第3話 ナイフとライトー小さな少年達ー
3.
「……おーい。チビ、何処に行ったんだ」
キョロキョロと辺りを見回しても探している少年の影が見えなくて、僕は「まあいいか」と直ぐに諦めた。
どっかで死んだのかも知れないな。
と思った。
服の中に隠していたパンとリンゴを取り出した。
寄り付くものの居ない廃屋で食べるそれらは、屋根のあるところで食べるもののと何ら変わりないもののはずなのに、味がしない。
生きる為に、食べる。
生きる為に、盗む。
生きる為に、傷付ける。
明日は死んでいるかもしれない。と、いつだって思う。
それも、あるいは悪くないのかもしれない。と思いながら目を閉じて眠りにつく毎日。
親の顔も知らない自分がこの歳まで生きられたのは…同じく、病だか捨てられたかで親を亡くした仲間に育てられたからだ。けれど、それも永遠には続かない。優しい者から死んでいく。
病は誰にでも平等に体を蝕むが、仲間達は大体が鞭で打たれたり遊び半分で殺された。飢えて死ぬこともある。生きていても、ハエが集る。僕達は常に、死臭がしているのだ。
背後から物音がして、慌てて振り返ると彼の姿があった。
「…………ナイフ」
彼ーナイフーは、ボロボロになっている服をボコボコにさせていた。
「………お前、それ、隠せてないよ」
「………」
指摘されちょっと不満そうな顔をしたナイフだったが、僕が手に持っているパンとリンゴを見て、途端に得意気な顔になる。
「………でも、今日はおれの勝ちだな!」
「………別に、勝負なんてしてないけど…」
辛うじて服の形をしているそれをたくしあげると、ボトボトと、パンや果物が落ちる。
「これで、何日持つかな」
「……傷む前に食べないと。腹を下して死ぬのは御免だろ?」
冷蔵庫でもあればなぁ、とナイフが空を仰いだ。
文字通り、空が見える。
こんな廃屋に住み着いている僕達が、冷蔵庫なんて持っているはずがない。
冬なら良かったのに、とナイフが笑うと、冬はカチコチに凍るから寧ろ食べられたものじゃないよ、と返す。冬はマンホールの中で寒さを凌がなければ、僕達もそれらと同じようにカチコチに凍って死ぬ。
夏の暑さも、冬の寒さも、飢えも、簡単に僕達を殺す。
ナイフは瓦礫に転がるパンを一つ拾い上げて口に運んだ。
「………砂の味がする…」
一口食べて眉をしかめたが、それが口から出されることはなかった。
…………大分、表情が豊かになったな……。
その、小さな彼の保護者にでもなったような気持ちで思う。…勿論、彼が鞭で打たれていても助けには入らない。実の子供を捨てる親と同じ保護者の部類に入りながら、それでも時々には、やはり慈しむ心があった。
彼を初めて見たのは、そろそろ丁度、一年くらい前になるのかもしれない。
彼は、慈悲深い神父からの施しを振り払っていた。
まだ、十にも満たない顔立ちは、しかし、大人でも簡単に殺してしまうような獰猛さを兼ね備えていた。
同情するな!と、彼は言う。
ああ、勿体ない。
僕は思った。宙に舞うパンを眺めながら。
彼はまだ、本当の飢えを知らないのだ。捨てられたばかりなのだ。と思った。
どんなに惨めでも、情けなくても、タダで手に入る施しは受けた方がいい。三回回って「ワン」と言って手に入るなら、喜んで三回回って「ワン」と言うし、靴を舐めて食べ物が恵んで貰えるなら、やはり喜んで靴を舐めるべきだ。
その場から走り去って行った彼を、気が付けば追いかけていた。
小さ過ぎる影は、案外すばしっこく、ひょっとするとこの人だかりに見失ってしまうかもしれない、と思ったが直ぐに追い付くことができた。
彼は、路地裏の行き止まりで小さくなって身を丸めていた。
「……………ねぇ、」
やめておけばいいものを、僕はつい、彼の震える肩を叩いてしまう。
びくりっと、大きく震えて、彼は振り替える。
「…………」
「…………」
