心臓の血が一番美味い

写絵あきら

第1話

「……なあ、なんで吸血鬼ってくびから血ぃ吸うん?」

 男は尋ねた。死を前にして。


「はあ?聞いたところでどうなるっていうの?」

 女は尋ね返した。命を前にして。


 煌々と輝く街明かりが、薄らと空を照らしている。夜闇に浮かびあがる曇天は、はらはらと雪を吐き出していた。林立する摩天楼の根本、電柱がぽつりと佇む路地裏に男が倒れ、長髪の女を見上げている。


「―――前からずっと気になっとったんや。聞かんままやったら、死んでも死にきれへん。」


 “ずっと気になっていた”というのは口から出まかせだ。帰宅途中、音もなく路地裏に引きずり込まれたのが数分前。自分を攫った相手のまとう雰囲気からその素性を察し、死に物狂いで絞り出したのが冒頭の質問である。そうせねばすでに殺されていた。相手は人間ではない。そして、人間風情が抵抗したところで諦めてくれる相手でもなく、戦ったとて勝てる相手でもなく、逃げ出したとて逃げおおせる相手でもない。そう、この女は―――


「はッ、今からわれるところだっていうのに、随分図々しい人間エサもいたものね。」


 ―――吸血鬼なのだから。


 🦇


 すらりと伸びた両の脚が、真冬のコンクリートを力強く踏みしめる。底冷えのする寒さにも拘わらず、女は裸足に純白のワンピースを纏うのみである。背後から照らす街頭で、男を見下ろすその相貌ははっきりとしない。けれど口の端に覗く牙はぎらりと光り、縦に裂けた瞳が男をめ付けていた。


 男は思わずその身を震わせ、後ずさりしようとする―――が、体がぴくりとも動かない。恐怖で震えることさえままならない。吸血鬼のその瞳から目を逸らせない。蛇に睨まれた蛙のように、トラックの前に飛び出した猫のように、圧倒的強者を前にした本能の警鐘で、心よりも先に体が屈していた。


 既に2度、男は吸血鬼に話しかけている。はじめは無我夢中で、つぎは口から出まかせで。3度目は少々考えねばなるまい。地面に投げ出され、真冬の寒さですこし冷静になってみると、自分がどれほどの危機におかれているかがわかり始めた。路地裏にひとり、相手は吸血鬼。言葉選びを間違えれば即死。相手を刺激してはならない。けれど、黙っていれば喰われるのも必定。


 なにか、なにか言葉を紡がねばならない。刺激せず、それでいてウィットに富んだ、そして時間を稼げるような、そんな言葉を。


「―――ほら、例えば“なんで頸から血ぃ吸うんやろか”とか“なんでニンニクが苦手なんやろか”とか、そういう“当たり前すぎて不思議に思わんこと”ってあるやん?せやからこの機会に、考えてみんのもええんちゃうかなと思ってな?」


 口をついて出たのは、あまりに平凡な、震える言葉。警戒心を煽らぬという点では十分だが、おもしろさが些か足りない。吸血鬼は無反応を返した。はらりと頬に降りた牡丹雪が、にじむ汗と混ざり合う。被捕食者prey捕食者predatorの視線が絡み合う。前者のそれは怯えを押し殺した覚悟を、後者のそれは冷酷な殺意を孕んでいた。命乞いおしゃべりのおかわりが必要か。へばりつく内頬と舌を唾液で濡らし、かさついた唇を開く―――


「―――いいわ。」


 ―――寸前に、吸血鬼が口火を切っていた。


「へ?」


「いいわよ。ちょうど話したい気分だったの。」


「ほんまに?」


「本当よ。」


「ほんまか!いやあ~ありがたいなあ!冥土の土産にぴったりや!」


 冗句を飛ばしつつも、男は安堵していた。自然と口端が持ち上がる。これで時間が稼げる。時間が稼げれば、それだけ人が通りかかる確率が上がる。そうすれば、わずかでも助かる可能性が、


?」


 ―――生まれるほど甘くないのが、吸血鬼だった。

 その目が、殺意にと細まる。


「私としてはいいけれど、あまり多いと後片付けが大変だから、ほどほどにね?」


 にこりと微笑み、鹿と獲物を威圧する。相手の目を見て笑顔を向けることは、実のところ威嚇行為であったはずだと、気圧された獲物はそんな蘊蓄を思い出していた。獲物は天敵を、吸血鬼を甘く見すぎていた。“助けてくれ!”と通行人に叫ぶ、それくらいの隙は作れるだろうと高を括っていた。


