中編
3.
「せっかく京都にいるんだから、どっかの神社にでも行こうぜ! ってぇことで、どっか安いとこ知らねぇ?」
「安いとこって……君、今いくら金額持ってるんだよ?」
「持ってねぇ!! 一文無しだ!!」
ということで僕たちは今、自宅から自転車で約15分のところにある駅前の神社に来ていた。
あれから僕たちは軽く朝食をとり、彼女の一文無し発言で少々口論した後、悩んだ挙句にこの神社へと出かけることにしたのだった。
ちなみに自転車で約15分というのは一人で何事もなく行った場合の目安であり、僕たちは自転車で二人乗りだったため軽く30分はかかった。なんせ、自転車の二人乗りなんて久しぶりだったのだ。かなり危なっかしい運転になったが、そこは彼女の抜群なバランス力のおかげで車道に飛び出す羽目にはならなくて済んだ。
ところで、彼女は一文無しというのだが、神社の側にある駅は見た事があるという。電車代で所持金が尽きたのか、と思ったのだが、そうではないらしい。
彼女曰く、
「んー? ただ線路に沿って歩いてきただけだぜ?」
とのこと。
何度も言うようだが、この町は京都の中でも田舎に分類される。彼女がどちらの方向から来たのか知らないが、どっちに行くにしても軽く10㎞は田んぼしかなかったはずなのだが……
まぁ、そんなこんなで。
僕たちは今、神社の前にいた。
正しくは、神社の下。
「ここか、スグルん」
「うん、ここだよ」
彼女は神社を見上げる。
僕も見上げた。
正しくは、階段を。
「……長そうだなぁ」
「……いや、実際、長いよ」
目の前には大きな山がそびえ立っていた。その斜面には上へと続く階段があり、頂上へと繋がっている。
この神社はある意味この長い階段が名物である、と僕は思っている。まともに数えたことはないが、三ケタを余裕で超えるぐらいの段数はあるんじゃないだろうか。一応ケーブルが繋げられているけれど、正月ぐらいにしかまともに動いていないので、本殿に行こうとすればどうしてもこの階段を登らないといけない。頂上付近には駐車場があるので車で行けばすぐなんだろうけど、僕はまだ高校生だしなぁ。
そういうことなので。
「おーい、スグルっちー、置いてくぞぉー」
「元気、だね、君……」
数段先から手を振っている彼女を恨めしげに見て、僕は息も絶え絶えに言葉を返した。
今更だけど、僕は体力に自信がない。体育の成績はいつも5段階評価でぎりぎりの「3」なのだ。部活も帰宅部であるため、中学で培われてきた体力は日々衰えて行く一方なのである。それに比べて彼女は元気が有り余っているらしく、少しも疲れた様子を見せない。それどころか、先に行って「早く早く」と足取りが重くなってくる僕を急かしてきている。
あぁ、僕は何をしているんだろうか。と彼女に振り回されっぱなしの我が身を振り返ってみた。ますます虚しい気持ちになってしまった。
なんとか最初の急な階段を越え、比較的平面な地面に辿り着いた頃には、僕の息はすっかり上がり切っていた。いや、平面と言っても、ここも緩やかな階段になっているうえに上り坂になっているので、全然体は休まらないのだが。
ここで僕は一度立ち止まり、呼吸を整えながら辺りをきょろきょろと見渡している彼女を見た。
「ところでさ、サキ……なんで君はこんな田舎にまで来たんだ? ニュースでは京都でも随分と北の方から来ているみたいだけど」
これは前から疑問に思っていたことだった。有名な観光スポットなんて特に思いつかないほどの田舎町なのだ。そんなところに、彼女は何をしに来たのか。
その問いに、彼女は即座に答えた。
「何って……人を殺しに来た、に決まってんだろ?」
当然だ、とでも言いたげに彼女は振り返った。くすんだ銀糸をなびかせながら、彼女は腕を組んで坂道の上から僕を見下ろす。
「なんだよ、まだオレが『殺人鬼もどき』って認めてねぇのか? 一度死んだくせにさぁ」
「え、あー、まぁ……実感なんて湧かないよ。僕はまだ生きてるんだし……それで、えっと、人を殺しに来たって?」
僕は彼女の腰のウェストバッグを見る。
そこには彼女愛用のダガーがしまわれている。今日は僕と一緒に歩くから、ということで普段はバッグの横に吊り下げているというダガーをホルスターごと外し、バッグの中に入れてもらったのだった。ダガーがいくら短いとはいえ、やはり銃刀法違反で捕まるのは勘弁してほしかったのだ。
