後編
6.
京都は歴史上、鬼が出やすいとかなんとか。
そんな詳しい話は知らないけれど、とにかく鬼に関して一条橋が有名なのは、かろうじて知っていた。
けれど悲しいかな、何事にも金銭的理由というものがありまして。
「だからって四条大橋かよ。それもどうかと思うぜ? スグっち」
「なんとでも言ってくれ。元はといえば君が一文無しなのが悪い」
祇園四条駅から橋を渡った先のファーストフード店で、ハンバーガーを頬張りながら彼女が呆れた顔をする。
ちなみにチーズバーガーのセット×2。安いように見えるが、ここまでの交通費と帰りの交通費のことを考えるとこれでも大奮発しているのである。これで僕の小遣いはほぼ底をついたのだが、たまにはこんな日もあっていいだろう、と考えておく。
これを別の言い方をすれば、自棄になった、である。
「せめてもっと気の利いたところにしろよな。五条大橋とかさぁ」
「五条大橋? あぁ、義経と弁慶だっけ。それなりに大きな橋ならどこでもいいと思ったんだけど……あれ、もしかして君たちのような鬼って歴史と関係あるの?」
そう聞けば、彼女は即座に首を横に振って返事をする。
「ねぇよ。歴史なんてクソ食らえだ。オレら『殺人鬼』には鬼避けの結界なんざ効かねぇしな。けど、四条大橋はいただけない」
「なんでだよ?」
「カップルが多い」
「……」
物凄く個人的な理由だった。確かに、四条大橋の付近って、なぜだか知らないけれどカップルが目立つんだよな。鴨川にカップルが集まるのと同じように。
僕としても四条大橋に特別な思い入れがあったわけではなく、とりあえず大きな橋と考えた挙句に思いついたのが過去に何度か遊びに来たことがあったここだった、というだけなのだった。この辺りって何か神社とかあったかな? と考えてしまう辺り、京都在住として僕はもう少し地元から歴史を習うべきなのだろう。
まぁそれは、今は置いておくとして。
「で? どうするつもりなんだスグル。まさか、お前が兄貴と一騎打ちとか?」
「いやまさか。格闘技なんて体育の柔道ぐらいしかやったことのない僕が、あんな奴に戦いを挑むなんて正気の沙汰じゃないことぐらいわかってるよ……そうだな、とりあえず、話し合ってみるかな」
言いながら、僕はポテトに手を伸ばす。おかげで彼女が「は?」と声を上げた時の表情を見逃した。
「話し合いって……まさかお前、兄貴が話し合いごときで引き下がる野郎だとは思ってねぇよな?」
「思ってるよ。戦闘反対、平和大好き、家内安全ってね」
「いや、家内安全は違うだろぅが」
彼女は呆れつつオレンジジュースを飲み干した。僕も丁度バーガーを食べ終わり、残すはポテト数本だけとなる。
時刻はもうすぐ午後5時になろうとしている。夕食までの腹の足しとして食べに来ていた客も減り、それまで賑やかだった店内が静かになってきていた。彼女は自分の分をあらかた食べつくした後、気だるそうにこちらを見やる。
「けどさぁ、大丈夫なのか? 昨日の調子じゃぁ兄貴のやつ、たぶん出会った瞬間に仕留めにかかるんじゃねぇかなぁ?」
「え……マジですか?」
それは、想定してなかったな。
そうだ、思えば昨日だって多少の話はしたものの、まったく会話になってなかったじゃないか。というか、僕よりも辛うじて会話が成立していたのはサキの方だ。これだと話し合いの場を作る方が大変なんじゃないか? うわぁどうしよう、話し合いの内容ばかりに気を取られて一番大事な部分を考えていなかった!
