28 あれはなんだったんでしょうか?
マルテスのお兄様にご挨拶だけして、そのまま私たちはお屋敷をあとにした。
帰りの馬車の中、マルテスは始終考え事をしていて一度も私と目を合わせようとはしなかった。
家に戻り、侍女たちが私の装身具を外して軽い水浴びをさせてくれてる間中、私は自分の中で起きた変化が周りの目に見えてしまうのではないかと気が気じゃなかった。マルテスにされた行為はそれほどまでに私の心を揺さぶっていた。
身支度を終えて自室に戻るとマルテスがそこで待っていた。
本来マルテスがこんな夜遅くに私の部屋に来ることはないのだけれど、今日はまだ話すべきことがあるのだから当然だ。
くつろいだ夜着に着替えさせてもらった私が部屋に入ると、窓際の長椅子に座ったマルテスがゆっくりとこちらを振り向く。月光に照らし出された波打つ黒髪が、まるで銀色の糸を掛けたように輝いて見えた。その姿に自分の胸が勝手に高鳴ってしまうのを、私はもう止めようもなかった。
「疲れたか」
長椅子から立ち上がった先輩マルテスが、少し気づかわしそうに私のところに歩みよる。
「いえ、今日は
「そう言うわりに足元がふらついてるな」
言われた通り、確かに少し立ち眩みがしてる。
「普段やりつけないことを色々経験したからな。精神的に疲れたんだろう。このまま転移をするのは辛いか?」
すぐに先輩マルテスが手を差し伸べて私を支えてくれる。触られたところからマルテスの肌の熱が感じられて勝手に身体の中心が熱くなってくる。それを無理やり押し込め、平静を装いながらなんとか返事をした。
「いえ、大丈夫です」
先輩マルテスに軽く寄りかかるようにして部屋の中心へ進むと、先輩マルテスが私を必要以上にしっかりと抱き寄せる。
「祝福を……頂けますか」
抱き寄せられ、窓を背にして表情の見えないマルテスの、そう呟くかすれた声が頭上から降ってきて。胸の高鳴りが激しくなり、息が詰まる。
通常、祝福を健康な人間に授けることはしない。出来ないわけではないけれど疲れる癖にほとんど意味がないからだ。だけどそこには別の意味がある。
親愛の情を込めて。愛情を込めて。尊敬を込めて。
家族へ、愛する者へ、親しきものへ。
健康な相手に祝福を送るということはそういう意味になる。
先輩は、ずるい。今私が祝福を授けても転移に必要だからといえてしまう。
それは先輩にとっても私にとっても、どちらとも取れる言い訳。
それでも。
私は目の前に立つ彼に身を寄せて、全身から
∮ ・ ∮
突然、昼の生活指導室に立っている
すぐに気が付いた館山先輩が私を支えてくれる。
ふと、それがマルテスの手と重なった。それは日本人の館山先輩の手のはずなのに、まるっきり違和感も嫌悪感もわかない。それどころか愛おしくさえ思えてしまう。
「大丈夫か」
そう言って私を覗き込んだ先輩の瞳に、私はマルテスと同じ感情の動きを見てしまった。ジッと見つめている先輩の瞳が揺れて、ほんの少し私を支える腕に力がこもって。
キスされる、一瞬そう思ったのに。
すぐに頭を振った先輩は私を椅子に座らせ、部屋の隅にあるキッチネットでお茶を入れてくれた。私のすぐ横に自分の椅子を引き寄せ、顔を覗き込む先輩の目からは、先ほど私が感じてた情熱の名残が綺麗さっぱり拭い去られていた。
「気分は落ち着いたか」
「はい……でも先輩……」
「すまない」
「え?」
「さっきのことは忘れてくれ。君を困らせるつもりはなかった」
『さっきのはどういう意味だったんですか?』
私がそう尋ねる前に謝罪されてしまった。
この謝罪はどういう意味なんだろう?
私に無理やり迫ったことを謝ってくれてるんだろうか?
それとも私にした行為は気の迷いだったということだろうか?
私に祝福を欲したのが間違いだというのだろうか?
どうとでも取れる先輩の謝罪をどう受け止めていいのか悩んでると、私がなにかを言うよりも早く先輩がふっと私から視線を外し、吹っ切るように大きく一息ついてから私に宣言した。
「君も落ち着いたようだし反省会を開くぞ」
「へ?」
「反省会だ。昼を食べたいなら弁当を出せ。食べながら進めるぞ」
そう言って立ち上がった先輩はさっさと椅子を戻して、部屋の真ん中に置かれた大きな机の向こう側に戻ってしまう。
仕方なく私も持ってきたお弁当を二人分机に乗せて椅子を引き寄せた。
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