その凶器が、人を殺すための道具なのだというのであれば、なおさらのこと。
「ふぅん、刺激が強すぎて記憶が吹っ飛んじまったんじゃねぇか? こんなことならもっと丁寧に殺すべきだったなぁ。失敗、失敗」
「いやいや、失敗とか言わずに、まず殺そうとしないでよ」
彼女の手がウェストバッグに向けられているのを、慌てて僕は首を横に振っておしとどめる。ブラックジョークだとしても笑えないぞ、そのバッグの中身からして。
と、ふいに彼女は顔から笑みを消した。きょとん、と不思議そうに坂の下にいる僕を見下ろす。
「へぇ。やっぱり、死にたくねぇのか。お前」
「あ、当たり前だろ、そんなこと……」
急な彼女の表情変化に戸惑いつつも、僕はすぐに答えた。
当たり前……そう、当たり前のことだ。そんなこと。
しかし、彼女は薄い紅色をした瞳を細め、物言いたげに視線を下へと落としていた。
「そっか。オレは相手を間違えたんだな。いぃや、もしくは必然だったのか……こんなことだから、オレは……」
「サキ……?」
彼女の呟きは最後まで聞き取れなかった。ただ彼女は深く息を吐き出し、再び笑顔で僕を見た。
「まぁ、今はいいや。とりあえず進もうぜ、スグル」
×××
昼前という中途半端な時間帯だということもあり、頂上の境内に参拝しにきている人は数人しか見られなかった。祭りの季節にはまだ早いので、階段で誰ともすれ違わないのも頷ける。
そんな静かな境内の中を。
「おぉ賽銭箱! 参拝しようぜスグルん! オレ金持ってねぇけど!」
彼女の明るい声はよく響いた。何がそんなに楽しいのか、やたらとはしゃいでいる。
うーん、連れて歩いているこっちが恥ずかしくなるな、これは。
「なぁなぁスグルん、5円玉持ってねぇ?」
「『ご縁がありますように』で5円か……残念ながら、都合よく持ってないよ」
「じゃぁ10円玉でもいいや」
ということで、僕の分も合わせて20円。
なんだか、この調子だと僕の小遣いがあっという間になくなってしまいそうだ。これは困った、せっかく溜めていたというのに。そんなことを思いながら財布を見ていると、彼女はパンパンと拍手を2回、鳴らしながら喋り出した。
「知ってるか? 参拝する時に自分の住所を言わねぇと神様がどこの奴だか困るんだってさ」
「ふーん……って君、住所なんてあるの?」
「無いから困ってる。まぁいいや、とりあえず今は京都にいるんだから、京都ってことで」
物凄くアバウトだった。サキって名前は発音だけならそこら中に居そうだし、ますます困るんじゃないだろうか、神様。
にしても。
(神様にお祈りする鬼、ね……)
なんだか変な気分だな。隣で目を瞑って一心に祈っている彼女を盗み見ながら考える。いや、彼女は自称『殺人鬼もどき』だから、鬼ってわけでもないのか。
僕には普通の女の子にしか見えないんだけどな……
「スグル、お前何か願い事ないのか?」
「ん? あー、えっと……」
まだ10円玉は掌の中だった。彼女に言われて、ようやくそれを投げ入れて僕も手を叩く。とりあえず、無事にこのゴールデンウィークを過ごせますように、と祈っておいた。
この神社は行きと帰りで階段が違う。
帰り道となっている階段は幅が狭く、急な降りになっている。足元を見ておかなければ転げ落ちてしまいそうなほどだ。登りほど疲れないにしても、これはこれで足腰に負担が掛かってくるので注意が必要なのである。この階段にはさすがに彼女もはしゃげないらしく、今は僕の後ろをついてきている。といってもその足音は軽やかであり、相変わらず息切れしている様子は見られない。
そんな足音をBGMに、僕は自分の足元を見ながら階段を一歩ずつ降りていた。
「…………」
「…………」
えーと。
さっきまであんなにはしゃいでいたのに、ここにきて無口な彼女。
これって、もしかして「お前からも何か喋れ」という無言の訴えだったりするのだろうか。それともただ足元の階段に集中しているだけ? なんにせよ、この状況は気まずい。なんとか打開できないものか、と僕は後ろを伺いながら声をかけてみた。
「サキ……? やけに静かだけど……」
「スグルん、足元が危ねぇぞ」
言われて慌てて足を止めた。どうやら階段を踏み外すところだったらしい。
(あ、危なかった……っ!)
