第8話 さようならの真実

8.


ナイフは目を閉じたまま、冷たくなっていった。

血を流し過ぎていた。

零れる息も弱々しく、心臓は今にも止まりそうな程だった。


「…………ナイフ……」


途方もなく。

どうしようもなく。

ライトはナイフの体を抱き寄せたまま、地面の上にへたり込んでいた。

助けを求める宛てもない。

治療を受ける為の金もない。


ああ、ただ、死ぬのを待つだけだ…。


体が震えた。

無力な自分を呪った。

世界を恨んだ。


そんな時に、ふと思い出す記憶があった。

彼が、捨てられた子供と言うわけではなかったこと。

母親と妹を残して、家を出たのだと言っていたこと。

彼に宛てた手紙をかつて、受け取ったことが…あったことを。


ライトは恐怖したのだ。


まだライトが文字を読めない時に、こっそりとそれを渡してきた女の人がいた。


『貴方が守っている、小さな少年にどうか…渡して下さい。』


その懇願するような深い色をした瞳に見詰められ、立ち竦んだ。骸骨のように痩けた頬が恐ろしかったわけでない。


しかしライトは、この瞬間に確かに、恐怖したのだ。


彼には、…ナイフには、彼を愛する家族がいると言うことを。

その手紙は、自分達の何かを変えてしまうと思った。

この、幸せと呼ぶにはささやかで、それでも時々胸の奥に灯る光を無視できないでいた、この毎日を。

飢えに苦しんで、それでも共に生きていきたいと思い始めていた日々を。

きっと、この手紙は壊してしまうだろうと思った。


ライトはその手紙をどうすることも出来なかった。


捨ててしまうことも。

ナイフに渡してしまうことも。


ライトはぐったりとしたナイフを抱き上げ、家の中に入った。

寝床にしていた質素な布の上でその体を寝かせ、床下に隠していた空き缶を取り出した。拾ったクッキーの空き缶で、元々錆びていたそれは真ん中も凹んでいてボロボロだった。

こんなところに、まさか自分宛の手紙が入っているなんて。きっと床下に隠さなくてもナイフは思いもしなかっただろうな、と思う。

空き缶の蓋を開けると、中にはポツンと、封筒にも入っていない折り畳まれた白い紙が入っていた。何かの切れ端のようで、それさえもまた、便箋と言うわけではなかった。

震える手でそれを取り上げて、開く。

ナイフの血が付いた手で触ってしまったので、赤い汚れを付けてしまったが今は気にしている心の余裕も無かった。


そこには、住所と、『いつでも帰ってきて欲しい』というメッセージが書かれていた。


ただ、それだけ。

そうだろう、言葉なんて。

いくら伝えてもきっと、伝えきれる事ではないだろうと思った。

こんな心優しい少年を産み落とし育ててきた母親が、慈しむ心を持っていないわけが無かった。


「……………」


そのたった一言の手紙を見たまま、暫く固まって身動きが出来ないでいたが、思考は既にまとまっていた。


(…………ナイフを、帰してやろう………)


それが良いはずだ。

もう既に、虫の息だけど。

やがてきっと、亡骸になるけれど。

彼を帰してやろう、と思った。

それは、自分の優しさから来る思考では無いと知っていたが、知らないふりをした。

書かれていた住所はそう遠いものではなかった。この手紙が無くとも、ひょっとするとナイフは時々こっそりと母親や妹の暮らしぶりを遠くから眺めていたかも知れないなと思った。

そっとナイフを抱き抱え、紙に書かれた住所を頼りに歩いた。

道中、「ひっ…!」と短い悲鳴を上げる者はいたが、遂にその小さな彼らに声をかける者は現れなかった。


(…………ほんと、この星は。糞くらえだな。みんな、死ね)


怒りに燃えると言うよりも、静かに、そう思った。

みんな、死ねば良いのに。

何故、ナイフが死んで、人への思いやりの心を持たない金持ち達がなんの不幸も知らずにのうのうと生きていけるのだろうか?


ああ…、吐きそう…。


急な眩暈が何の為のモノか分からない。要因が沢山有り過ぎて。

やがてナイフの家の前まで辿り着き、まだ辛うじて息をしていたナイフを、そっとその扉の前に寝かせた。

コンコンコン、と三回ノックした。


「………さよなら、ナイフ」


ちゃんと聞こえるように、その耳元で囁いた。それから、彼がくれたなけなしのお金をその横たわる体の上に置いた。

家の中から人の動く気配がして、ナイフは直ぐにその場を立ち去った。


それからの日々は、色の無い世界にまた逆戻りだった。無味乾燥。何を食べても味がしない。死んでいるように日々を過ごしているのに、腹が立つのは、それでも飢えに苦しむと言うこと。生きているのだと、自覚して泣きたくなった。


