(2)

 いやいやいや待て待て待て。


 昨日、卓球部の退部処理にかかずらっていて精神的に疲弊していたため、深く考えずに峰岡と約束し、晩は早く眠ってしまったが、次の日冷静になって考えてみると、峰岡沙雪が俺の家に来るって相当な一大事なのではないかと思えてきた。


 一般的に言って、異性の友人の家に訪問することには、特殊な意味が出てくる。峰岡はそういう俗世的価値観からは離れたやつなので何も考えていないとは思うんだけど、俺はこう見えて俗世的価値観に塗れた俗の塊なのでその意味を意識しまくってしまう。俺からすれば、峰岡は偶に会って話しこむ程度の良き友人ではあると思っているけど、それ以上のステージに進んだ記憶は全くない。峰岡から見てもそのはずだし、本当にただ友達の家に行くという体験がしたかっただけだと思う。けど、そうだとわかっていても、一応意識はしてしまう。


 午前中、両親が仕事へと出かけていった後、二度寝を繰り返して10時すぎにやっと起床した俺は、シャワーを浴びている最中に事態の深刻さにようやく気づき、大慌てで風呂場を出て部屋の掃除を始めた。見るべきところのない汚い家だが、ちょっとでも見栄を張るために家を綺麗にしておきたいと思ったのだ。


 我が家は、特に特筆すべきところのないよくある3LDKのマンションで、一室は両親の寝室、一室は俺の部屋、そして一室は今春晴れて兵庫県の国立大学に進学し下宿している姉貴の部屋になっている。この中で峰岡が入る可能性があるのは、玄関、廊下、トイレ、リビング、ダイニング、キッチン、そして俺の部屋だ。これらの部屋に掃除機をかけ、クイックルワイパーをかけ、窓を拭き、空気を入れ替えておいた。ゲームをやりたいと言っていたので、滞在するなら基本的に俺の部屋のはずだから、自室は特に念入りに掃除した。


 ちなみに、見られると困るようなものは……ない、はず。うん。ないよな。古いタイプのラブコメのテンプレ展開に従うなら、峰岡にエロ本が見つかって「木下くんってこういう趣味があるんですね」と毒虫を見る目で見られるところだが、情報技術が跳梁跋扈する現代社会においては、そんなミスなどありえないのである。でも、パソコンを開かれたら人生が終わるので、ノートパソコンは目につきにくいところに隠した。


 約束の時間が近づくにつれ緊張が高まって食欲を損なってしまい、昼飯を食う気を失ってしまった。緊張を紛らわすためにひたすら家を掃除し続けていた。そうしているうちに、ついにその時が来た。13時ちょうど、俺が玄関に這いつくばって雑巾でタイルを磨いていると、オートロックのインターホンが鳴る音がした。無言で開錠し急いで雑巾を片付けていると、今度は玄関のチャイムが鳴った。


 玄関の扉を開けると峰岡が立っていた。峰岡は軽く首を傾けながら微笑んだ。


「こんにちは。お邪魔します」


「ああ、入って。暑かったろ」


 峰岡はサンダルを脱いで入ってきた。俺は思わず目を瞬かせた。峰岡の私服だ。いや、学校に行く予定がない日に制服を着ているわけがないので、私服を着ているのは当たり前のことなんだけど、制服の峰岡を見慣れてすぎているために違和感が凄い。俺がその場に佇んでジロジロ見ていると、峰岡は怪訝そうな表情を見せた。


「変ですか、私服」


「あ、いや、めちゃくちゃ似合ってると思うんだけど」


「前から思ってたんですが、木下くん、なんでも褒めてくれますね」


 峰岡は顔をうっすら赤らめて口を尖らせた。黒いノースリーブのトップスに、プリーツの入った白いロングスカート、夏らしいカゴバッグに、コルクサンダル。小柄ではあるが綺麗なラインをしている峰岡の体つきがしっかりと分かる。中学生と思えない大人っぽいコーディネートだが、なんというか、峰岡のイメージに合致しすぎている。


「褒めたっていうか、お前のセルフイメージに合致した服だと言いたかったんだ」


「頑張ってないときの服というか、いつもの服ですからね。近所に買い物に行くときとか、こんな感じです」


「ジロジロ見て、ごめん。制服の峰岡を見慣れてるから、ちょっとびっくりしてしまった」


「そう言えばそうですね。木下くんの私服も初めて見ました」


 かくいう俺はユニクロの真っ黒のデニムにユニクロの真っ黒の無地のTシャツという、THE オタクという出で立ちだった。もっと色気のある服があればよかったんだが、親に服を買ってやると言われても自分を布で飾ることにいまいち興味がもてず、「とりあえず色と柄だけあわせてればいいだろ」の精神で無地モノトーンの服しか着ないようにしていた。峰岡は俺のオタク丸出しファッションには何も言及せず、なぜかクンクンと匂いをかぎ始めた。