にわかに慌てだす僕。彼女の心底呆れた表情がなんとも心に痛かった。
「スグル。お前、バカだろ」
「ごめんなさい……」
うーん、困った。
さっきも彼女に言った通り、僕ができる格闘技といえばせいぜい体育で習う柔道ぐらいである。しかも成績は決して良くはなかった。そもそも、運動神経そのものに危機感を感じる文系男子なんだよ、僕は。
こうなってしまえば、もう選択肢は一つしかなかった。
「サキ……」
「却下な」
まだ何も言っていないのに即答されてしまった。うぐっと思わず声を詰まらせそうになったが、なんとか僕は縋り付く。
「いや、そこをなんとか……」
「兄貴からお前を守れって? 昨日のオレと兄貴の戦いぶりを見ただろぅが。オレじゃぁ、兄貴には敵わねぇよ」
僕から見れば二人とも強いと思うのだが、どうやら実際にナイフを交えた本人にとっては全く力が及ばなかったと考えているらしい。腕を組んで唸るっているところから見ても嘘ではないらしい。ならば、彼女にも頼れないとなると僕はどうしたらいいのか。
しかしその自問自答には彼女の呟きによって解消された。
「けどまぁ、兄貴に一撃も与えられなかったのは、ちょいと悔しいかなぁ」
「え? じゃあ……」
俯きそうだった顔を上げれば、彼女はニヤリと挑発的な笑みを浮かべていた。
そして言う。
「それに、オレのせっかくの獲物を横取りされるのは癪だしな」
×××
昨日の失敗はすぐにダガーを抜くことができなかったことだ、と彼女は力説する。となると、彼女のダガーはベルトにぶら下げたままにする必要があった。けれど、四条大橋の上はあまりにも人が多く、おまけに交番がすぐ近くにあったりするので、銃刀法違反で通報されないように何とか隠さないといけない。
そんなわけで話合った結果、僕らは橋の上で仲良く肩をくっつけてダガーを背中に隠しながら待機することになった。
「これぞ『仲良しカップル』作戦だぜ!」
「いや、せいぜい男友達同士のじゃれあいぐらいにしか見えないんじゃないかな」
「なんだと?! オレ、女の子なのに!!」
と、そんな会話をしながら。
本当ならば橋の下にしようと思ったのだが、彼女曰く、橋の上がいいとのことだったので僕らは橋の上の中腹辺りで並んで立っている。理由を聞けば、「橋の下にいる人たちに迷惑だろぅが」という。
「橋の上の方が迷惑だと思うんだけどな……」
「心配すんなって。昨日のもそうだけど、兄貴の結界はそこらの人避けの結界じゃ比べようもねぇぐらいに精密なやつだからさ。たぶん大丈夫だと思うぜ?」
と彼女は言うのだが、昨日は周りに人がいなかったのだから現時点では比較のしようがない。僕は腕時計を確認する。
もうすぐ午後6時を回る。そろそろ夕刻である。この時間帯は黄昏時ともいうし、鬼が出るならそれなりに良い時間帯だと思うのだが、橋の上は見渡す限りの通行人で賑わっている。あの『京都連続通り魔事件』もゴールデンウィークに入ってからというもの音沙汰なしであるから、ここぞとばかりに連休を楽しんでいる人が多いのだろう。
そりゃまぁ、犯人は現在活動停止中で、僕の隣で欠伸なんてしてるぐらいだしね。
「えーと……寝ないでね、サキ」
「こんな人通りが多いところで寝たりなんかしねぇよ。いつ何時背中を刺されるかわかったもんじゃねぇしな」
とは言うものの、彼女は眠そうに目を擦っているのだった。僕は苦笑しつつ、視線を前へと戻した。たくさんの人が右へ左へと流れていく。その中に、待ち人の姿はまだ見当たらない。
(獲物、か)
彼女の言葉を思い出した。あの時、彼女は笑いながら言っていたが僕には引っかかる言葉だった。
やはり彼女は、僕を殺したいのだろうか。かなりおぼろげだが、彼女に初めて殺された時、彼女は僕のことを「一人目」だと言っていた。だとしたら……
「ねぇ、サキ……」
「聞きたいことがあるなら後にしな……それより、来たぜ、スグル」
リン――という鈴のような音。
ハッとして、前を見た。
気付けば回りに人はいない。何も聞こえない。
いや、誰かが、そこに。
「――よぅ、『異常者』」
目の前に人影。
紅色の瞳が見えた時には、もうすでに、銀色の刃はすぐそこに迫っていた。
「お前を、殺しに、来たよ」
「っ?!」
自分の首もとに刃が迫っていくのがわかる。避けることができない!