目が合って、ハッとした。
ほっとけないわけである。
その、怯えた目。震える小さな体。自身を抱き締める腕。痣だらけの肌に、汚い身なり。
その全部に、見覚えがあった。
彼は、紛れもなく、『僕』だった。
それから、彼との共同生活が始まった。
とは言え、それはそんなに優しいものではない。
同じ空間で寝て起きて、お互いが盗んだものを食べながら過ごした。時には、会話の無い日もあったし、盗みを働いた店で捕まり、殴られ、意識を飛ばして二日程帰ってこない日もあった。
それでも、春夏秋冬と、変わる季節を共に過ごした。
代わり映えのしない毎日だったが、ささやかな思い出を重ねて過ごした。
「ライト、お前、文字は読める?」
ナイフがある日、聞いてきた。
互いの呼び名なんてどうでも良かったが、「チビ」とか「おい」とか「お前」だけでも成り立っていたのは、二人が居る空間だけだった。帰ってこない彼を探す時にはやはり名前が必要だと思い、適当に目についた果物ナイフから『ナイフ』と彼に名前を付けた。盗みを働く時の鋭い目付きはナイフさながらだと、称して。
すると不思議なもので彼も、僕に呼び名を付けたのだ。
『ライト』と。
真っ暗な夜に、月ばかりが明るい日だったからかもしれない。
傷と痣だらけでボロボロの体を抱き上げて、家に連れて帰った夜だ。目を覚ました彼に、「お前の名前は今日から『ナイフ』だ」と苦笑して言えば、「………じゃ、お前は『ライト』で」と微かに笑ったのだった。切れた口が痛むのか、それとも腫れた頬が邪魔をしたから、本当に、少しだけ。…『笑った』ように見えただけかもしれない。
「なあ、どうなんだよ?」
「えっ、あ、ああ…何だっけ?文字?」
読めるわけ無いだろ、と返せば、ちょっとだけ得意気な顔をして、「じゃあ、おれが教えてやるよ!」と目を輝かせた。
「………別にいいよ。読めなくても。読めたからって、別になんてことはないじゃないか」
「そんなことはないよ!今日は、捨てられていた本を拾ってきたんだ。読めば、知識になる。なかなか、悪いことじゃない」
歳は最低でも三つは離れているであろう、彼は、そんなことを言う。読み書きが出来ると言うことは確かに貴重だった。こんな暮らしを重ねていれば、当然、仲間内では特別がられる。でも、だからと言って明るい未来が待っているわけではない。
「…………僕は、いいよ」
「そんなこと言うなよ!一緒に読もうよ!この本、おれには少し難しいかも知れないだろ。手伝えよ!」
ナイフはなかなか強引だった。
盗みをせずに過ごしている時間はいつも無機質で、何をして過ごすと言うわけでも過ぎていくので、結局、暇潰しのように僕達は文字の読み書きを練習し、捨てられていたものを持ち帰っては、沢山の本を読んだ。
ささやかな、家を作った。
瓦礫を積み上げて固定して。屋根はそこらへんの枝木を蔓で巻いて形を作って、仕上げに捨てられていたビニールシートを被せた。
雨水を貯めて、風呂にした。
時には水を入れたペットボトルで日光の熱を集め、火をおこしたりもした。
水と空気と食べ物だけではなく、知識だって生きていく為に必要だったのだなと思う。
かと言え、日々が彩り出してきたのかと聞かれれば、勿論そんなことはない。
僕達は常に空腹で、明日はどうやって生きていこうかと考える。
(……………一人で生きて一人で死んでいくんだと、そう思っていた)
本は、少なからず僕を情緒的にした。
くだらない、と吐き捨てる。感情論ばかりの物語が僕は嫌いだった。
けれど、僕の放り投げた本を拾い上げて、ナイフは黙々とそれを読んでいた。
…そんな様子を見て、僕も時々、それをこっそりと読むことがあった。あまりに熱心にナイフが読むから、何か、特別な事でも書いてあるのかと思った。