「ところで、掃除でもされてました?」


「え、なんでわかったん?」


「あ、いや、玄関がとても綺麗で洗剤的な薬品の匂いがするのと、木下くんの指がふやけているので、濡れた雑巾でもずっと握ってたのかなと」


 俺が苦笑いしながら頷くと、峰岡は得意そうに笑った。さすが美少女安楽椅子アームチェア探偵。家について速攻で俺が見栄を張るために掃除をしていたことを暴いてしまった。


 玄関で立ち話し続けるのもあれなので俺の部屋に案内した。冷房でよく冷えた空気が気持ちいい。ダークブラウンの机と、教科書と漫画と文庫本が詰まった背の低い本棚、本棚の上に小さな液晶テレビとゲーム機がある。飲み物などを置くのに使うかもしれないと思ったので、小さなちゃぶ台を姉貴の部屋からパクってきた。下宿中で不在にしている姉貴の部屋は半ば物置代わりになっていて、家中の行き場所を失った荷物が置かれている。だからちゃぶ台を取り出すために、見慣れない大きなスーツケースを退けなければならなかった。


「お前の部屋と比べると狭いだろ」


「面積の点でいえば私の部屋のほうが広いと思うんですけど、大きな本棚があるので実質的な広さは同じくらいだと思います」


「座るところがないな、すまん」


「地べたでいいですよ」


「座布団もあるんだけど……ゲームやるなら、ベッドに座ったほうが首が楽かも」


 おや、これ、部屋に入って速攻ベッドに誘う性欲ダダ漏れの男みたいになってないか。自分の言った内容を反芻して、冷や汗がでてきた。だが、峰岡は特に気にならないようで、ベッドの端に背筋を伸ばしてちょこんと腰掛けた。


 それから何を思ったのか、峰岡は突然バッグから一瓶のファブリーズを取り出した。あまりにも脈絡がなさすぎて、俺は「えっ」と声を出してしまった。


「これ、うちの母から……」


「なんでファブリーズ?」


「今朝、木下くんの家に行くとお母さんに言ったら、異性の家だからとめちゃくちゃ反対されたんです。でも、大事な友達ですし、そもそも住所以外の連絡先を知らないから断れないと言ったら、では、これをお土産に持っていきなさいと言われたんです。本来は菓子折りなどをお土産にするべきだと思ったのですが、これ以外持っていくなと言われてしまい……」


「いや、菓子はいいんだけど、なんでファブリーズ?」


「部屋に入った瞬間取り出して、汚かったらぶっかけなさい、と言われました。でも、とても綺麗ですし、きっと直前に掃除してくださったんでしょうから、必要ないですね」


「お前の母にめちゃくちゃ警戒されてるな、俺」


 峰岡が俺のことを「大事な友達」扱いしてくれてとても嬉しいんだけど、峰岡母はどうやらそうは思っていないらしい。ってか峰岡、親にそんなこと言われたとしても、黙っていればいいのに。素直だから何でも話してしまうんだな。俺が顔をひきつらせていると峰岡は言いにくそうな顔で続けた。


「あと……その、木下くんが私に身体的接触を図ってくることがあったら……」


「そんなことしないからね!」


「そうですよね。基本的に紳士な人なので大丈夫だと私は言ったんですが、納得してもらえなくて。もしと、そういう、その、え、エッチなことされそうになったら、顔面にかけて逃げろと」


「ぐっ……キノコ扱いは慣れたつもりだったけど、細菌扱いは流石に胸にくるものがあるな」


「広義では両方菌類ですが、キノコは真核生物で、細菌は原核生物なので、全く違う生き物ですからね」


 そういう話じゃない。俺が黙って眉を吊り上げると、峰岡は心底申し訳無さそうな顔をした。


「ごめんなさい。私も流石に失礼だと思ったんですが、家に持ち帰るとお母さんに何言われるかわかりませんし、でも新品ですから捨てるのももったいないので、どうぞお家で使って下さい」


「お、おお。俺の部屋で使う用のは無かったから、助かるっちゃ助かるよ……」


 とりあえず意味もなく自分の枕に噴霧してみた。シュッという虚しい音と共に、緑茶っぽい香りがした。

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