第5話 祈り

5.




皆、親に捨てられたのか?なんて憐れみの籠った目をして言うが、おれは違った。

おれの方から、家を飛び出したのだ。

「もう、こんな家は嫌だ!二度と帰って来るか!」なんて言って。

傷付いた母親の顔は、生涯忘れる事はないだろうと思う。

痩せこけた頬。鎖骨もくっきりと浮き彫りになっている。骨が服を着ているだけのような体に、幼い少女を抱いていた。妹だ。妹もまた、服から覗く小さな手足が骨張っていて恐ろしく細い。


大好きだから、おれは出ていくよ。


そう伝えるのと、先程の言葉と。口にするその直前までどちらにすべきか悩んだが、決めかねていたのに口から出たのはそちらの言葉だった。

これでよかったのだ、と握った拳に力を込めて思う。

宛てもなく、走った。


父親はいない。

母だけの稼ぎでは、家族三人で食べて行くことは難しかった。子供なりに、理解していた。一人減るだけでもその負担は違うのだろう、と思った。

母は、教養があった。ちゃんとした仕事もしていたが、結婚を機に辞めたのだと言っていた。

よく笑う、ちょっと頬のふっくらとしていた女性だったように思う。

物心がついた時の記憶と今では、その風貌に天と地ほどの差があった。


新しいものを買ってあげられなくてごめんね。といつもすまなそうな顔をするけれど、そう言って文字を教えてくれる時間が好きだった。


自分達を捨てた父親の事を憎いと思ったのは、どんどんと痩せていく母の口癖が「ごめんね」になった時だった。

子供の自分が、どうしたら家族を守れるのか。

小さいけれど、この頭でしっかりと考えた。その結果が、これだった。


家に居てもまともに食べられることは少なかったので、大したことは無いのではないかと考えていたが、甘かった。


飢えは直ぐにやって来た。

孤独を伴い、心を抉る。


暮れていく空と一緒に、未来も暗い陰を落としていく。

白紙の明日が、怖かった。

急に寒気を感じて身震いする。

そこで初めて、自分は今まで、確かに『守られていた』のだと知る。


すっかり暗闇に包まれても、窓から零れるどの灯りにも近寄らずに、より暗い方を選んで歩いた。

どうやって生きていこう、と考えると涙が零れてしまい、誰も出歩いてなどいないのに、誰かに見付かることが嫌だった。


盗むことを覚えたのは、割りと直ぐの事だ。

この星は貧富の差が激しい。町には、おれと同じような子供達が寄り添い生きていた。

彼らと群れたわけではなく、彼らが連携してそこら辺の市場から果物なんかを盗むところを見て、「そうか、盗めばいいのか」と学んだ。

生きる為に、盗むのだ。

きっと、神様は赦して下さるだろう、と思った。

だって、生まれ落ちた事に誰も罪なんて持たないのだから。


「君、お腹がすいてはいないか?パンをあげよう」


そう言って、声をかけてきたのは教会の神父だった。籠一杯にパンを入れ、物乞い達に配っていた。おれはつい、カッとなってしまった。神父様にもパンにも、なんの罪は無かったのに。そうやって声をかけられるのは、やっぱり惨めだったから。


「同情するなッ…!」


振り退けた手が差し出されたパンに当たってしまい、宙を舞う。あ、と思ったが、おれは駆け出してその場から逃げた。


すっかり好むようになった暗がりで、身体を丸めて息を潜めた。




誰か、……助けて。




いつも、祈っていた。

声に出すことも出来ない、祈り。

『誰か』なんて、居ないのに。

神様なんて、きっと居ないのに。



「……………ねぇ、」



それなのに、肩に触れる手があって驚いた。

心臓が止まるのでは無いかと思った。

驚いて振り返った先に、闇に染まらない白い髪が映った。瞳だけが、特徴的な色をして揺れていた。


「…………」

「…………」


暫し、見詰め合い、沈黙。


「………良かったら、盗み方、教えてあげるけど…」


先に口を開いたのは、彼だった。

暗く低い声は鼓膜を震わせ、心を震わせた。

彼からは、何故か既視感がした。初めて会ったような気がしなかった。出逢うべくして出逢ったような。そんな気が、した。


細い、糸だと思った。


けれど、おれは手を伸ばした。

差し伸ばされた手を、白髪の彼は握ってくれた。

存外に、力強い腕だった。


斯くして、おれ達は出逢った。

彼から感じた既視感が、『自分によく似ていたから』だと分かったのは、共に暮らすようになって直ぐだった。

でも彼の方が、『救い』に冷めきっていて、それなのに、それ程に『救い』に焦がれている。そんな印象を受けた。


春夏秋冬と、変わる季節を共に過ごした。

おれは彼に文字を教えた。

彼がおれの手をとってくれたように、おれも彼に何かしてやりたいと思った。ささやかなことで、笑うような日も増えた。おれ達は笑うことが苦手だったが、それでも口の端を持ち上げて、目を笑わせるような日があった。