こんなところで足を滑らせたりでもすれば、踊り場まで転がっていくに違いない。彼女を振り返れば、にこりとした笑顔で「足元には気を付けたほうがいいぜぇ」と返事が帰ってきた。僕は視線を足元に戻し、再び一段ずつ階段を降りていく。なんとか目前に出口が見えてきた。周りに生えている松のおかげで視界が少し暗かったせいか、出口が明るく見える。あともう一息だ、と息を吐いた。
その時になって。
「ところでさ、知ってるか? スグル」
ふいに、彼女が言葉を発した。
足元に注意を向けていた僕は、視線を下に向けたまま彼女に応じる。
「? 何を?」
「『鬼』が出現しやすい場所のこと」
「……鬼?」
いきなり怪奇話?
質問の意図が読めない。それを彼女は予測していたらしく、一人で話を続けた。
「『鬼』っていうのはさぁ、何かと何かの境界によく出るんだ。橋の上とか、門の中とかにな」
「ふーん……?」
「それは現代でも基本的には変わらなくてさ。といっても、現代はそこら中に境界があって……例えば路地裏とかな。とにかく境界ってのが曖昧になっているから、むしろそういったモノは出やすくなってるんだ」
彼女の声はどこか楽しんでいるかのようだった。
僕は出口を目前にして立ち止まる。何か、胸騒ぎがするような気がして。
後ろを振り返れば、彼女はニヤリと、嫌な笑みを浮かべていた。
「だから、こういった出口までの長い階段という境界とかさ……出やすいんだよ、鬼が」
リン――と、音がなった。
瞬間、まばたきの間に彼女の姿は掻き消えていた。
「え……サキ?」
辺りには誰もいない。
静まり返っている。空気すらも。
ゾクリ……と、なぜか全身から血の気がひいた。
「――よぅ」
声がした。彼女の声ではない。
それは、少年らしい、独特な声。
おそるおそる、視線を前へと戻す。
何時の間にか、数段先に少年が立っていた。
真っ黒でぼさぼさの髪。前髪が長く、顔の半分を覆っている。服も黒く、全身真っ黒のその少年は、ただ瞳だけ鮮やかな紅い色をしていた。
その血のように紅い瞳を細めて。
少年は口許を歪ませる。
「初めまして、『異常者』……お前を、殺しにきたよ」
4.
昔、家の近くに流れていた川でおぼれかけたことがある。
確か雨の日だったか、普段は底の方を流れているだけの川が水かさが増して茶色く濁っているのが珍しくて、学校帰りに近くまで寄ったのだ。
学校では川に近づくな、と言われていたはずだった。だというのにそれを破り、僕はもっとよく見ようと川に近づき、足を滑らせたのだ。それを近くにいた大人が目撃。すぐに救助され、僕はなんとか命を取り留めた。
けれど、その時の事は未だによく覚えている。
飲み込まれ逃げ出せない恐怖と、狂暴で凶悪な絶望感、そして絶対的な死の気配。それをまさか再び味わうことになるなんて、思ってもみなかった。
死の気配。
それが、目前に迫ってきていた。
「どんな奴かと思ったら、案外普通なんだな。まぁ、いいや。悪いけど、世界のために死んでもらうよ。『異常者』」
少年はその顔に偽物じみた笑みを浮かべ、手に持っていたモノを木漏れ日の中にかざす。
それは鞘のない、抜き身の刃物だった。長さはダガーに似ている。小刀、といったところだろう。少年はそれを構え、一段、近づく。
脳がいくら逃げろと警報を鳴らしても、僕の足はそこに根付いてしまったかのように動かなかった。まるで蛇に睨まれた蛙のように、僕は少年がまた一歩近づくのを見守るしかできない。
と、少年は刃が届くまであと一歩というところで急に立ち止まった。
「へー……納得いかない、って顔してるな。何か聞きたいこととか、あるのか?」
残りの一歩を一気に詰めて、少年は僕の喉元に小刀を突きつける。
首に触れた刃の冷たさに、ヒッと声がもれるのを感じた。
「い……『異常者』って……?」
「んー、なんといえばいいかな。発生した自然現象……語り継がれた伝説の再現……輪廻から外れたモノの形……どれもしっくりこないな。あぁ、そうだ。よく神話とかに出てくるだろ? 何度殺しても生き還ってくる奴。アレとアンタは一緒だ」
少年はにこりと笑う。その笑顔すら、もはや恐怖としか僕の目には映らなかった。
そして少年は言う。
「つまり、アンタは人間にしては異常すぎる、ってことだ」
少年の瞳が細められた。刃が触れている部分から鋭い痛みが生じる。僕はそれを、まばたきすら忘れて見つめていた。
だからこそ、突然少年が後ろへと飛び退け、その間に銀色の何かが僕の足元に突き刺さるのを目撃することができた。
