39  そして新しい今日

 祭祀に戻って祝詞のりとをあげながらも、ついさっき起きたことが頭を離れなかった。

 悲劇の運命は変わり、マルテスは傷を負っていないし、私を殺すはずだった刺客も倒してしまった。


 これでもう良いのだろうか?


 漠然とした不安を抱えながらも、私の目の前で運命は新しい糸をつむぎ出している。

 あの夢の中ならばすでに私の死後になる世界が、目の前で当たり前のように過ぎていく。


 後半の祝詞はつつがなく詠み終わった。結局祝詞を全て詠み終えたあとも、川面の花は一つもほころばないままだった。

 だけど水面は輝き、私には祝福が川に満ちた実感がある。

 私はどうしても気になって、川面に一礼するふりをしながら少しでも近くで見ようと船べりに寄った。

 っと!


「きゃっ!」


 祝詞を詠み終え、川面に手を伸ばしたその瞬間、なにか重いものが私の後ろからドンっとぶつかってきた。


「祭女様!」

「フレイヤ様!」


 衝撃は思っていた以上に強く、驚きがすぐに恐怖にすり替わった。

 あっと思った時にはバランスを崩してブワリと川面が目前に迫り、すぐに上半身が水を打つ衝撃で自分が川に落ちたのを理解した。


「んぐぶぅーーー!!!」


 水の表面を突き破る感触を感じたと思った次の瞬間、目、鼻、口、全てから水が入り込んできた。なんの心構えもなく落ちたので反射的に少し水を吸い込んでしまう。

 喉の奥からゾッとするような苦しさと痛みがせり上がってきて、私は一気にパニックにおちいった。


 必死にもがき、手足をばたつかせ、なんとか上に向かって泳ごうとするのに、重い祭祀服が全身にまとわりついて思うように動けない。

 それでもなんとか一瞬だけ顔が水の上まで出たけれど、思いっきり咳き込んで息を吸う間もなくまた無情にも全身が沈み始める。

 それまでは無我夢中で手足を動かしてたけど、今度はしっかりと祭祀服が水を吸ってしまってその重みでもう上に上がることは出来なかった。 


 さっき川面に一瞬顔が出た瞬間、マルテスが鎧を外してこちらに飛び込もうとしてるのが見えた気がする。沈みゆく川の少し濁った水中でどこかでマルテスの歪んだ姿が見え隠れしてる気がする。

 だけど川底の流れのほうが早いのか、その姿もどんどんと遠ざかり、そして私は手足をばたつかせるのを止めた。


『フレイヤ様。愛しいフレイヤ様。どうか目をお開けください。我が命の君。輝く金星。私をおいてどこへ旅立たれようというのですか』


 マルテスの悲痛な叫びが少し離れたところから聞こえてきた。


 ああ、私死ぬんだわ。


 薄っすらと戻った意識がそうじんわりと認識した。

 でもマルテスは無事よね。ちゃんとこちらで転生できる。

 あれならちゃんとこちらで想い人と一緒になって、今度こそ幸せを掴むはず。

 それだけでも私の死には意味がある。


 死ぬ間際の苦しい息の下、苦しい胸の痛みと大いなる達成感を抱きしめて私は……


「いい加減にしろ!」


 バシャンっと大きな音がして、突然顔に水しぶきと凍えるような川風がぶつかってきた。

 顔に当たる水しぶきが痛い、などと頭の端で感じながら、私は盛大に咳き込でしまう。一旦息が戻ってくると、今度は体中が水の冷たさにガクガクと震え始めた。どうやら沈みかけていた私の身体をマルテスが水面に引きずり上げてくれたらしい。


 豪奢な刺繍のせいでずっしりと重い祭祀用のストーレはいつの間にか外されていた。内側に着ていたキトンの腰の辺りをマルテスがガッチリと掴んで私の顔を川面に浮かび上がらせ、私を引っ張りながら川岸に向けて泳いでいるようだった。


「君はなぜ自分で生きようとしない! 川で祭祀やるっていうのに現代で泳ぐ練習もしてなかったのか!」


 なにそれ、ひどい!

 今溺れそうになってた人間にそこまで言う1?


 文句を言いたくてもその間もない程あっという間にまた水に沈み込みそうになる。慌ててマルテスの肩に自分で縋りついた私は、嫌がらせに先輩マルテスの耳元で思いっきり咳き込み続けるのが精いっぱいだった。


 川岸に着くと沢山の人たちが駆け寄ってきた。だけどその人々の顔を見まわして、私は少なからず落胆した。

 無論心配してこちらを見る者が大多数の中、嘲笑を浮かべてる人や眉をひそめてる人の顔が幾つも見える。


「祭祀に失敗したからって飛び込まなくても」

「天罰なんじゃないの?」


 こそこそと囁く声が聞こえてしまった。言い返す元気もなく、私はマルテスに手を引かれて川面から身体を引きあげた。

 そのままやっと近くの石段にへたり込み、駆け寄ってきた女性が手渡してくれた布で身体を拭く。するとすぐに私たちの周りを取り囲んでいた観衆が二つに割れて、神殿長の礼服を身にまとったお父様がその場に姿を現した。


「祝福の祭女さいめよ。大丈夫か?」


 懐かしい父の顔は青ざめ、私を見つめるその優しい眼が間違いなく恐怖と心配で染まりあがっているのを感じたけれど、はっせられたその言葉は神殿長らしく非常に冷静だった。


「はい、神殿長。無事にございます」


 親子であろうと、私たちはこうして家の外では公の名で呼び合うことしかできない。私もありったけの愛情を込めて父を見あげながら、マルテスの手を借りて立ち上がり、その場で礼を取った。