だがその刃は別の刃がぶつかることにより僅かに軌道を変え、ぱっと僕の髪が数本切られるだけに終わった。おそるおそる視線を少し下げれば、彼女の手に握られたダガーが夕日の中で光っているのが見える。
「やぁ兄貴、昨日ぶりだな。けど、ちったぁ急ぎすぎやしねぇか?」
僕の横で、ダガーでナイフを弾いた姿勢のままに彼女が言う。その顔はニヤリと好敵手に再会したように笑っていた。僕は止めてしまっていた息をなんとか吐き出し、うるさい鼓動をなんとか静めようと荒く呼吸を繰り返す。そして視線を前へと戻せば、そこに、あの少年――ユウがいた。
「あーあ……へー、そうか。なるほど、これは面白いな……ソイツを守るのか、我が妹?」
「まぁね、こいつに頼まれちまってさぁ。それに、ちょいとばかし宿と飯の恩義もあるしな」
「ふーん、恩義、か。確かに、恩は返すのが礼儀だ。『殺人鬼』でもない限り」
「あぁ。オレはこのとおり、まだ『殺人鬼もどき』だから、恩は返さねぇとな。ということで」
ダガーを手元でくるりと回転させ、彼女は一歩踏み出す。「サキ……」と声をかけたが、もう遅い。彼女は瞬時に少年の間合いの中へと入り込んでいた。
「楽しもうぜ、兄貴! 殺し合いをさぁ!!」
ダガーが橙色の光を浴びながら軌道を描く。だがそれは軽く避けられ、代わりに少年のナイフがすばやく弧を描く。それを、彼女は軽く身をよじることによって一撃を免れ、その勢いのままに少年の腹へと蹴り上げを繰り出した。
しかしそれも避けられる。二人はそれぞれ後ろへと飛び、お互いに距離を取り直した。
「ちっ……一撃も当たりやしねぇ。やっぱり実力で劣るか」
彼女の呟きが聞こえた。そこで僕はハッと我に返る。
二人の戦闘を眺めている場合じゃない!!
「サキ! 話し合いの場を作るって約束だっただろ、なんで戦っているんだよ!」
「あぁ? 今いいところなんだよ、邪魔すんじゃねぇよ」
うわぁ、約束破棄だ! しまった、戦闘になった場合にサキをどう止めるかも考えておくべきだった!! このままではろくにユウと話し合いなんてできない!
と、ユウを見れば、意外にも彼はこちらへ顔を向けていた。効果音をつけるなら、きょとん、という感じに。
「へぇ。話し合い? この俺と、話し合いって?」
「え、あ……う、うん、話し合いをしたいんだ」
思わずどもってしまったじゃないか。こちらも呆気に取られつつ、おそるおそる頷いてみれば少年はスッとナイフを持つ腕を下げ、いとも簡単に構えを解いてしまった。
そんな少年の態度に、逆にこちらが気後れしてしまう。とりあえず、今は敵対心を失くす事が先決だろう。彼女へと視線を向ければ、サキは不機嫌そうにダガーを持っていた腕を降ろしてくれた。
「ちぇっ、まだ一撃も当ててねぇのによ。仕方ねぇなぁ」
「ごめん……ありがとう、サキ」
彼女の戦闘意欲が落ち着いたのを見届けて。ようやく僕は、周りの状況を把握することができた。
時刻は6時を少し回ったところ。いつもなら帰宅ラッシュでますます人が増えてくるはずなのだが、辺りには僕と彼女、そして少年以外に人影すら存在しない。橋のすぐ下を流れているはずの鴨川の水音すら聞こえないところを考えると、おそらくこれが彼女の言っていた『比べようもないぐらい精密な結界』というやつなのだろう。よく見れば沈みそうなあの太陽もどこかぼやけているような気がする。もはやこれは結界というより、別の世界に迷い込んだような感覚だ。
改めて、いや、初めて僕は真正面から少年を見た。
全身黒ずくめで、ぼさぼさの髪も漆黒の色。唯一色鮮やかな紅色の瞳は、伸びた前髪の間から辛うじて見えるぐらいで、左目は特に隠れてしまって色さえ見えない。こうして見てみれば、少年は以外と小柄だということがわかる。そして表情は、昨日と同じように偽物じみた笑顔を浮かべていた。
「ふーん。昨日とは、覚悟が違う。厄介だな。アンタ、俺の何を知った? 知らない方が、殺しやすいのに」