「え……サキ……?」
気がつけば声を発していた。ひらり、と音もなく彼女は僕の前へと着地する。その時になってようやく僕は我に返った。上から落ちてきた彼女に、僕は思わず頭上を見上げる。
そこには、空間にぽっかりと何かにぶち抜かれたような穴が空いていた。
「って、えぇ?!」
慌てて辺りを見渡せば、何かに覆われているかのように薄暗い。が、穴の向こうは昼間特有の眩しさがあった。
つまり、あの穴の向こうが本来の風景なのか……いや、でもこの現象って一体……なんて、軽く混乱していると彼女はそんな僕を可笑しそうに笑った。
「あっはっは、わりぃスグル。愛用のダガーがいつもの位置にねぇもんだから、ちょいと時間をかけちまった。やっぱ凶器はいつでも取り出せるところに装備しないといけねぇな」
とか言いながら、彼女はしゃがんで僕の足元に突き刺さっているものを抜き取る。よく見ればそれは彼女愛用のダガーだった。そういえば、彼女にダガーをウェストバッグの中にしまうように言ったのは僕だったっけ。彼女は手にしたダガーを掌でくるりと回転させ、逆手に持ち変える。そして、後ろを振り返って数段下へと移動した少年と対峙した。
「あはは、やっぱりそうだ。予想した通りだぜ。来ると思ってたんだ、なぁ兄貴?」
「え、兄貴? サキの兄さんなの?!」
思わず少年へと目を向けた。
いやいや、さすがに似てないんですけど……と思えば、彼女は「違う、違う」と軽く手を振った。
「血は繋がってねぇよ。ただ師匠が同じだったから、兄弟子と妹弟子の関係ってこと……それにしても久しぶりだなぁ兄貴。人間辞めたって聞いたけど、アレからどうよ?」
彼女はダガーを持つ腕を前にし、構えを取りながら楽しそうに少年へと問いかけている。少年はゆるりと彼女を見て、そして偽物じみたあの笑顔を浮かべた。
「へー、確かに、見たことのある顔だ。そういや、ずいぶんと記憶は消したけど、アンタの記憶はまだ残っている……なるほど。あの施設の奴は全員殺したと思ってたけど、生き残っていた奴がちゃんといた、ってわけか」
少年の口許が歪む。そして、小刀を持っている腕を前に掲げ、彼女と同じ構えを取った。師匠が同じ、という話は本当らしい。
「けど、今はアンタの相手をするつもりはない。今の獲物は、そこの『異常者』だから。そこ、退いてくれない? えっと、確か『
「いやいや、その名前の奴はあの施設の中で死んじまったよ。今ここにいるのはサキって名前の、ただの『殺人鬼もどき』だぜ。それに、こいつに目をつけたのはオレが先だかんな。わりぃけど、兄貴にばかり良い思いをさせるわけにはいかねぇなぁ」
――彼らは、一体何の話をしているのか。
こともあろうか、彼らはどちらが僕を殺すかを話題にしているのだった。
少年の偽物じみた笑顔が、凶悪なものへと変わっている。こちらからは伺えないが、きっと彼女の顔も似たような笑顔を浮かべていることだろう。
(こいつら……っ)
悪寒を感じた。思わず一歩、後ろへと下がる。
それと同時に、彼らは動き出した。
一瞬、視界から二人の姿が消える。
ほんの数秒、瞬きの間に。
「えっ……」
慌てて視線を巡らせれば、金属同士がぶつかり合う音が辺りに響いた。音は上から聞こえてくる。すぐに彼女は僕の隣に降り立った。
そして、僕を突き飛ばす。
「うわぁっ?!」
幅が広く緩やかな階段に辿り着いていたのが幸いし、なんとか転げ落ちる危機は回避できた。が、石畳の階段に叩きつけられた痛みまでは回避できるはずもなく。呻きながら体勢を立て直そうとした、その目前に飛んできたナイフが顔のすぐ横に突き刺さった。
「あーあ、外した。惜しい」
少年の声が降ってくる。その姿を確認する間もなく、ジャラリという音と共に突き刺さっていたナイフが宙へと引き抜かれる。どうやら、先ほどのナイフには柄の先端に細い鎖が付けられていたらしい。鎖の音を鳴らしながらナイフは宙を舞い、いつの間にいたのか数段先の背後に立っていた少年の手へと治まる。鎖は少年の服の裾から伸びている。いわゆる、暗器という奴らしい。
もしあのナイフが頭にでも刺さっていたならば、と急激に血の気が引いていく。そうしている間にも彼女は僕と少年の間に割って入り、不満そうに声を上げた。
「おいこら兄貴、まじめにオレの相手をしやがれよ。怒っちゃうぞ?」
「あはは、怒るなら、それも楽しいかも。けど、言っただろ? 今は、アンタの相手をするつもりはない」
鎖がついたナイフを袖の中にしまい、少年はさも楽しげに笑い声をもらす。否、笑っているのは少年だけではない。サキもまた、楽しげに笑みを零している。
