Chapter 9 運命の日がやってまいります

35 とうとう祭祀が来てしまいます

「──貴方を愛しています」


 ポロリと言葉がこぼれ落ちた。

 目の前のマルテスがゆっくりと目を見開く。

 夜のとばりが下りた私の寝室で、私は生まれて初めて己の胸のうちを打ちあけた。


「マルテス、私はあなたを愛しています」


 受け入れられる場所などあるはずもない一方的な私のその言葉は、虚しく二人の間でこだまして、まるで風にユラユラと舞う木の葉のようにただ落ちていくはずだった。


 言うだけ言ってしまった。

 もう後悔はない。

 これで私は彼を解放してあげられる。


『貴方の想う人の元に行きなさい。私はいいから』


 そう続けるハズだった私の言葉は、綺麗にマルテスの唇の中に吸い込まれた。

 重ねられた唇の感触に我を取り戻してマルテスを見つめる。

 溢れ出す情熱をたたえた目で私をしっかりと見つめるマルテスが、閉じそこねた私の唇を何度も自分の唇でなぞっていく。

 彼の熱が皮膚を通して私に移り、身体の奥へと染み込んでいく。二人の間で生まれたその熱は、そのまま私の身体を熱く燃え上がらせた。


「貴方に触れることをお許しください」


 あふれるようにつむぎ出されたマルテスの言葉に頭がクラクラしてくる。迷子になるはずの私の告白は、マルテスから思わぬ答えを引き出してしまった。

 許されざるべきその問いかけに、私は迷うことなくうなずいてしまう。

 私の頷きを見た瞬間、歓喜と劣情れつじょうを燃え上がらせたマルテスの瞳の色が忘れられない……


 その逞しい胸に抱かれ、力強く抱きすくめられ、どこにも逃げ場のないその空間でマルテスの深い口づけを受け入れて──



「……ぃめさま、祭女様、どうなさったんですか? なぜ花が咲かなかったのです?」


 テントに戻った私の元に控えの巫女が数人駆け寄ってきて、心配そうに私を取り囲んだ。


「な、なんでもありません。まだ祭祀は半分しか終わってませんもの。これからです」


 そう言いつつも、私は内心あせりまくっていた。

 今までの祭祀ならば、これだけの祝福を送ったあとで花が開かないことなど一度もなかった。


 まさか、まさかあれが原因なの?