少しも困った様子を見せずに少年は言う。どうやらこちらの考えはお見通しのようだ。僕は心を落ち着かせるために、一つ息を吐き出した。
「サキから君のことを聞いたよ。施設のこととか、名前がなかったこととか。それで思ったんだ」
怖気づいてなんかいられない。
僕は強く、言葉を口にした。
「僕は、まだ、死にたくない」
途端、少年は声に出して笑い出す。場違いなものを嘲笑うかのように。
僕はなんとか口を閉ざす。ここで反抗しては駄目だ。ぐっと言葉を飲みこみ、少年を見つめる。彼は歪んだ笑顔をそのままに、楽しそうに僕を見つめ返してきた。
「はは、そうか。予測はしていたけど、まさか、そう来るとは思わなかったな。へぇ、それで助かるだなんて、思ってないんだろ? アンタは」
「まぁね。これで助かるぐらいなら、僕は昨日、君に殺されることもなかった。そして、こうしてまた君に狙われることもなかったわけだ……こんなことで助かるだなんて考えてないよ。だから、ちゃんと考えてきた」
もちろん、理由はちゃんと考えてきた。
いや……考えてくる、という行動自体がおかしいことはわかっている。人は理由がなくても生きていける生き物だから。けれど、そこに理由が求められるのならば。
僕が生きる理由は。
「『殺人鬼』だからと言ったって、やっぱり『人殺し』はいけないことだ。人であり続けたいのなら、人を殺してはいけない」
そして、僕は彼女へと目を向ける。それだけで、サキは僕の言葉の続きがわかったらしい。目を丸くしたかと思えば、珍しくその表情に焦りを滲ませた。
「スグル、お前まさか……」
「そのまさかだよ、サキ。僕は君を『殺人鬼』なんかにはさせない。僕がこの世界から亡くなることで君の最初の殺人が完成してしまうのなら、僕は死ぬわけにはいかない。だから」
再び、少年へと視線を戻した。
彼は偽物じみた笑顔のまま、僕の言葉を待っている。その笑みに向かって、僕ははっきりと告げた。
「僕は生きたい。それが、僕が生きる理由だ」
少年の笑みが深まった、ような気がした。
彼女が何かを言いたそうに、けれど何も口にできずにいるのを視界の端にとらえながら、僕はユウの返事を待つ。言いたいことは言った。あとは、彼の応答次第だ。それによって、僕の運命が変わる。
やがて、彼は口を開いた。
「生きるための理由を、他人に求める、か。あはは、俺はそういうの、嫌いじゃないよ。まさに人間らしい考え方だ。『人間を辞めた鬼』の俺からしたら、それは羨ましいぐらいに……ふーん、そこまで生きていたいのか、『異常者』?」
「僕は異常じゃない。少し死ににくい体だからって、それがどうしたっていうんだ。僕は今まで生きてきたんだ。その人生を、簡単に否定することは許さない」
この世界に生まれてから今まで、僕は生きてきたのだから。怠惰で無意味な人生かもしれないけれど、それでも、僕は。
「僕は、この世界が好きなんだ」
そう告げた瞬間、パリン、と小さく何かが割れるような音が聞こえた気がした。
頭上を見上げれば、昨日のように穴は開いていないが橙色の空にガラスのヒビのような線が入っている。ぎょっとして見ていると、今度は小さな拍手の音。少年が笑顔で溜め息を吐きながら手を叩いていた。
「あーあ。これだから、獲物が知識をつけてしまうと困る。そんなにも強い意志を持ってしまったら、たかだか『世界の代行』として来ている俺なんかでは、手出しができなくなってしまう。さて、どうしたものか」
独り言のように呟いた彼の声は、この状況を楽しんでいるように弾んでいる。そんな少年の背後で、空間にまた一つヒビが入った。やがてヒビは辺りへと広がっていく。少年はそんなことには気にも留めない様子で、僕へと笑顔を向ける。
「じゃぁ、こうしよう。今はアンタの意思を、尊重することにする。けれど、生き物は必ずどこかで、死を迎えなければならない。世界はそうやって秩序と運命を保っているのだから。だから、いつかはまた、こうして殺しに来よう」
