(1)
記憶というのは不思議なもので、本当にふとした瞬間の、本当に些細なきっかけで、本当に思いがけない出来事が蘇ってくることがある。
だから、ある夏の日の夕方、コンビニのイートインコーナーに2人きりでいた時に、峰岡が食べたハーゲンダッツのカップを俺が拾い上げてゴミ箱へと投下した瞬間、彼女が突然こんなことを言い出したのはまったく不思議なことではなかった。
「そういえば、木下くんの家に私がお邪魔するって話、ありませんでしたっけ」
「えっ?」
翳りゆく夏の日差しを浴び、まくりあげた紺色のカーディガンの袖をおろしながら、俺の同級生の
何を言い出したんだと思ってじっと見ていたら、峰岡は「あれ?」と呟きながら首をかしげた。ボブカットがサラサラと揺れる。白磁のように白い肌に絹のように細い黒髪がうっすらと影を差した。
「5月末、美化委員の活動で、2人で街中のゴミ拾いをした日に、私がテレビゲームをやったことないって言ったら、そんなことを言ってましたよね」
「あ、ああ……言ったな」
そこまで説明されたら思い出した。確か、うちの中学で5月末に毎年開催される「ゴミゼロ週間」というゴミみたいな学校行事でゴミ拾いをやったとき、2人で世間話をしていて、峰岡が親にゲームを買い与えてもらえなかったと言ったので、冗談で「今度やりに来なよ」と言ったんだっけ。
普通、女子という生物は、親しくもない男子に家に誘われたら「キモっ」と思って断るものだと思う。女心がわからない俺だってそれくらいのことは分かるので、当然拒絶されるというギャグ的な流れを予期して言ったつもりだった。あの頃は出会ったばかりだったので峰岡のことをよくわかっていなかったが、今はこいつがそういう俗世的な価値観からかけ離れた存在であることを知っている。どうやらこいつ、本気にしていたらしい。
「でも、なんで今更になって思い出したんだ」
「私も今の今まで忘れてたんですが……木下くんがゴミを捨てたのを見て」
「なんか嫌な思い出し方だな」
「すみません、他意はないんですが」
俺がどうしたものかと考えあぐねていると、峰岡はおずおずと言い出した。
「実は、私、生まれからずっと、友達の家にお呼ばれしたことがなくて……一度、そういうことをしてみたいと思っていたんです」
「え、生まれてから今までずっと?」
「そうですね、幼児期健忘で覚えていない間に誰かの家にお邪魔したかもしれませんが、少なくとも記憶の限りは一度もありません。すごく引っ込み思案なので、友達付き合いが深くならなくて」
「俺から見るとそうでもないと思うけどな」
「そう見えたとしたら、木下くんが話しやすいからですよ」
そう言って峰岡は微笑んだ。そんな風に言われたら無下に断れなくなるな。
「あの、ご迷惑だったら遠慮します」
「迷惑じゃないぞ。峰岡が来たいのなら来てくれ。卓球部の奴らはたまに来るし、友達が家に来るのは普通だ」
そう言うと峰岡の顔がパッと明るくなった。俺は作り笑いを浮かべながら、さらっと情報を歪めてしまったことをごまかした。女子が俺の家に来るのは普通ではない。小学校の時、仲の良い奴なら来たことはあるが、そんなに頻繁にあることではなかった。そして中学生になってからは当然一度もない。
「日程、どうしようか」
「私は、美術部があるのですが、部員が私1人なのでいくらでも活動日を変えられますし、夏休み中ならいつでもいいですよ」
「俺も特に用事はないな。ただ、来週のお盆の期間、ちょっと親戚の家に行くくらいだ。あと土日は親の思いつきで外出させられる可能性があるから、平日のほうが良いかも」
休日で両親が家にいるところに、女の子(しかも超可愛い)を連れ込んだらどんな目に遭うか、想像したくもない。俺の家族内での立ち位置は、平たく言えばいじられキャラだから、とんでもない目に遭うに決まっている。両親のいない時間帯に呼んで、帰ってくるまでに追い出す作戦で行くか。
「ちょっと急だけど、明日の昼飯時の後、13時くらいはどうだ」
「いいですよ。明日なら、ちょうど美術部をオフにするつもりでした」
「分かった。じゃあ決まりだな」
そう言うと峰岡は嬉しそうな顔で頷いた。それから、俺は家の場所を伝えるために、スマホで地図アプリを開き、自分の家の位置にピンを落として峰岡に渡した。
「場所はここだ。分かる?」
「あ、はい。覚えました」
「分かるを通り越して覚えたのか」
「記憶力には自信があるので」
峰岡はそう言って胸を張った。「一を聞いて十を知る」を超えて「一を聞いて十まで覚える」みたいな奴だ。
「川沿いにある大きなマンションですよね。家族で車でお出かけした時、前を通りかかったことがあります」
「ああ、いくつかマンションあるけど、多分峰岡だったら迷わんだろう。部屋は最上階の702号室だ」
それから二言三言会話した後、その日はコンビニの前で解散した。
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