救いなんて、最初から。無ければ良かったのだ。


否、彼の存在は『救い』と言うには無力で、まるで細い糸のようなものだったけれど。

確かに、ライトに色を与えた。食べ物の味がした。リンゴが甘いなんて、初めて知った。パンに味の違いがあるなんて、知らなかった。

文字が書ける喜びを知った。文字が読めると広がる世界があった。


ああ、確かに。

時は何も解決はしてくれなかったけれど。

それでも確かに、僕は幸せだったんだな、と。

失って気が付くものがある。

この感情を知っている、と思った。そう、『虚しい』。


ああ、死にたい…。


そう思うのに、食糧を盗んでは食べた。

死にたいと思う程に必死に生きているようで、なんだかそれが滑稽で、矛盾していて、悲しくて、泣いた。

息を殺さなくても、誰も居ない部屋の中であるのに息を殺した。

一人で、膝を抱えて泣いた。


そんなある日。

無能なこの星の王が、違う星に観光旅行するという噂を耳にした。

王は民にまるで興味がない。

僕達も、王に何も期待していなかった。

だけどその噂は、酷く頭に木霊し、ライトを苦しめた。


ああ、もう、何もかも…。


捨ててしまおう。

飛び出してしまおう。


自身の殻を破った訳ではない。

放棄したのだ。

もう、この星に居たくないと思った。

消えてしまいたいのに、消えてしまえない自分を許せなかった。

違う星でなら、違う自分に出会えるのでは無いかと思った。


その晩、王の住む城に忍び込んだ。


本当に、それがあったのには、久し振りに驚いた。

星を渡るという乗り物。見たこともない形をしていた。

すぐにそれがそうなのだと分かった。


初めて人を殺めたのは、その日の事だった。


警備に気付かれ、喉を一突き。

ただ、それだけで人は死ぬ。


それなのに。

自分はこんなに、意地汚く生きていて、恥ずかしいなと思った。


三回回ってワンと哭いて金が貰えるならそうしたし。

靴を舐めて金が貰えるなら、そうするべきだと思って生きてきたのに。


僕はこんなに、生きたいと思っていたのか。

恥ずかしいな、と。

初めてそう、思った。


止める者が居なくなり、その乗り物に乗り込んで、適当にボタンを押してみた。

するとそれは、ふわりと重力に逆らって空に浮かんだ。


「…………さようなら、」


もう、どうにでもなれと思ったのに。

何処かで新しく生きていこう、と思っている図太い自分に失望して嗤った。


彼はこの星に………『ライト』に、

さよならを告げた。










目を覚ますと、まず、彼の視界には見慣れない天井が映った。

それから、酷く懐かしい声を聴いた。


「ーー」


酷く、懐かしい名前で呼ぶ者がいた。


そんな、まさか。


これは夢だろうか?

はたまた此処が、死後の世界というやつなのだろうか?と、ゆっくりと首を動かして、声のした方を見た。

そこには、記憶のままの母親の姿があって、ナイフは漸く、目を丸めた。


「………どう、して………」

「ああっ…!神様…!良かった………。死んでしまうかと思った……!私の大切な、小さくて尊い命よ…!」


泣き腫らした目に更に涙を滲ませて、ガリガリに痩せ細った母親は、彼を力強く抱き締めた。

しかし、ナイフは感傷に浸らない。

そんなことよりも、得体の知れない恐怖に、先程から汗を流した。


どうして、おれは生きている?

どうして、おれは此処に居る?


(…………ライトは、何処に居る……?)


胸がざわざわと落ち着かず、体を起こして駆け出そうとしたが、全身にまるで力が入らなかった。

起き上がろうとした事を察した母親が、ボロボロになったナイフが家の前で寝かされていたこと、医者を呼んで治療を施して貰ったこと、後は運次第だと言われて、既に五日が過ぎていたことを話した。


「まだ、無理をしてはダメよ。血が足りないわ」

「…………ライトは…」


名前を出したって分かるわけがないのに、訊いた。

しかし意外にも、母親は「きっと彼が」と口にした。


「きっと彼が、貴方をここまで連れてきてくれたのね…。死にそうな貴方を、見付けて運んできてくれたのね。彼に感謝しなくては。貴方が目を覚ましたことを、きっと彼に伝えなくてはいけないわ」

「…………」


浮かんだ疑問を口にしなかった。

そうか、ライトと母親には面識があったのかと、ただその事実を受け入れただけだった。


「………帰るよ」

「……かえる、って………」


母親は驚いた顔をした後、酷く辛い顔をした。

しかし、「貴方の家は此処じゃないの」と言う言葉を飲み込んだ。その、感情と一緒に。

そして、優しく笑った。


「……そうね。きっと、ライトさんも貴方の帰りを待っているわ…。でも、またあの暮らしをするには、もっと体力と筋力をつけなければ。ライトさんも、貴方の介護をしながらの生活になってしまうわよ」