今やヒビは結界全体へと行き渡り、今にも崩れ落ちそうに風景を歪ませている。夕焼け空なんかは、もう色がわからいほどにズタズタだ。
そんな中、少年は僕の未来を。僕のこれから先の死を予言する。
「次に会った時は、アンタを殺す。それまで……そこの『殺人鬼もどき』を『人間』に還すことができたなら、せめてもの礼だ。死に場所ぐらいなら選ばせてやるよ」
リン――
そして、結界は崩壊した。
×××
気がつけば風景はもとに戻り、僕は人で溢れる橋の中腹に立っていた。
「終わった……のか……?」
辺りを見渡す。少年の姿はない。空はいつの間にか夕焼けの橙色から夜の群青色へと色を変え、あちこちで電燈が眩しい光を放っている。車が走る音、どこかで始まったストリートライブの音、そして人々のざわめきの中に、先程までの張りつめた空気は感じられない。戻ってきたのだ。あの結界の中から。
そう実感すると共に、気づいたことがあった。
「あれ、サキ?」
彼女の姿が見当たらない。あの目立つ銀髪が隣にはなく、橋の上に戻ってきたのは僕だけだった。
暫くその場で彼女を求め歩いたが、結局見つけることができず。
そうして僕は一人、家路についた。
7.
彼女が帰ってきたのは、深夜になってからだった。
「……」
ズシリ、と体に重みを感じた。と同時に、首元に冷たいモノが宛がわれるのを感じ、僕はゆっくりと瞼を持ち上げる。
照明を消した暗い自室。入り込むのは月光のみ。疲れてベッドに横になっていた僕の体は動かない。それもそのはずで、僕の上には彼女が圧し掛かっていて、彼女の手は僕の首へと伸びていた。
その手に持っているのは、おそらく彼女愛用のダガーだろう。そう直感的に理解し、僕は彼女を見上げる。その表情は、暗くてよくわからない。
「サキ……そのまま、何も言わずにどこかに行っちゃうのかと、思ったよ」
彼女に話しかけてみる。自分の声は、驚くほど落ち着いて聞こえた。と、彼女が顔をあげ、わずかにその表情を覗かせる。
彼女は微笑んでいた。
「わりぃな、スグル。ちょいと兄貴と話し込んでてさ。今帰ったところだよ。なんだ、心配してくれたのか?」
「まぁね。なんせ、隙あればユウに切りかかってもおかしくない状態だったからさ。僕がいない間に一戦交えてたらどうしよう、ってね」
「んんー、その予測は当たらずとも遠からず、だぜ。お前の想像通りにもう一戦やったんだけど、結局兄貴には勝つことができなかった。やっぱり実力の差、かな。悔しいなぁ」
クツクツと彼女は笑う。僕も笑い返そうとしたけれど、首を少しでも動かせば宛がわれている刃の冷たさが嫌でも肌に伝わる。笑うのをやめて彼女を見上げれば、彼女も笑顔を消して僕を見下ろした。
「なぁ、スグル……なんであんなこと言ったんだ。オレを……このオレを、『殺人鬼』にはさせない、なんてさぁ」
パサリ、と銀色の髪が落ちて再び彼女の表情が見えなくなる。僕はそんな様子を眺めながら、静かに答える。
「君は、『殺人鬼』には、向いてないから」
「……。なんでだよ。昨日、話しただろ? おれは『殺人鬼』になるために……」
「でも、君は優しいから」
首元の刃が一瞬震えた。
それを敏感に察知しながら、僕は彼女を見つめたまま言葉を続ける。
「『京都連続通り魔事件』だってそうだ。犯人は『通り魔』なだけで、一度も人は殺されてない。しかも、その被害者たちは重症というわけでもなく無事に回復してきているって、ニュースでやっていたよ」
彼女が僅かに息を吐く。おそらく、安堵したのだろう。すぐに我に返ったらしく顔をそらした彼女だったが、僕は見逃さなかった。やっぱり、と心の内で呟く。
「君は自分を『殺人鬼もどき』だなんていうけれど、その割にはまだ、たったの一人も、殺せていない。だから、君は『殺人鬼』にはなれないよ。きっと、これからもずっと」
なぜなら、殺したはずの僕がこうして生きてしまっているのだから。彼女が『もどき』から本当の『鬼』になるための最初の殺人は、僕が死なない限り完成されないのだ。