「っ……!」
ここに居てはいけないと、本能が訴えている。それぞれの得物を構えなおした二人から一歩、身を引いた。
ここに居れば、間違いなく僕は殺される。そう、確信できた。
(逃げなくちゃ……)
気がつけばそう思っていた。
いや、願っていたのだろうか。
とにかく、一瞬の内にこの思考に囚われた僕は、深く考えることもなく一目散に出口へと階段を駆け下りた。つまり、少年に背を向けて走り出したのである。
今から思えば軽率な考えだったと思うし、サキにも後で散々「バカだろ」と言われる原因になったのだが、その時の僕にはもはや考える脳はなく。ただ、とにかくこの場から逃げたいと、動き出した足はもはや止めることはできなかった。
そして、そんな隙だらけの背中を、本物の殺人鬼である少年が見逃すはずがなく。
「っ、が……っ」
背中にどすん、と衝撃を感じたと共に僕の体は前のめりになり、階段を転げ落ちていった。
確実な、死の感覚。
「――まった。干渉――かっ――これ――失敗だ」
遠くで、そんな少年の声を聞きながら。
僕の視界は、ブラックアウトした。
×××
頭上に、光が揺れているのを見ていた。
まるで水中から水面を見ているかのような光景に、あぁ、いつもの夢か、とぼんやり考える。
(あれ……夢?)
夢ということは、僕は眠っているのか。そろそろ起きないといけない気がする。水の中に漂いながら、僕はうーんと考える。
いや、というか。
(夢の中で腕組んで考えるって……明らかにシュールな図だよな)
さてどうしたものか、と僕は上を見上げる。と、水面に揺れる光の中に、銀色っぽい何かが見えた。
あそこに行けばいいのか、と何となく思った。
そして。
「ん、あぁ、おはようさん。やっと起きやがったか、スグルん」
「へ……え? うわぁっ?!」
目の前に彼女がいた。おかげで『驚いて飛び起きたら額をぶつけて二人で仲良く呻く』というアニメや漫画でお約束な展開を、身をもって体験してしまった。
実際にやってみると、結構痛いんだな……いろんな意味で。
「~~っ、いてぇよぉスグルん! せめてひとこと言ってから起き上がれ!!」
「~~っ、ご、ごめん……でも、目が覚めたら目の前とか、朝も思ったけど、心臓に悪いからやめて……っ!」
「えぇー? せっかく膝枕してやったってぇのにぃ」
「え、は? 膝枕って……っ?!」
今度こそ飛び起きた。ガバッと効果音が付くぐらいに。そして振り返ってみれば、額を押さえながらきょとんと呆けた顔をしている彼女がいて、自分の頭があったであろう位置を見れば、確かに彼女の膝があったりした。
い、いつの間に僕は膝枕を……というか、僕の頭があった位置の部分が、赤く汚れているんですけど……
「サキ……僕の背中、どうなってるの……?」
「んー? なんとも見事な血まみれだなぁ。イカすぜ、スグルん!!」
拳に親指を立て、彼女は爽やかな笑顔を見せる。けれど、あまりにも笑えなかった。
昨日も感じた、服が肌に張り付く感覚。それに、首の後ろ側の髪にも血がついてしまっているのか、固まってぱさぱさになっている。
途端、思い出してきた。あの紅い目をした少年に、確か僕は刺されたはずなのだ。背中に感じた刃物の痛みを思い出し、自然と体が震えだす。
そうだ、あの時、僕は背中を刺されたはずなのに。
「背中から心臓にひと突き、だぜ? スグル」
「え?」
自分を見下ろして体の異常を確かめていた僕に、彼女はそんな言葉を投げかける。見れば、彼女はズボンについた血など気にした様子もなく、ニヤリと嫌な笑みを浮かべていた。
「背中から心臓に向かってひと突き。しかもちゃんと骨の間を見極めている、的確な致命傷だ。普通ならなかなかできない芸当なんだけどなぁ……さらに階段から転げ落ちた後にトドメに首の頸動脈に一撃。まぁ俺が見ていた限り、階段から落ちた時に頭をぶつけたところが悪かったっぽいから、トドメを刺した時にはもう死んでたみてぇだな、お前」
あはは、と楽しげに笑いながら説明してくれた。なるほど、血が髪にまでついていたのは頭を打った時か、もしくはそのトドメとやらを受けた時についたものだったのか。
思わず首筋に手をやる。やはり、傷はなかった。
だけど。
「なんだよ。また自分が死んだってこと、忘れたってぇのか?」
怪訝そうな彼女の問いかけに、僕は首を横に振って答えた。
「いや……覚えてるよ。僕が一度死んだっていう自覚も、ちゃんとある……」
だというのに、何故僕は生きているのか?
