)な小川さんである。しかし死にたくないなと私は思った。こんな日々の終止符がこんな意味のわからない自分の居るか居ないかもはっきりしないまま終わるなんて嫌だ......生まれて初めてこのかたこんなに死にたくないなんて自覚してしまった。

ある夏の始まり、私の日常はそりゃあ薄っぺらいもんだったけど、お皿に並ぶ食事に目を輝かせて一緒に酒を飲む楽しい友人すら居ないし、仕事もしてるようでしてないような出来ない女だし、彼氏も最早自然消滅になっちゃって、生きてなくたって生きてたって構わないような人間だけど、死にたくないなと思ってしまった。恐怖か、意地か、勿体ないかもなあっていう呑気な感想が大きいのかもしれない、もったいないからあと30年くらいは生きてても構わないはずを、何故......

「小川さんに注ぐ、小川さんに注ぐ!これ以上はあなたの好きに動かされたくないよ」

私は戦わないと行けないことに気づいたけれど立ち上がるのに精一杯で、人にぶつかってぶつかって打ち身捻挫内出血のアザを作りながらどこへいくのかわからないまま歩いた。


森だった。どうして森なのかわからないなんて最早わからない状況に慣れつつあった。小川さんはあれから静かにしている。口だけは静かだ。身体はどうやら私の意思と関係あるようでないように勝手に森へ来た。

口をようやく開けてみた。呼吸は荒い。美爪くんの声を思い出してみようと思ったのは森の木々がやけに美しい漆黒のレースになって月の朧げな光を揺らしていたからだろうか。

美爪くんとは5歳の頃、ただ家が近くにあったから出会った。幼馴染の彼はいつだったか私の名前を何度も重ねて呼んだ。私はそれになんとも思わないまま自分勝手にわがままに応えていた。

美爪くんの髪の毛が素敵だったとか、ざらつく声になってきた頃の彼から逃げたとか。

記憶が、あまりにない。

「小川さん、私をこの森でどうするつもりなの」

右手が動く。私じゃないような私の不細工な右手が、ひらりひらり動き回る。

もう気持ちの悪いダンスなんて思いもしないようになっていた。小川さんの右手が私の目の前に広がる木々のレースの上の星空を指さした。

それが夜だと初めて知ったような心地。

20年前、私たちはこの森でよく遊んでいた。

美爪くんはそこの森のこの場所で寝転んで、星を見たいなと呟いた。だから私が、あるじゃないか、星ならたくさん、と何の気もなしに言った。美爪くんは目が悪くて、そんなこと忘れて私は何の気もなしに言った。

「あいこ、あいこ、あいこ」

なに、なんで何度も呼ぶの。

「あいこの名前呼びたくなってしょうがない気持ちになったんだ」

じゃあずっと呼んでてもいいよ。

「星の数何個あるの?」

みっつくらいかな。

「何だ、少ないね」

そう?多いんじゃない。

目を開けて閉じて開けて閉じると小川さんの身体が起き上がった。確かに木々の葉で右腕を切り裂いた覚えがあったのに痛くなかった。

「小川さん、早く居なくなるか出てくるかどっちかにして。この先には湖がある。そこで死ねって言うならそれなりの理由があるんでしょ。教えてくれないまま訳もわからず死ねってのはちょっと違うんじゃない?」

小川さんの気配が分裂して私の体のあちこちが痛さで悲鳴を漏らした。

小川さんは赤いスーツを着ていた。中のシャツは黒。ブーツも黒。髪の毛は滑らかな黒でまっすぐなボブ。

「僕を思い出せたら殺さないであげようかと思ってた」

「小川美爪くんだね。死んだの、君」

「いいや?ただあいこに会いに来ただけだ。そしたらあいこってばつまんなくなっちゃってたから殺してあげようかなって思っただけだ。どうしたい?これから僕をどうしたい?」

会いたいと願う気持ちだけが心を支配していた。でもそれに伴うべき記憶は少なすぎる。

「この森で私たちよく遊んだよね。もし君が死んでいないなら、お化けじゃない方の君と会って話をしたい」

「だめだよあいこ、楽しすぎ。もう少しで湖が見えるからほら立って歩いて。今度はあいこの足だけもらうね」

美爪くんの姿は赤い塊になってそのまま両足に吸い込まれてしまった。

私は頬も腕も胸も足より上は自分自身の意思で動けたので痛みのない両足で勝手に湖の際まで歩いた、否、歩かされた。

そこには朝焼けがあった。

湖の真上に広がる朝焼けが水面に映されて全く混じり合った詩的な表情を思い描いていた。

なのに私の足で美爪くんの足は裸足になって湖へ落ちて行こうとする。

「待って美爪くん待って殺さないで死にたくないよ」

じゃあ死にたくない理由教えてよ。頭の奥の方で声が鳴る。その声はいつだったか怒りを押し殺した彼の声だった。

「今生きてるのに死にたくなんかないよ」

叫びながらずっと昔に、頭の中ぜんぶ美爪くんだったらいいのになんて言葉を吐いたことをようやく私は思い出せた。

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