少しずつ、胸の内に灯る灯りがあった。

それは、お互いにそうなのだろうと思っていた。

しかしでも、「………お前に、伝えておくことがある」と、ライトー彼ーは、酷く真面目な顔をして言った。


「何?」


おれが首を傾げると、ライトは苦い顔をした。それから、少しだけ言い淀んで、それでも言葉を音にして紡いだ。


「……僕は、お前の『救い』にはなれない」

「……」


僕達はあまりにも良く似ているから、だからこそお前を助けてはやれないよ、と。


「……」


おれは返事が出来なくて、ただ押し黙った。

裏切られた、なんて、思わない。ショックなんて受けていなかったけれど、言葉が紡げなかったのはそう、言った彼の方が、今にも泣き出しそうな顔をしていたからー……。


閉じ籠っているのは彼の方だった。

幼い子供なのは、彼の方だった。

救いを切望しているのは、彼の方だった。


おれは。

今度は、そんな彼の為に何が出来るだろう?

また、この小さな頭で考える。

彼の救いになってやるには、確かに、おれ達はあまりにもよく似ていた。ーー…小さくて、無力なところが。


少しだけ考えてみても、より深く悩んでみても、やっぱり行き着く先は『お金』だった。


単純明快。


お金がなくても生きていける、なんて。そんなのは本当にお金に困ったことがない人間の綺麗事だ。

盗むだけの日々から少し余裕が生まれたら、ほんの少しだけ、世界の見え方が変わるのではないかと思った。


教会でお祈りを捧げるのが日課になった。

祈る神なんて居なかったのに。

毎日熱心に祈っていれば、ひょっとすると、通じる神がいるのではないかなんて…期待して。


「………君、美しいね。モデルをやらないか…?」


そこで声をかけて来たのは、画家というおじさんだった。中肉中背。このご時世、絵と言うものは儲かるのか?なかなか、小綺麗な格好をしていた。


「…………お金が、貰えるなら」

「勿論だとも!」


おれは頷いた。

ああ、なんだ。神様って本当に居たんだ。と思った。

おれの祈りが通じたのかと、世間知らずのおれは少し、心が温かくなるのを感じてしまった。






「脱げ」


それは、ヌードモデルと言うことではなかった。


「金ならいつもの倍は出そう」


その、汚ならしい歪な笑顔に、吐き気がした。

いつもの薄暗い狭い部屋で急に寒気がして、自身の腕で自分の身体を抱き締めた。鳥肌が立っていた。換気という概念に欠けるこのアトリエは、絵の具の匂いが籠っていて、いつも以上に頭がくらくらとした。


「………なにを、」


何を言っているのだ…?

冗談だろう?と薄く笑えるくらいには、おれはその画家と親しくなっていた………気でいた。

食事をくれた。時には、風呂を準備してもくれた。ただ黙ってポーズをとってじっとしているだけで、お金をくれた。悪いヤツでは無かった。心ない暴言を吐かれた事など、今まで一度もない。


「更にその倍出したっていい。どうだ?悪い話では無いだろう?…金が、欲しいだろう?」


にたり、と纏わり付くような厭な嗤いに、再度おれは背筋をゾッとさせ、恐怖に凍てついた。信じられないという思いと、それでも増していく憎悪で動けないでいる内に、画家はじりじりとおれの傍に寄ってきた。


「お前のその、儚さが美しい。是非、私のものにしたい」


お前にとっても悪い話ではないだろう?と、もう一度。

今度は耳元で囁かれて、やっと、おれは重ねられた手を振り払った。


「………ッ馬鹿にしやがって……!」


憤り。

憎悪。嫌悪。絶望。惨めさ。

色々な感情が押し寄せて、涙が滲んだ。顔が熱い。血が、沸騰するのではないかという熱を持つ。

突き飛ばした画家の体はふらつき、傍にあった花瓶にぶつかった。花瓶の割れる音と、画家がその上に尻餅をつくのはほぼ同時に見えた。


「っいてぇ、このガキが………ッ!」


しかし割れた破片で尻や床に着いた手を切ったらしい画家は顔を真っ赤にさせて逆上した。あ、と思った時には、視界が歪み、左の頬や首に激痛が走った。殴られたのだと、遅れて理解した。鉄の味がする。舌が痺れた。