確かに感じたはずだった。首を締め付けられるような、絶対的な死の感覚を。恐怖を感じる暇さえ与えないほどの、暴力的で破壊的な死。なのに、僕はどうして生きているのか。
「サキ……僕は、人間だよね?」
「んー? そりゃぁ、オレなんかと比べたら人間であるのは間違いねぇよ。オレは『鬼もどき』だし」
「じゃぁなんで……なんで、僕は生きているんだ?」
おかしいだろう?
こんなこと、ありえるはず、ないじゃないか。
そう問いただす僕に、彼女は呆れたような表情と共に肩をすくめた。そして、側に置いていたらしいダガーを手に持つ。
「スグル、死にてぇのか? だったら遠慮なく殺してやるぜ?」
「そんなわけじゃないっ……でも……」
でも、なんだというのか。僕は頭を振り、一つ息を吐いた。
これでは駄目だ、頭を冷やさなければ。彼女に不満をぶつけたって仕方がないじゃないか、彼女が悪いわけではないのだから。落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かす。
「っ……取り乱しちゃってごめん。もう大丈夫だ」
「へぇ? まぁ、冷静になるのは正しい判断だな。わかった、今回は見逃してやるよ」
彼女は掌でダガーを一回転させたあと、いつの間に装着していたのかウェストバッグのベルトにぶら下げているホルスターへとしまった。あのまま僕が取り乱したままだったら、もしかしたら本当に殺しにかかっていたかもしれない。ぞっとしない話だった。
そんな彼女にわずかにたじろいたが、それでも僕はなんとか踏みとどまって彼女を見つめた。
「でも、やっぱりおかしいよ。なんで僕は生きているんだ?」
「そりゃぁ、お前が死なない体質だからだろ」
さも当然だ、と彼女は僕を見返す。
けれど、僕は首を横に振って続けた。
「そういうことじゃないよ。昨日、君は言ってただろ? 僕は世界に殺されるって。それで来たのがさっきのアイツだというのなら、アイツだったら僕はこうして生き返らずに死んでいたってことなんじゃないか?」
あの少年も、最初の言葉は『殺しに来た』だった。ということは、少年には僕を確実に殺せる力があったということだ。
そのことについて、彼女は心当たりがあったらしい。「あぁー」と声をもらし、しかし面倒そうに頭を掻くとようやく立ち上がって、僕に訴えた。
「とりあえず、飯にしようぜ? 気付いてねぇだろうけど、もう夕方なんだぜ、スグル」
言われてようやく気がついた。
時計を見れば、時刻は夕方の6時を過ぎている。
つまり、僕たちは昼食を抜いてしまっていたのだった。
5.
まず、あの少年について。
「あの時に言ったけど、兄貴はオレの兄弟子だ。師匠が同じでな、そのおかげで多少の交流があったってぇわけ。まぁ、兄貴は師匠の一番弟子で、オレはその次ぐらい、だったけどな」
夕食となったスパゲッティ(ミートソース)を食べつつ、彼女は思い出すようにそう答えた。
曰く、彼女はとある特別な施設で暮らしていたという。その施設というのが、暗殺者などを育てる学校のようなものだったとのことで、彼女はそこで『殺人鬼』になるべく育てられたとのことだった。
「あー……だからそんなに『殺人鬼』にこだわっているのか」
「まぁな。つっても、オレはまだ『もどき』だけど。なぁ、世間じゃぁオレのこと、何て呼んでるんだ?」
「えっと……『京都連続通り魔事件』、だから……『通り魔』かな」
そう答えれば、彼女はとたんに不機嫌な顔をしてマッシュルームをザクリと突き刺した。レトルトを温めただけとはいえ、時間をかけて(麺をゆでるのに30分)作ったのだから、もっと丁寧に食べろと言いたいところを辛うじて堪える。
「ほらな、だからオレは駄目なんだ。何をするにも中途半端にしかできやしねぇ。まともに生きるのも、モノを殺すのも、全部が中途半端だ。せっかくの『
そのまま、彼女はスパゲッティをザクザクと突き刺している。ちなみにスパゲッティは巻いて食べるものだ。彼女の行動は食べるというより、八つ当たりに近い。
皿が割れなきゃいいけど、と内心で心配しつつ、彼女に問いを投げる。
「そういえば君の兄さんも言ってたけど……その『さつき』って、君の名前かい?」
「んにゃ、それは昔の名前。名前ってぇよりコードネームだな。殺す鬼と書いて、『殺鬼』。施設にいた頃に付けられた名だ。けど、もうその名は捨てたから今は名無し……いや、今はただのサキだよ」