それに、彼女は優しいから。
「本当は、『殺人鬼』になることに迷いがあるんじゃないのか? だったら、まだ間に合うよ。僕は……」
「うるさい……うるせぇよ、スグル……っ」
再び月光の中にさらされた彼女の顔は、今にも泣き出しそうな目をしている。この3日の間で、初めて見た表情だった。
ダガーを持っている彼女の手が震えているのがわかる。僕が口を閉ざして見上げていれば、やがて彼女は泣きそうな目はそのままに、無理に微笑んで見せた。
「時々さぁ……お前みてぇな奴が羨ましくなるんだ。この世界のことが好きで、それだけで生きていけるような、そんな奴が」
すっと、彼女が体を起こした。同時に首元からダガーを握っている手が退けられる。それでも僕は体をそのままに彼女を見上げていた。そんな僕に、彼女は小さく笑い声をもらす。
「オレにお前のような生き方は、たぶんできない。でも今のままだと、オレは『鬼』にもなりきれずに生きていく居場所を失くすんだ……なぁ、教えてくれよ。オレはどうしたらいい?」
「『人』になればいいよ。そうしたら、僕が居場所を作ってやる。あぁ、でも養うには金銭的にまだ無理だから、せめてあと5年ぐらいは待って欲しいな」
「あはは、そっか……まったく。お前ってば、案外お人よしなんだな。そんなんじゃぁこの先、苦労するぜ?」
「なんだ、今更わかったの? これでも学校ではお人よしで有名だったりするんだけどな」
ようやく僕らは笑いあった。深夜の静けさに二人分の声が響く。彼女はひとしきり笑った後、見せるようにダガーを僕の前に向けた。
「スグル。今のオレなら、お前を殺せるかなぁ?」
「無理だね。もうふっきれた、って顔をしているよ、君。それに、僕は君のために死ねないからね。簡単には死んでやらないよ」
この言葉で、彼女は満足したらしい。ギシリとベッドを軋ませながら床の上に降りると、扉へと歩いていく。
「サキ。君はこれから、どこに行くんだ?」
「さぁな。オレにはもとから目的地なんてねぇし。『殺人鬼』になるっていう目標も、お前のせいで叶わなくなっちまったしなぁ。とりあえず、気が向くままに彷徨ってみるさ」
彼女はもう僕の方を見ない。
だから僕も体を起してその後ろ姿を追うことはしなかった。そして、最後に彼女へ別れの言葉を投げ掛ける。
「それじゃぁね、サキ。また会おう」
「じゃぁな、スグル。また会いに来てやるよ」
パタン、と呆気ないほどに軽い音で扉は閉められた。
部屋に静寂が戻ってくる。耳が痛くなるようなその静けさに、僕は生きていることを確認するように長く息を吐き出してから、再び瞼を閉じて眠りについた。
×××
ゴールデンウィーク、最終日。
この日は僕にとって大事な一日となった。
高熱を出して寝込んだのだ。
幸いにも、両親は予定よりも早く帰ってきてくれた。帰って早々に僕の青白い顔を見て驚き、慌てて解熱剤を用意してくれたのだ。ということで僕は今、薬を飲んで毛布に包まっている。
あの血だらけになってしまった服を隠しておいてよかった。処分に困ってとりあえずベッドの下に隠しておいたのだけど……熱が引いたら改めて処分方法を考えよう。見つかったら言い訳に困るし……なんて、ぼんやりする頭で考えながら、僕はこのゴールデンウィーク中の出来事を振り返っていた。
変わってしまった自分のこと、死を予言した少年のこと。
そして、彼女のこと。
結局、僕は死を免れてはいない。ただ死が先延ばしになっただけだった。最後に少年が言ったように、彼はいつか再び僕の前に現れるのだろう。そして僕に死をもたらすのだろう。どんな方法か、それはわからず仕舞いになってしまったけれど。
あぁ、思い返してみれば、なんだか記憶全てに霞がかかったようで、まるで酷い悪夢だったように思えてくる。彼も彼女も、本当は存在しないんじゃないか、だなんて思ってみたりして。僕の身に降りかかった出来事なんて、僕の異常だって、実は全て夢だったんじゃないか、だなんて。
