34 その日が来ます

 転移先で先輩マルテスとの別行動が増えたまま、とうとう春休みが始まった。


 春休みになっても私たちは毎日ちゃんと学校に通ってる。

 それどころか先輩は折角だからとそのまま一日中生活指導委員の仕事と勉強をしていた。


 まあ私も人のことは言えないのよね。

 今までの染みついた習慣で、一緒になって資格試験勉強にいそしんでいた。


 転移先では別行動してるからマルテスと過ごす時間は減ってるのに、春休みになってから今まで以上に先輩と一緒に過ごす時間が増えていた。

 最初の頃こそ私にちょっかい出してはからかっていた先輩も、最近はすっかりそんなそぶりは見せなくなっていた。

 飽きちゃったんだろうね。私をからかうの。

 でもその代わりにやたらとよく面倒は見てくれている。


「君は要領が悪いな。その資格はこちらを取ってから受ければ受講を半分減らせる。こちらは資格だけ取っても職務経験がなければ意味がないだろう、こんなもの取ってどうする気だ?」


 ……決してやさしいわけじゃないけど。


 それでも流石全教科トップの先輩は、私が受けようとしている資格試験はどの分野を見せても一通り知っていた。


「流石に言語学は君の方が強いな」


 私が今勉強しているドイツ語のゲーテ検定C2レベルの資格をみた先輩が独りごとのように言う。


「そう言う先輩だってもうB2レベルまでは取ってらっしゃるんですよね」

「ああ、だがC1はかなり時間がかかりそうだ」


 まだぶつぶつ独り言を言っている先輩に、私はずっと気になっていたことをボソリと呟いた。


「祭祀まで一週間切りましたね」

「ああ。あと六日だな」


 それまで真剣に資格試験の日程表を見ていた先輩が顔をあげ、片眉を上げながら少し難しい顔で頷いた。そんな先輩の仕草を見て胸が痛くなる。


 それは私が大好きだったマルテスと全く同じ仕草、同じ表情で。

 ここしばらく一緒にいるうちに分かってしまった。やっぱりマルテスはこの人の中に生きてる。見た目や噂に振り回されて、私がちゃんと見てなかっただけだ。


 物言いは以前、私に仕えていた時のように優しくはないけれど、私を気遣ったり私に話しかける彼はやっぱりどこかマルテスのままだった。


 胸が締め付けられる。今まで押し殺してきた感情が、最近少しずつ抑えきれなくなっていた。

 なんとか胸の内のそんな感情が透けて見えてしまわないよう、背を伸ばし、表情を引き締めて先輩に問いかける。


「その……『あの日』を無事にやり過ごすことが出来たとして、こちらに戻ってきたら先輩はどうするんですか?」


 私の問いかけに一瞬きょをつかれた先輩が、その瞳にほんの少しの熱を浮かべこちらを見た。でもそれは本当に一瞬のことで、すぐに綺麗に消し去ってしまう。


「君はどうするんだ?」


 ずるい。質問を質問で返された。


 かなり勇気を出して聞いたのに中途半端にはぐらかされた気がして、私はつい勢いで言い返してしまう。


「お見合いします」

「……は?」

「来週、お見合いの予定なんです。ちょうど『あの日』の次の日ですけど」


 拗ねてそう言った私の言葉に、先輩が顔から全ての表情を消し去ってこちらをじっと見つめてくる。その視線に耐えられなくなり、私は言葉を継ぎ足した。


「初めてなんですけどね、お見合いなんて。お父様命令で行ってきます」


 私の言葉に先輩は一体どんな顔をするのだろう。


 そんな不安と期待が入り交じったまま紡ぎ出した私の言葉を、だけど先輩は顔色を全く変えずに聞き流し、無言でこちらをジッと見る。


「……そうか」


 永遠かと思う沈黙のあと、やっとそう言葉を返した先輩の表情はとても冷たかった。同じ無表情なのに、能面以上に冷たい。

 厳しくも、悲しくも、ましてや温かくもない先輩の氷のように冷めきった黒い双眸が私を射抜く。


 聞かれたことにちゃんと答えた私が、なんでこんな目にさらされなきゃならないのよ。


 胸に突き刺さった痛みをそのままはね返すように、続けてたずねてしまう。


「そういえば先輩も婚約されてるんですよね。じゃあ先輩も会いに行けばいいじゃないですか──」


 なじるような私の言葉は、だけど突然バンっと音を立てて手元の本を閉じ、椅子を引いて立ち上がった先輩に遮られてしまった。

 思わぬ先輩の行動に驚いて凍りついたままの私を横目に睨みつつ、クルリと机を周って私ににじりよる。そのまま私の椅子のひじ掛けに手をついた先輩が、覆いかぶさるように私の顔を覗き込んできた。