「へぇ……それは、また物騒な名前だね……じゃぁ、君の兄さんの名前、あっいや、コードネームだっけ。何ていうんだ?」
あの時は思考が混乱していたものだから、名前を聞く暇もなかったのだ。まさか彼女みたいに名前がないなんてことは……という僕の考えを、彼女は肩を竦めていとも簡単に崩してくれた。
「いぃや、兄貴には名前もコードネームすらもねぇよ。存在してはいけない存在。そんな扱いだったんだ。けど兄貴の部屋は地下にあったから、周りの奴らは『地下の凶器』って呼んでた。現在は、そうだなぁ……『代行者』とか、『世界の一部』とか、『歩く元凶』とか、通り名で呼ばれてたりするかな」
「えっと……まさかと思うけど、その施設の出身者って、皆名前がなかったりするの?」
「んー、どうだろな? 施設にいた奴らはそれぞれ特別な事情持ちだったってぇ話だけど。あぁ、施設から別のところに引き取られた奴が、引き取られ先で名前をもらってた、てぇいう話を聞いた事があるぐらいかな」
うーん。なんというか、信じがたい話だよなぁ。
けれど、昨日と今日とでずいぶんといろんな体験をしてしまった僕は、彼女の話を頭ごなしに否定することをやめていた。諦めた、ともいうけれど。
だって、僕自身が意味不明な存在だったわけだし、ね……
「それで、本題だけど……なんで僕は生きてるんだろうね? 君の兄さん……うーん、やっぱり名前がないと不便だな」
いちいち『君の兄さん』だなんて呼ばないといけないのか、あの少年のことを。僕自身にも兄貴がいるものだから、ややこしいではないか。すると彼女はたった今思いだしたように、丁寧にもフォークを皿の上に置いてからポンッと手を叩いた。
「そういえば兄貴、今は『ユウ』って名前があるんだってさ。スグルが意識失くした後、ちょっとだけ兄貴と話してたんだぁ~。オレも結構頑張ったんだけど、結局兄貴には怪我ひとつ負わすことができなくてさぁ」
「ぐ……君って奴は……」
どうやら僕が心肺停止している間にも二人は殺し合いを続けていたらしい。こうして生きているからいいものの、下手をすれば死体放置になるんじゃないか? その状態って。
そんな扱いをされている己の身を嘆きながら、僕はフォークに巻いたままのスパゲッティをやっと口に運んだ。彼女はそのままの調子で話を続ける。
「で、その時に聞いたんだけど、なんでもお前を殺すには普通の殺人とはちょっと違った方法をしないといけねぇんだってさ。確か干渉が弱かった……とか言ってたっけな」
「干渉? あぁ、でも、それは僕も辛うじて聞こえてたような」
あの意識を失う一瞬前。少年が呟いていた言葉をなんとか思い出す。
――しまった。干渉が弱かった。これじゃぁ、失敗だ。
確かそんなことを言っていたはずだ。干渉、という言葉からしても、彼女の言うように何かしらの方法を取らなければいけなかったのだろう。本来ならば。
あれ、もしかして僕、そのユウって奴のうっかりミスで生き延びちゃってる、ってことなのか? それはそれでなんだか虚しくなってくるな。我知らず遠い目をしてしまう僕なのであった。
「だからって死にたいわけじゃないけどさぁ……」
「ん? どうしたスグルん。何か言ったか?」
「いや、なんでもないよ。えーと、つまりユウが失敗したおかげで僕はこうしてここに生きているわけで、ということは」
言いながら、僕はげんなりと溜め息を吐く。
彼女は頷いて僕の言葉の続きをニヤリとした笑みと共に言ってくれた。
「ということは、兄貴はまたやって来るってことだな。たぶん兄貴のことだから、明日にはまた来ると思うぜ? モテモテだよなぁスグルん」
「こんなモテ度はいらない。まったく、僕の平穏な日々をぶち壊しやがって」
本当に散々なゴールデンウィークだ。どうしてこうなってしまったのだろう。彼女と出会ってしまったからか、そもそも彼女が『京都連続通り魔事件』なんて犯してしまったからなのか。
それとも、これも全て僕のせい、とでもいうのだろうか。彼女たちは。
「それにしてもさぁ、スグル」
「ん? なんだよ?」
急に笑顔を引っ込めて問いかけてくる彼女に、僕は口へ運ぼうとしていたフォークをとりあえず皿に置く。彼女は興味深そうに、僕をまじまじと見つめていた。
「動揺、したりしねぇんだな……お前、もう自分の体がただの人間で収まらないってこと、理解してんだよな?」
そう聞いてくる彼女に、僕は頷きつつ。
実は内心ギクリとしていた。
今まさに、どうして自分がこんなにも冷静でいられるのか、自問自答していたところだったからだ。
