第10話 君の幸せを祈ってる

10.



目を覚ますと、淹れたてのコーヒーの香りがした。


「……………おはよ」


リビングに向かい声をかけると、その少年は仏頂面を微かに綻ばせて、「ん」と湯気のたつマグカップを差し出して来た。


「………ちょっと待って、顔洗うから…」


冷水で顔を洗い、既に用意されていたふわふわのタオルに苦笑して、有り難くそれで顔を拭く。


「お前さ、いい奥さんになるなぁ」

「………おれ、男なんだけど?」


例えだよ、例え。と笑って、改めて差し出されたコーヒーを受け取る。

砂糖もミルクも入っていないブラックコーヒー。

朝はこれに限る。

ふと顔をあげると、目の前の少年がなんだか苦そうな顔をしていた。ぶっ、とつい吹き出してしまう。


「苦手なら淹れてくれなくてもいいのに」

「………別に。飲めなくもない」


初めてこの少年がコーヒーを口にした時の事を思い出して、また笑った。

コーヒー好きだな、と思った僕に対抗するように、砂糖をスプーンに何杯も何杯も入れて頑張って飲んでいたっけ。

澄まし顔の少年に笑って、僕はそれを宥めるようにその頭の上に手を置いた。


「ありがとう」

「…………うん」


何に対してと受け取ったのか、こんな時、少年はいつもうっすらと涙ぐむ。





あれから、数年の月日が流れた。





あの日。

城が崩れそうになった日、僕は別に、死んでもいいと思っていた。城の崩壊と共に、悪戯に人を殺めていた悪魔のような王も死ぬ。

それは、すっきりとまとまりの良い、物語の結末のようだった。


「………ライト」


けれど、彼はそれを許さないだろう。

何故、僕の方に駆け寄ってきたのか。

僕の服を掴むその小さな手を見た。それから、彼の真っ直ぐな瞳を。


「………おれは、かつて。お前となら一緒に死んでもいいかなと思っていた」

「……」

「…だけど、今は違う。死ねない。…悲しんでくれる人が、増えたんだ。おれが死ぬと」

「……」

「だからさ、頼むから、」





「おれと一緒に、生きていこう?」






そんな一言に。

いや、言葉はもう、抱えきれない程、沢山貰っていた。

ありったけの真剣な想いを乗せて。


ああ、

自分から、築いた壁も足枷も。

積み上げていたのに崩してしまった、信頼や幸せも。


壊してしまっても、いいのだろうか。

また、やり直せるのだと、思ってしまってもいいのだろうか……。


「なぁ、お願いだから、『生きたい』って言えよ」

「……」


良いわけがない。

許されるわけがない。


けれど、でも。


崩壊していく城の中、確かに手を差し伸べてくれる者がいた。


その想いにすら、報えないのは……哀しい、……かもしれない。


償い方を探すから、まだ、もう少し、生きたいと足掻いてみても………いいだろうか…。


「ほら!今度こそ、この手をとってくれ」

「………」


差し向けられた手に、僕は、やっと手を伸ばした。


「………」

「………」


固く、握り締める。

握り締めたその手から、まるでダムが決壊するかのように、温かいものがどっと流れて押し寄せた。…そんな、錯覚を見た。

それは確かな体温となり、温もりが伝わる。

瓦礫が落ちてきて、足元も覚束無いこんな状況だと言うのに、僕たちはひっそりと笑った。


「………お前とまた、『生きたい』と願っても……いいのだろうか…」


いいよ!と、少年は不敵な笑みで力強く頷いた。

僕は自然と頬を緩め、頬を伝う温かい雫に気がついた。


「まぁ、ここからどうやって、生きて帰るのかって言うのが専らの課題なんだけどね…」

「…………賭けだけど、一つ、提案がある」

「何?」


僕が指差した先には、布で覆われた大きな乗り物がある。それを見て、少年は「まさか…」と絶句した。


「………壊れているかもしれない。壊れていなかったとしても、……この星とは、さよならだ」

「…………」


それは、星を渡る乗り物だ。

少年は暫く黙っていたが、やがて頷いて、真っ直ぐにこちらを見た。


「…賭けよう」

「……この星とのお別れはいいのか?」

「…生きてこそ、だ。出会えたから、もういいんだ」


また、出会えるかもしれない。

お前に出会えたように。

生きてさえいれば。


と、少年は優しく笑った。


「…………ありがとう」


そう、伝えなければならない気がして。

僕は言って、目を閉じた。何か大切なものを受け取った気がして、胸の一番奥深くに、それを仕舞い込んだ。


「さあ、賭けよう!」


僕達はその乗り物に乗り込み、何年かぶりに、あの懐かしいボタンを押した。













シノはそれを疑ったことがない。


小雪は、生きていると。


だって、とシノは思う。

彼女は確かに見たのだ。

真昼間の空に、大きな星が空を舞うところを。