「………」


そう言われれば、ナイフには返す言葉がなかった。

その、深い思いやりと正論に。

母親の想いに、ただ静かに頷いた。



それから、一月と半月の休養とリハビリをした。

通ってきていた医者はそれを「驚異的な回復力だ」と言った。奇跡だ、とも言っていた。あんな状態で、五日も目を覚まさなければ、何らかの後遺症が残ってもおかしくないはずなのにと驚いた。

母親が仕事に出掛けている間に、ナイフは家を出ることにした。まだ幼い妹も母親の職場の託児所で預かって貰っていたので、家には誰も居ない。

書き置きもせずに。持っていく荷物もなく。

ナイフは身一つで家を出た。


やがて辿り着いた彼らの家を見て、ナイフの胸には目を覚ました時のざわめきが甦る。


この家には、人の気配がない。


見れば、分かる。

生活をしていれば溜まらないところに、埃があった。

時が止まったように、生活感が感じられなかった。

めくれてしまった天井のブルーシートからいつかの雨水が家の中を濡らしていたが、それをどうこうとされた形跡がない。


「……………ライト……」


呟きが零れ、膝から崩れ落ちた。


此処に居ないのなら、何処へ?


ぐるぐると思考が巡った。

何と無く、この星で生きているとは思えなかった。

しかしでも、星を出る術など持たない。

だとすると彼は、………ひょっとすると………。


ひゅっ、と喉が鳴った。


ドクッドクッと胸が鳴ったが、(いや、)と冷静に、思考を止めないでいようと頭を使う。


(まさか、ライトが自ら死を選ぶことは考えにくい。……だって、彼は………誰よりも、)


生きることを、切望していた。





それから暫くは、情報を求めながらナイフは一人で生きた。

探す彼の面影にすがりたくてか、その一人称はいつの間にか「僕」になっていた。


そんなある日。

無能なこの星の王が、違う星に観光旅行するという噂を耳にした。

以前は何事か事件が起こったらしく中止となり、この度は警備を増やしているのだとか。


「………」


ドクン、

心臓が。脳みそが。全身が。

これだ!と、叫んだ。


そうか、ライトは。

やっぱり違う星に行ったのか。

そう思った。


ライトに会いたい。

ただ、その想いだけ。


ナイフは綿密に計画を立てた。

出発の日はいつなのか?から、強化された警備をどうやって突破するのか?まで。

たった一人で乗り込むことに、どうすれば成功率が上がるのかを考えた。

生きてまた、ライトに会いたいと思った。

気を失っている内に永遠の別れになるなんて……違う星へ行ったなんて。「はい、そうですか」と納得出来るものでは無かった。そんな、薄っぺらい関係では無かった。


作戦の決行の日は、王が城外視察と言う…名ばかりの観光名所巡りをする日にした。

護衛に何十人もの兵士が付く。

その日、その時間帯を狙って、「城に行くとタダでパンが貰えた。 まだ貰えるかもしれない」という噂を貧困層やホームレスに流して回った。

ただでさえ城の兵士の人手が減っている中、誤情報に踊らされた民が城へと詰め寄り、留守番をしていた者達が対応に追われた。

そして、それとは反対の裏門と東門の爆発である。


門が爆発される前から既に城の敷地内に忍び込んでいたナイフは、その騒ぎに乗じてサッと更に城の奥へと移動した。

星を渡る乗り物は城の中庭に設けられた倉庫に保管されているらしい。

騒ぎの為に多少の人手は避けたが、反対にここの警備は更に警戒を強めたとも言える。ナイフは、単純だが陽動作戦の為に、自身が侵入したいと思っている方向とは反対側の窓を少量の火薬で爆発させた。爆破音に合わせて、反対側にある窓ガラスの窓の鍵周辺だけを小さく叩き割り、鍵を開ける。警備に当たっている兵達が反対方向に気を取られている内に、中へ侵入した。

それでも勿論、星を渡る乗り物に駆け寄る小さな影に気が付く者がある。


「おいっ…!」

「侵入者だッ…!」


何事かと今更気が付く兵の手はナイフには届かない。ナイフは、星を渡る乗り物の前に立つ兵士らの鎧の関節部分ー作りが甘くなっているところーに的確にナイフを突き刺し、隙を突いて中に乗り込み、これだと思うボタンを押した。


「…このッ!」

「!」


乗り物が動き出すには少しのタイムラグがあり、一人の兵士の拳が思いっきりナイフの頭を殴った。目の前に火花がちり、視界が揺れた。けれど、押されたボタンによって、ナイフの乗った乗り物はそのままシールドを被り、宙を舞う。

ああ!と、兵の誰かが叫んだ時には、その乗り物は既に空へと消えていた。






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