「よろしい。では尋ねる。水の祝福の祭祀は滞りなく終わったか?」


 私にかけられた厳しいお父様の声に、私は一瞬ひるんでしまった。

 今、正に生死の境をさまよった私に、そんなことを聞く父の気持ちがどうしても理解できない。

 父は仕事に非常に厳しい人ではあったけれども、こんな状況でまでこんなことを問いただしてくるような人じゃなかった。


「答えなさい祝福の祭女。水の祝福の祭祀は正しく完了したのか?」


 戸惑う私に、だけどお父様がより厳しい口調で繰り返す。

 私は慌てて返事を返した。


「は、はい。例年と同じかそれ以上の祝福を捧げさせて頂きました」

「祝福の祭女よ。ならば、なぜ花がばぬのだ?」


 一層厳しい声でそう詰問する父を私は驚いて見つめ返した。


 どういうこと?

 お父様に限ってそんなことを聞いてくるはずないのに。

 たとえ誰が疑おうとも、お父様が私の祭祀を疑うなどありえない。

 だってお父様にもあの祝福を受けた川の様子が見えてるはず。


 なにが起きているのか分からず、でも公の場で父に詰問きつもんされて血の気が引いていく。答えも返せず凍りついてしまった私のすぐ横からマルテスが一歩進みだし、私を後ろに庇うように私の前で跪いて父を見上げた。


「テシ神殿長、こちらをご覧くださいませ」


 そう言ってマルテスがそっと懐から水にぬれた花のつぼみを差し出した。


「それがどうした?」


 お父様はそれに手をつけずに聞き返す。


「この蕾はこの通り……」


 説明しながらマルテスが手に持った蕾の上部を半分に割り、中をこちらに開いてみせる。


「……中に花がございません」

「なんと!」

「え!?」


 マルテスがよく見えるように差し出した蕾には、中にあるはずの花弁がひとつもなく、代わりになにやらポロポロと溢れる粘土のような物が詰まっていた。


「これは溶岩石の塊です。これならば水にも浮きますし簡単には崩れない。まったく非常に手の込んだ仕業です」


 真っすぐにお父様を見あげながら、よどむことなくマルテスが報告する。


「これ以上はソリス第二皇太子殿下にお尋ねされるのがよろしいかと存じます。今回、船以外全部・・・・・の準備をご用意くださったのは殿下ですから」


 そう言いつつ、マルテスが船から降りて桟橋のたもとからこちらを見ていたソリス殿下をキッと見あげた。川べりに集まった人たちも、やはり一斉にソリス殿下を見あげる。


「ソリス皇太子殿下は皆様もご存知の通り、フレイヤ様をめとろうと連日求婚していらっしゃいました。フレイヤ様を無理やり引退に追い立てるために今回の祭祀を邪魔されたのでは?」

「だ、黙れ! たかが騎士の分際で僕に罪を問うつもりか!?」


 スッと立ち上がったマルテスが川岸に立っている神殿を指さした。


「本日の祭祀に関わる者は小間使いから奴隷に至るまで、全てこちらで保護させて頂いています。川の上で花を投げ入れていた者たちは保護の際に激しい抵抗を試みたため、こちらで捕縛ほばくいたしました。それでもまだ言い逃れを出来るとお思いか?」

「クッ!」


 マルテスの用意周到な追求に、自分の不利を悟ったソリス皇太子が顔を真っ赤にして口を閉ざした。そこで、それまで二人のやり取りを静かに見守っていたお父様が、決着をつけるように静かな声でソリス皇太子に告げた。


「殿下。この件は私が預かりましょう。もし釈明がございましたらどうぞ皇帝陛下の御前でされるがいい」

「父に……奏上そうじょうするというのか?」


 皇太子殿下の驚いた顔を真っ向から睨みあげ、お父様がよく響く厳粛げんしゅくな声で言い放った。


「国の祭祀を乱し、祭女の恩恵おんけいに疑惑を植え付けるような真似を神殿長たる私がこのまま放置するとお思いだったのか? この国の豊かな恵みの恩恵を受けながら感謝を忘れ、あまつさえその祭祀を軽んじるなど、誰がしても皇帝の名に連なる者が取るべかざる愚行ぐこうですぞ」


 父の重苦しい声は一帯に響き渡り、その場が水を打ったように静まり返る。川岸に詰めかけていた人々が皆黙り込み、じっと父を見つめていた。

 皇太子を含め、父の言葉を聞いた者は誰一人として声をあげられない。

 そこでやっと私も状況を理解した。


 これは……お父様とマルテスによるデモンストレーションだったんだ。


 お父様は決して私の祭祀の行方を疑っていたわけじゃない。そうじゃなくて。

 この二人ったら、結託けったくして皇太子殿下ばかりかここに集まってる市井の一人一人にまでこの教訓をみ込ませるため、今、ここで、私をダシ・・に使ったんだ!


「マルテス、祭女を頼む。祭祀はこれで終了である。その恩恵は他国をむしば疫病えきびょうがこの国に手を出さねば自ずと知れることであろう」


 最後にそう付け足した父はチラリと私に悪戯いたずらっぽい視線を向け、あとは無言で来た道を戻っていってしまった。

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