 今更ながら、昨晩みたニュースを思い出した。「―――いまのところ、我々人類が彼らに対抗するすべはありません。吸血鬼の身体能力は我々の想像を超えています。一般的な吸血鬼のそれですら、人間のトップアスリートを大きく凌駕するのですから―――。」


 この天敵は、ぎらついた食欲と冷ややかな視線を向ける捕食者は、いざ叫ばんと息を吸う、その刹那に息の根を断ち切るに違いない。いやもしかすると、奇跡的な隙をつけば叫ぶぐらいは可能やもしれぬ。可能やもしれぬが―――叫んだとて瞬きののちに喉を掻き切られることに変わりはない。寿命が一呼吸分増えるだけだ。そして叫べば、間違いなく“叫び声を聞いた通行人”も命を奪われる。狩人は可能な限りリスクを排除する。目撃者不安要素を残すはずがない。たとえ二人がかりで抵抗したとしても、二人がかりで逃走したとしても、瞬きの間に、歯牙にもかけずに牙にかけるのだ。―――目撃者は悉く始末する。助けを求めれば、をも牙にかける。人外は言外にそう告げていた。


 わずかばかり、残っていた希望はすり潰された。男が助けを求めるはずの通行人は、今となっては守る対象である。今日は妙に人通りがないが―――たとえ通りがかったとしても、彼女が吸血鬼だということを決して悟られてはならない。なぜなら悟られればそのときが、その通行人の命が終わるときだから。


「…あー。俺は八木っちゅーねん。あんたは?」


 目論見を悉く叩き潰された男―――八木は、眼前の怪物との対話を試みることにした。救援が望めないならば、八木ひとりで立ち向かうしかない。時間稼ぎが無駄ならば、怪物を懐柔してしまえばいい。そして懐柔はまず、名を名乗るところからだ。


 家畜には名前を付けるな、とよくいう。愛情が湧いてしまうからだ。自分のペットを喰う奴はいない。愛着があるからだ。そして今、八木は家畜として認識されている。餌として認識されているならば、その逆―――名乗ればいい。対話を通して食い物から認識を改めさせればいい。家畜からペット程度に認識を変化させられれば上々。そうでなくとも、多少は食い気を削ぐことができるだろう。八木はそう考えた。


「…ミカよ。」


「素敵な名前やな!ほなミカ先生、聞かせてもらおか、なんで吸血鬼が頸から血ぃ吸うんか!」


 一命をとりとめたためか、突然上機嫌になった八木に怪訝そうな顔を向け、吸血鬼は話し始めた。


 🦇


「―――5年前、吸血鬼学会で発表された研究によれば、吸血鬼が頸から血を吸う理由は大きく3つ。」


「おお、なんや本格的やな?」


 八木はできるだけ会話もとい対話を長引かせ、徐々に懐柔するつもりだったが、存外話が長くなりそうだ。


「質問者が口をはさむな。1つが物理的な吸いやすさ。くびの皮膚のすぐ下には外頸がいけい静脈っていう、まあぶっとい血管が走ってるんだけど、他のと違って太いし皮膚に近いから、苦労せず吸血できるってわけ。」


「へえ、なんや静脈から吸ってたんか?てっきり動脈から吸っとるもんやと思ってたわ。そっちの方が美味そうやし。」


「馬鹿言わないで。旨い旨くないは置いといて、動脈から吸おうなんて愚行、今時は迷惑系動画投稿者でもやらないわよ。出血の勢いで全身血まみれになるに決まってるじゃない。とてもじゃないけど扱えないわ。あと、動脈は静脈に比べて血管の壁が分厚いから、仮に吸うとしても牙が刺さらないのよ。」


「なるほど。理にかなってんねんなあ。」


 この美しい吸血鬼が獲物の頸に牙を突き立て、溢れ出す鮮血で純白のワンピースを染め上げるさまを想像した男は、それに少なからず官能を覚えたが、余計なことは言うまいと黙っていた。


「それに、“血を零さずに吸う”ことは上品さの証。純白の服は、“今まで血を零したことはなかった”という証明でもあるの。少しでも汚れていたり、血が付いていたりすれば、それは自分の格を下げる汚点となる。だから私達は、服をけっして汚さないように、静脈から血を吸うのよ。まあ中には、わざと血で衣装を汚す輩もいるけどね。それはあくまで一部の例外よ。」


「なるほどなあ。」


 余計なことを言わなくて本当によかった。八木は内心胸をなでおろす。


「次に、本能的な理由。」


「ほいな!」


「親猫が子猫をしつけるとき、首をかむのは知っている―――?」


 美しき吸血鬼、ミカの講義は続く。夜はまだ明けない。









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