でも、僕は忘れないんだろう。この3日間で二度も味わってしまった、あの死の感覚と気配を。
だから、僕は変わらざるを得ないだろう。今までの正常だと思っていた考え方を変え、普通だと思っていた生活を変え、それまでの僕とはまるで別人に変わらなければ。
でも。
「僕は……変わりたく、ないよ……」
ポツリと呟いてみた。誰もいない部屋の中でそんな僕の呟きを拾う人なんて誰もいなくて、僕は熱で苦しい息を吐き出し、目を瞑った。
そして、思う。
彼女は人を殺していないが、一つだけ、確実に殺したモノがある。
彼女は僕の常識という概念を、ものの見事にぶち殺していったのだ。『殺人鬼もどき』は人を殺すことができず、その人の人生を殺して行った。なるほど、彼女の『殺鬼』というコードネームは、案外そこから来ているものだったのかもしれない。彼女はヒトではなく、モノを殺す鬼だったのだ。
そして、そんな鬼を殺したのは、僕だった。彼女の『人を殺す鬼もどき』を、生きるという行為をすることで殺したのは、僕だったのだ。僕もまた、彼女を殺したのだ。
そんな、僕と彼女の論点が違う、それぞれの殺人考察。『人を殺す鬼』になりたかった彼女と、『人を殺す鬼を殺した人』である僕。
彼女は、最後まで『殺人鬼』になることを諦め切れなかったみたいだけれど。
ゴールデンウィークという中途半端な連休の、途中に出会って、途中で別れて。
『人』と『鬼』の間で、さまよっていた彼女。
あぁ、そう考えれば、彼女は境界線に現れるという鬼の手順だけは、完璧にこなしていた。その部分だけ、彼女は立派に『鬼』だったわけだ。
そこまで思考が及んだところでようやく薬が効きだしたのか、眠気を感じ始めた。熱の気だるさも手伝って、僕は早々に意識を手放し、眠りに落ちて行った。
×××
そして、目が覚める。
今日も、いつものように。
「……あ?」
なんだか懐かしい夢を見ていたような気がする。体を起して枕元の時計を見てみれば、針は昼近くを指していた。
土日でもない今日は、本来ならば遅刻だと慌てていたことだろう。だがしかし、今日はゴールデンウィークの2日目なので、いくら寝坊しても痛くも痒くもない。大学に入ってから一人暮らしを始めた身でもあるから、起きろと叩き起こされることもなかったというわけである。
「ゴールデンウィーク……あぁ、だからか。あんな夢を見たのは」
もうあれから何年たったのやら。もうずいぶんと昔のことのように思える。体を起し、部屋を見渡しながら僕は考える。
あれから、5年ぐらいは経ったのか。大学生になってから一人暮らしを始めた僕は、この生活変化にも慣れ、なんとか暮らしている。
なんとか、生きている。
あれから彼女は音沙汰なしで、少年との再会も果たしていない。あの時のことは本当に夢のようで、いっそ夢だと思ったほうが楽なのだろうけど、なんとなく、僕は予感していた。
今年の5月は、一向に暖かくなる気配が見えず、未だにコートが手放せない。桜もこの寒さの中で十分に花を咲かすことができず、いつの間にか葉桜になってしまっていた。
そんなゴールデンウィークの2日目。僕は身支度を済ませ、コートを羽織る。今日は地元に帰る予定なのだ。少し寝坊してしまったが、今からでもおそらく間に合うだろう。
勘でしかないのだが、たぶん、今日は。
しかし玄関の扉を開けた瞬間、その勘がすでに当たってしまっていて、地元へ行く必要がなくなったことを僕は知る。
玄関の前に、一人。
染めているのか地毛なのか、くすんだ銀髪をした、薄めの赤い瞳をした、少年のような少女の姿。
僕は一瞬驚き、けれどわかっていたことだったから、すぐに微笑んだ。
彼女は顔をあげ、笑顔を見せる。
「よぅ、ただいま。スグル」
「あぁ、おかえり、サキ」
END
オウガ・ボーダーライン ー僕と彼女の殺人考察ー 光闇 游 @kouyami_50
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