「うん……なんでだろうね。僕にもわからない。本当は理解してないのかもしれないし、理解しようとすらしてないのかも」
「へぇ、自分のことなのに?」
「自分のことだから、だよ。これまで生きてきた自分を否定されちゃったようなものだからさ。たぶん、思考力が追い付いてないんだ。だったらいっそのこと、暫くは理解できないまま放っておいたほうがいいのかもしれない」
そして、僕は肩を竦める。
彼女には、僕がどう見えているのだろうか。今、自分がどんな顔をしているのか、わからない。けれども彼女は、そんな僕の心境なんかお構いなしにまた笑顔を作るのだ。
「あはは、いいね、お前のそういうところが好きだぜ。熱くならず、常に冷静……なかなかそれができねぇのが人間って生き物だ、とよくいうぜ?」
「なんと言われようとも僕は人間だよ。頼むから君まで僕のことを『異常者』だなんて呼ばないでくれ。これでも結構、内心では傷ついているんだよ?」
僕のことを『異常者』だと呼んだ、あの少年のことを思い出す。彼は、僕のことを何一つ知ろうとしなかった。僕の生い立ちも、性格も、名前すらも。それは知りたくないということなのか、それとも、そもそも知る必要などないということなのか。
だったら、僕は。
「サキ……もしよかったら君のこと、もっと教えてくれないか?」
「んー? なんだぁ、やけに知りたがるじゃねぇか」
「まぁ、ね。強制はしないけど」
「ふぅん? まぁ、別にいいけどよ。聞いてもつまらねぇだけだと思うぞ、オレの人生なんて」
そう断言する彼女。
なんか、サキって変に自分のことを自虐的に話す癖があるよな、なんて思っていると案の定。彼女は目を眇めて、己を見下すように呟いた。
「こんな、存在理由すらあやふやな、人間にもなりきれねぇ鬼もどきの人生なんて、さぁ……」
×××
その日の真夜中、僕は久しぶりに自室でのんびりと過ごすことができた。
「いや、久しぶりって……まぁ、2日ぶりになるんだけど」
昨日は彼女がこの部屋を使ってたもんなぁ、という独り言を呟きながら僕はパソコンの電源を入れる。
結果的に、彼女の人生は予想通りに、悲惨極まりないものだった。
物心ついた頃から教えられたのは、この世界のことと、モノを殺す方法。そして、自分の歩む人生の道筋だったという。
しかし現在、彼女は行き場をなくしてしまっている。それまで教え込まれてきていた人生の道筋そのものが消えてしまったからだ。曰く、彼女が暮らしていた建物自体が爆発により崩壊してしまい、彼女は自分の居場所をなくしてしまったのだという。そのことについて、彼女は。
――盛者必衰の理、って奴だよなぁ。まぁ、もうどうでもいいことだけど。
それだけを言い、すぐに別の話をしだした。
はぐらかされたのだとすぐにわかったけれど、だからと言ってそれ以上追及することも、僕はしなかった。聞いてはいけない気がしたからだ。結局、詳しい話はなにひとつ教えてくれはしなかったけれど。
「あった」
インターネットを開けば、すぐに目当てのものは見つかった。
『京都連続通り魔事件』に関する続報だった。ゴールデンウィークに入ってからというもの事件に発展はなく、犯人はいまだ逃走中……
「まぁ、当の犯人はここにいるわけだしね」
話疲れてそのまま絨毯の上で眠り出した彼女を思い浮かべる。今頃、世間でどれだけ騒がれているのかも知らずに、被せてあげた毛布に包まって寝入っていることだろう。内心苦笑しながら、そのままニュースを読み続ける。被害者たちは現在、回復に向かいつつあり、命に別状はない……
「命には別状がない、か」
ホッと、安堵の息を吐いている僕がいた。これなら何とかなりそうだ、と。
パソコンの電源を落とし、僕はベッドの上に横になる。部屋の照明を消せば、室内には月光しか入ってこない。なんとなしに手を天井へと伸ばしてみた。
彼女の話を聞いて、やりたいことを思いついた。今更になって無駄なあがきかもしれないけれど。
「うん、大丈夫だ」
ひとまず、簡単には死んでやりたくない理由は、できたのだ。
×××
最後に、人を殺す鬼について。
「殺人鬼が出やすいところ? そうだなぁ。種類にもよるけど、兄貴は人外みたいなもんだしな……やっぱり、境界線……んー、橋の上とかじゃねぇか?」
「橋の上?」
「あぁ。橋ってのは、どこかとどこかを繋いでいる間の空間だろ?」
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