「恩知らずの、薄汚れた溝鼠が…!大人しくいう通りにしていればいいんだ!お前のような存在はッ…!」


尚も振りかぶる手に、今度はしっかり防御した。代わりに、鳩尾に一発入れてやる。


「ぐッ…!糞がッ!!」


汚ならしい唾を撒き散らしながら、思いっきり頭を殴られた。脳が揺れて、視界が霞む。崩してしまった姿勢を見逃さない。画家は慈悲など無く、続け様におれの腹や腕を殴っては蹴った。

正当防衛というものは『人権』があって初めて成立する。ーーーー…それでも、おれはされるがままなんて御免だった。

身を丸め固くして急所を守りながら、反撃の隙を窺った。しかし頭に血の昇った画家は尚も顔を真っ赤にさせて、殴る手を止めない。殴られる事に何度も耐えて、やっと画家がその足を振り上げた時、今しかないと思った。

低い姿勢のまま突進し、バランスを崩した画家の上に馬乗りになった。勿論、子供のおれの体重などなんてことはない。反撃に殴る力なんてものも残っていない。

おれは、密かに拾っていた花瓶の破片を画家の目に突き立てた。


「ぎゃああぁぁぁぁぁーッ!!」


断末魔。

痛みにのたうち回る画家から振り落とされ、おれは這うように外へと続く扉に向かった。


『………いいか、チビ。まず、金をくれるというヤツの言葉には忠実に従うんだ。三回回ってワンと哭けと言われたら、哭くし。靴を舐めろと言われたら、喜んで舐めるんだよ』


薄れる意識の中で、彼の……ライトの声が聞こえた。

走馬灯と言うものなのか、それは出会って間もない頃の彼の台詞だった。


『プライドが何になるんだ?喉は潤うか?飢えは満たされるのか?そんなの、なんの役にも立たない。役に立たないものから捨てなくちゃ、生きてなんていけない』


今日の出来事を、ライトはどう評価するだろう。

おれを莫迦だと笑うだろうか。

浅はかだと、諌めるだろうか。


頬を伝うのが脂汗なのか血なのかわからない。片目が開かず、視界も悪い。覚束無い足取りに、声をかける者も居ない。まるで皆、おれなど見えないかのように上手に知らん顔をする。


ああ………。

それでも。いや、それだからこそ。


想う。

君の、尊さを。


家のある者でもない。

金のある者でもない。

毎日当たり前な顔をして過ごしている者でもなくて、お前が。

ライトだけが、おれの手を握ってくれた。


憐れみや同情ではなく、共に生きようとしてくれた。


『お前の名前は今日から『ナイフ』だ』


苦笑しながら、彼は告げた。いつだったか、おれが盗みに失敗して、今みたいにボロ雑巾のようになっていた日だ。月の綺麗な夜だった。


「………じゃ、お前は『ライト』で」


月明かりに照らされた、彼の白髪が輝いていて美しかったから。おれは、少しだけ笑った。


ああ、そうか。


震える足になんとか力を込めながら、前へ進む。彼の待つ、おれ達の家まで。


神様なんてものは、やっぱり本当に居ないんだ。

手を差し伸べてくれた、お前こそが、ともすればおれの神様だったんだなぁ…。


月明かりが眩しくて細めた目は、きっとあの時の彼を直視出来なかったのだ。


ああどうしよう、もしかしたらおれは、今日死んでしまうかもしれない。


そうなったらどうしよう。

彼を、また一人にしてしまう。

絶望の縁に、残していってしまう。


二人で建てた、質素でボロボロの、けれど温かさの詰まった家が見えた。

つぎはぎだらけの壁や屋根に削ぐわず、扉だけは木の板を集めて少しだけ丈夫に、立派にした。「ただいま」「おかえり」というその敷居が欲しかったから。トントントンと叩き、中から開けて貰うそれにも憧れた。

二人で積み上げてきた時間は確かに、何を解決もしなかった。現状を変えてくれなどしない。ただ、流水の如く流れるだけだった。

けれど確かに、積み上げてきたものはあって。

おれは、それを「幸せ」だと……お前に出会えて、「幸せだった」と。伝えなくては…………。


もうすぐそこだった。

ノブに手を伸ばして………。


するり、とノブを握り損ねた手が落ちて、おれの記憶は一旦途切れる。









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