 マルテスとあんなことをしてしまったから──


 一瞬昨夜の一幕が脳裏を駆け巡り、目眩めまいを起こしそうになる。

 不安が胸を占領せんりょうし、緊張と恐怖で胃が締めつけられる。

 吐きそうになるのを意志の力でこらえながら、巫女の一人が持ってきてくれたお茶に手を付けた。


「……まあ、珍しい。こんな時期にフィネルのお茶なんて」

「ソリス皇太子殿下からの拝領品はいりょうひんです」


 ソリス皇太子もたまにはいいことをしてくれる。


 レモンにも似た爽やかな香りがカップから立ち上がり、緊張が少し和らいでいくのが感じられる。そのすがすがしい味に一息ついた私は、祭祀を再開するために立ち上がった。

 テントを抜けて、一歩進んだその瞬間。


 足がその場に凍りついた。 

 ドクンっと心臓が大きな音をたて、息が、詰まった。

 声が、出ない。


 なにもできないまま、音もなく私はその場に崩れ落ちた。

 床の上に横向きで倒れた私の視界には、板張りの船の甲板とそこに釘で留めらた出席者の座る椅子が並んでいるのが見えている。

 あとはその椅子に座る人々の足、足、足。

 そんな限られた視界の中、凄い勢いで駆けよってくる何人もの靴音がやけに耳に大きく響いて聞こえる。


「フレイヤ様!」

「フレイヤ様、どうなさったんですか?」

「お前、一体何をした!」


 すぐ近くで言い争う声が聞こえるけど、視界がどんどん曇ってきて誰が誰だかよく分からない。


「ワシを疑うのか! お前こそ、こそこそと兵を後ろで動かしていただろう!」

「誰か! テントの中でなにがあった!?」

「フ、フレイヤ様は今殿下に頂いたお茶をお召しに──」


 さっきお茶を淹れてくれた顔見知りの巫女の、今にも泣きそうな震える声に、ぼんやりと憐憫れんびんの情がく。


「ぼ、僕の!? そんなものをフレイヤ殿に差しあげた覚えはないぞ!」

「嘘をつけ、ワシに勝てぬと分かって貴様がフレイヤ様を殺そうとしたんだろう!」

「僕が! そんなことをするわけがない!」

「ええい、誰かこの第二皇太子を取り押さえろ、国の財産たる祭女様に毒など盛りおって!」

「おい、これをフレイヤ様に差しあげろ、皇帝家の秘薬だ。毒を抑えてくれるはずだ」

「貴様の持ち込んだものをこれ以上飲ませられるか。これを飲ませるんだ、ワシの国の毒消しだ、おいそこをどけ!」

「いい加減にしろ! 我が守護騎士の名において誰一人それ以上フレイヤ様に近寄ることは許さん!」


 ああ、マルテスの声だ……


 私を取り巻く混乱の中、マルテスの声だけがはっきりと聞こえた。

 ほとんど身動きもとれず、視界も限られている私にとって、その気高くも私を守ろうと張り上げられた彼の声だけが頼りだった。

 その声に突き動かされ、動きの鈍い身体を叱咤して声のほうを探るように手を伸ばす。その手に触れた彼の腕をすがりつくように握った。息はほとんどできず、意識もそろそろ危なかった。


「おい、気でも狂ったか? 守護騎士の分際で僕に剣をあげるとはどうなるか分かってるんだろうな!」

「剣をやたらに振り回すな! ワシに当たる! 誰かこの騎士を取り押さえろ」

「おい、そこの巫女、そのカップをこちらに寄こせ。……チッ、匂いがきつすぎて毒の匂いが分からん。ここにもう一杯入れろ」


 え! 待ってマルテスなにを考えてるの!


  私の恐怖をよそに、すぐ側でなにかを飲み下す音が響く。


「……これならば、これで」


 言葉と同時にマルテスの逞しい腕が私を抱きかかえ、私の顎をクイッと上向かせた。

 一体誰の薬が選ばれたのかは分からないけど、なにかどろりとした感触が口に含められた。呼吸もままならない中、なんとかそれを飲み下す。すぐにゆっくりと視界が広がり、目前にマルテスが私を覗き込んでいるのが見えた。


 そのことにフッと気が緩んだその瞬間……。

 見守る私の目前で。

 マルテスの後ろに立った男がゆっくりと手にした大剣を振り下ろした。

 ズブリっと、信じられない程絶望的な音が聞こえた。

 にもかかわらず、私を覗き込むマルテスは一瞬眉をひそめただけで表情一つ変えずに私を見てる。


「フレイヤ様。私の声が聞こえますか?」

「ま、ルテ、ス」


 毒が中和されてきたのか声が出始めた。

 けれど、代わりに目の前のマルテスの顔がどんどん色をなくしていく。


「祝福の出来ない祭女も一緒に殺しちまえ!」

「な、馬鹿者、やめろ!」


 視界に映らないどこかから怒声が上がり、ハッとマルテスが後ろを振り仰ぐ。すぐにそれをとめようとする誰かの声が追いかけた。


 そして。


 ブスリという音の代わりに、胸のすぐ横辺りに激しい激痛が走る。

 目の前のマルテスの顔が恐怖と怒り、そして深い絶望に染まりあがった。

 視線からマルテスの姿が消え、怒声と悲鳴が響く中、私はドクドクと流れ出す自分の血液の生暖かい感触を身体の下に感じていた。


 幸いというべきかどうか。

 身体を痺れさせている毒のおかげで痛みが鈍い。

 それでも、自分の身体が先端のほうから徐々に冷たくなり始めるのが分かってしまう。自分の命の火がゆっくりと、でも確実に消えていくのがジワジワと感じられる。


 怖い! いやだ! 死にたくない! 誰か、誰か助けて!


 そう叫ぼうとしたその瞬間。またもマルテスの顔が視界に入った。


『フレイヤ様。愛しいフレイヤ様。どうか目をお開けください。我が命の君。輝く金星。私をおいてどこへ旅立たれようというのですか』


 なぜだろう、突然恐怖が消え去った。

 目前のマルテスが私の分まで悲壮ひそうな顔でこちらを見てくれている。

 そしてこの言葉、このセリフ。

 どこかで聞き覚えがある。


 どこだったんだろう、あれは──




──チュンチュン


「夢、だったの、よね?」


 じっとりと汗に濡れた身体をベッドから起こしあげ、私は口に出してそう言わずにはいられなかった。


 信じられない程生々しい夢だった。

 心臓を締めあげるような恐怖の匂いも、身体の下に感じた自分の血液の感触も、まだそこに実感としてある気がしてる。


 新しい記憶だわ。

 そう、新しい夢の記憶。


 鳴り止まない鼓動を感じながら、もう一度今見た夢の内容を思い出してみる。

 今日、祭祀の日への転移を前にして、私はまた新たな自分の記憶を取り戻していた。

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