いやそれは、全く星の形をしてはいなかった。けれどまるで、逆走する流れ星のようであった。

希望を乗せて、燃えていた。


「…生きていて、くれさえばいい」


それは、ちょっと強がりな本心だった。

それでも、思う。


自分の為に手を差し伸ばしてくれる人がいるのは、尊いことだと。

共に生きたいと思える相手に出会えたことは、欠けがえの無いことだと。


だから少し、羨ましくも想う。


私はそんな風に生きた瞬間はあっただろうか。

唯一無二の存在を求められたことはあっただろうか。切望したことはあっただろうか。


小雪の帰って来ない家に、シノは毎日通い、掃除をした。時々、その家の布団を借りて眠ることもあった。

窓を開けて、空を見上げる。

無数の星が瞬いていた。

その何処かに。

彼が息をしているのだと思うと、泣きたくなった。





ーーーー…『好き』だったのかもしれない。




ひっそりと、今更。

そう想う。


(…………だからこそ、貴方の幸せを願っているよ。…貴方達の、幸せを。)


傍で笑って居て欲しかったけど。

私が沢山、笑わせたかったけど。

貴方の傍にいるのが私じゃなくても、貴方の人生のほんの一部に、私が少しでも息づいていたらいいな、とシノは願う。


シノが指を組み、願った時、星が流れた。

目を閉じていたシノは気が付かないけれど。

人間世界には決して手を貸せない神様は、その願いを静かに聴いていた。












「あっ、流れ星」

「え?」


少年が窓を閉めようと手をかけると、タイミングよく、空に流れる星を見た。


「……………元気かな、」

「…………」


小さな呟きは、うっかり口から漏れてしまっていた。

部屋で洗い物をしていたもう一人の少年の耳にも、その呟きは届いていた。


「………ごめんな、」

「何が」


呟くように返した謝罪は、今度は窓側の少年の耳に入り、即座に咎められる。謝って貰うことなんて、一つもないのだと。


「どうせ、元気だから。それでいいんだ」

「…………お前さ、あの…シラー色の髪の女の子のこと、好きじゃなかったのか…?」

「好き?」


好き、という言葉がその少年の口から出てきたことに対して、少年は目を丸めた。だって、その少年は「愛だの恋だのバカらしい」と言ってのけていたのを知っていたから。

髪の色だけじゃなかっただろ、花言葉だって、知ってたんだろ?と言う少年に、言われた少年はしかし、首を横に振る。


「………これは、恋愛感情では無かったよ。でも、とても、尊いものだ。…おれの人生のほんの一部になってしまったけれど、彼女に出会えたこと…彼らに出会えたこと…それは、欠け替えのなく、とても尊いことだった」

「………」

「…何より、お前を救うことができたから」


まだ途中だけど、と柔らかく笑う少年の顔を見て、もう一人の少年は洗い物の手を止めて目を細めた。白い髪、白い肌。瓜二つのはずの少年の顔が、いつだって彼には少し眩しく映った。


『償い方がわからない』


そう言った彼に、小さな少年は言った。


『生きることだ』


綺麗事だな、と思った。けれど、本当は、誰かにそう言って欲しかった。


『善く生きること。片時も忘れないこと。いつまでも、償う心を忘れないこと』


まるで神父様の尊い教えでも説くように、小さな少年は導いた。


『……おれも半分背負うから。生きて』

『………』


少年は戸惑った。

それでも、自分が生きていくことはやっぱり、許されないのではないかと思った。

それでも………どうしようもなく、生きていたかった。


光を見付けてしまった。

もう一度、始めから、と思ってしまった。


生きてまた、知らない星に辿り着いたから。

今度は一人ぼっちじゃ無かったから。


『…………もう少しだけ、生きていくことを…許して貰えるだろうか………』

『………誰に赦しを乞うてるの?お前、神様は居ないって言ってたじゃないか』

『……』

『だから、おれが赦すよ』


小さな少年は笑った。

いつの間にか、そんなによく笑うようになったのだな、と少年はぼんやりと思った。

ああ、生きていてよかったな、と。


小さな少年が二人、罪を背負いながらも生きていくことをどうか許して欲しい。


誰だって、

生まれて来た意味を探しているから。


必死に生きていくことをどうか、ひっそりと見守っていて欲しい。


小さな少年は、指を組み合わすこともなく、心の中でひっそりと願った。

この少年は、神様がいることを信じていた。だって、足繁く通った教会での願いは、叶ったのだから。…そう思う。


彼らの知らないところで、また、星が流れた。














ー完ー

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