「そんなこと聞いて、君はどうするつもりなんだ?」

「え?」

「僕に婚約者がいるのが不服か?」


 両側の肘掛けに手をついて私の逃げ場を完全に封じ込んだ先輩が、そのままどんどん顔を近づけてくる。


 マルテスの時には数回迫られたこともあったけど、こちらの館山先輩に面と向かってこんなふうに迫られたことは今まで一度もなかった。最初の転移の時にからかうようなことをした、あれっきりだ。

 近づいてくる先輩の瞳が暗く輝きながら熱を持つ。さっき一瞬で押し隠された熱が、今はさえぎる物もなく真っ直ぐに私に向けられていた。


「君はなにも分かってない。……分かろうとしてくれない」


 ささやくように私に告げた先輩の顔がそのままゼロ距離まで近づいて、その言葉の真意を問い返そうとする私の唇を塞いだ。

 重ねるだけの、優しいキス。

 それなのに、胸が切なく高鳴り始める。


 先輩が私にキスしてる……


 現実に起きてることなのに、なぜか遠い世界のことのように感じる。

 いつの間にか閉じてしまっていた目を薄っすらと開くと、そこには苦しそうに歪んだ先輩の顔があった。


「君は僕を追い詰めるのがいつも上手だね」


 近距離で見つめる私に気がついて、瞳に暗い光を揺らした先輩が自嘲気味に返す。


「今日はもう帰れ」


 吐き捨てるようにそう言った先輩は、呆然と見つめ続ける私の視線を断ち切るように顔を背け、そのままなにごともなかったように部屋を出ていってしまった。



 そのまま静かに、けれど重苦しく毎日が過ぎ去っていった。

 あれっきり、先輩はなにごともなかったかのように毎日を過ごしてる。でも、以前とは違って余計なことを一切言ってくれなくなった。

 その様子を見れば、先輩が静かに怒ってるのは明らかだった。

 私も先輩を刺激しないように気をつけながら、転移先ではできうる限り自分の行動や周りの様子に気を配ってきたんだけど。


 残念ながら、新しいことはなにも分からないまま時間は容赦なく流れ、祭祀を明日に控えた今日の日が終わろうとしていた。

 結局、誰が私を殺そうとしてるのかは分からずじまい。

 疲れ切ったまま転移を終えて生活指導室に戻ってきた私は、先輩に支えられながら言葉もなく部屋の中心に立ち尽くしていた。


「これが終わったら君はお見合いだな」


 ここ数日私との会話を避けていた先輩が、突然ぼそりと呟く。

 明日の祭祀のことを考えていた私は、一瞬、先輩の言っている意味が分からなかった。


「上手くいけばいいね。今の君は自由なんだから。まあ明日、君が死ななかったらそのあとは分からないけど」


 先輩が少し顔を背け私を見ないでそんなことを言う。


「先輩も婚約者さんにお会いしに行けばいいじゃないですか。先輩だって、もう私の面倒をみる必要はないんですし」


 あんまりといえばあまりの先輩の言葉に、つい私もそっぽを向いてそんなことを言い返してしまった。言ってしまってから後悔する。後悔するけどすでに遅い。

 それでも恐々と先輩を振り返れば、心が冷え切るような寂しそうな笑みを浮かべてこちらを見ていた。


「そうだな。君の言う通り、僕も自由だ……」


 自分で突き放したクセに、先輩にそう言われた途端、私の中に絶望が広がった。


「さあそろそろ帰るとしよう」


 そう、静かに告げた先輩と別れて、私はお昼も食べずに帰途へついた。



 どこをどう歩いたのかも思い出せないまま家に帰りついた私は、自分の部屋に戻ってからも最後に見た先輩の寂しそうな笑みが忘れられなかった。

 脳裏に繰り返し先輩の顔が浮かんでは消え、私の胸をきゅうきゅうと締めつける。

 昼間の自分の言動への後悔が押し寄せては胸がはちきれそうになって、とうとう勝手に口をついて言葉がれた。


「せめて、せめて自分の気持ちを言葉にすればよかったのかな」


 誰もいない自分の部屋で口に出して言ってみた。

 言った途端、涙がこぼれた。


 ただ一言、本当は好きなのだと。

 せめて自分の想いを伝えれば、たとえ先輩になにを言われても私はこんな後悔はしなかったはずだ。

 ずっと胸に秘め過ぎて、行き場を失ってしまった私の想い。


「貴方が好きです」


 小さな声で呟いてみた私の孤独な告白は、誰もいない部屋に空しく響いた。


 先輩だろうとマルテスだろうと変わらない。

 たとえ姿が変わっても私が好きなのはあの人だ。


 やっと自分自身で認めてあげられた自分の気持ちに、私は涙が止められなかった。


 やっと認められたのに。

 明日を超えたら、全て終わる。

 終わってしまう。

 先輩にはもう私を面倒みる責任はない。それだけなんだ。


 いつまでも流れ続ける涙を枕にしみ込ませながら、私はいつしか眠りについた。

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