そこにあったのはやっぱりくだらない、感情論で書かれた文字の羅列。好きだとか嫌いだとか、幸せだとか不幸だとか、愛だ恋だと、そんなことは余裕があるからかまけられる。
こんなもの何が面白いのかと、やっぱり僕はそれを投げ捨てた。
「おれ達は、みすぼらしく、お金もないけど。でも、だからこそ、自分が人間であると言うことを誰よりも忘れてはダメなんだ」
ナイフがそんなことを言い出したのは、完全に『物語』を読んだことに触発されての事だと思う。
「……」
僕は呆れて、物も言えなかった。
尊厳も与えられていない、ゴミのような僕達が?いっちょ前に人としてのプライドを持ったとして、なんになる?パンにもならない。
「………お前に、伝えておくことがある」
「何?」
ナイフは純粋な顔でその小首を傾げた。そうしている様はまるで、普通の子供のようだ。
「……僕は、お前の『救い』にはなれない」
「……」
「僕達は、あまりにも良く似ているから」
だからこそお前を助けてはやれないよ、と紡ぐ。
「……」
ナイフは押し黙り、何も言葉を紡がなかった。
この生活で、こんな人生で……希望を持つ者と絶望しか持たない者、どちらが生きていきやすいかなんて馬鹿でもわかる。
その日から、ナイフは押し黙ることが増えたように思う。
捕まったわけでもないのに、家に帰ってこない日も増えた。僕達はそれを詮索するような仲ではない。共に過ごそうと、所詮は他人だ。自分のことで手一杯なのに、他人にかまけている時間なんて無い。
だから、教会に入っていく彼の姿を見たのは、本当にただの偶然だった。
ちらりと中を覗いてしまったのは、たった一握りの好奇心だった。
彼は大きな十字架の麓で両膝を着き、指を組んで祈りを捧げていた。教会のカラフルなステンドグラスから差し込む光を受けて、ボロ雑巾のような身なりのクセに、その姿はどこか幻想的に映った。
神様なんてものは、居ないのに。
そう思った。
何に対して祈っているのか、と気が付けば薄ら笑いを浮かべていた。ひきつるように、頬が痙攣する。
くだらない。
そう思い、静かに教会の扉を閉めた。
その日から一週間程、ナイフは帰って来なかった。
遂に死んだのか、と思った。
亡骸くらい探してやろうか、と相も変わらず味のしないリンゴを食べながら思う。
もう何処かで、鴉につつかれてしまっているかもしれないな、と思った。野犬に食い荒らされているかもしれない。
「………」
やっぱり、探さない方が良いだろう。
考えを改め、空を仰ごうとして、そう言えば家の中に居たんだったなと気が付いた。
視線を上げれば、空ばかりがいつも広がっていた。いつの間にか、雨風を凌ぐ家を建てていた。
それは、一人では無し得なかった事だ。
自分だけの為には、しようとすら思わなかった労働だ。
「…………」
空を見れば太陽の位置からおおよその時間がわかった。本を沢山読んだからだ。
夜になると浮かぶ光る無数の小さな点々を、『星』と呼ぶのだと知った。
彼の名前を安易に『ナイフ』と名付けたことを少し、後悔した。今となっては、全然似合わないなと思う。
認めたくなかったが、認めてしまった。
彼はそう、いつの間にか、自分にとって欠けがえのない『星』になっていた……。
「…………仕方無いな…」
探そうか、骨くらいは見付けてやれるかもしれない。
と重い腰を浮かした時、扉の向こう側で何かが倒れるような物音がした。
「!」
嫌な予感が一瞬にして全身に駆け巡り、震えた。
「…………ナイフ、戻ったのか……?」
静かに絞り出した声とは裏腹に、心臓の音は煩く響く。胸を痛いぐらいに叩き、落ち着かない。
まさか、と想像する扉の向こうは、彼の死を…よりリアルにイメージさせた。
頼むから、もし死ぬなら、僕の目の届かないところで死んでいておくれ。
自分がそう願っていたことを初めて知った。
そうすれば、諦めきれるから。
死んだ人間は、還らない。
だけど、もし、虫の息でいる彼が傍に居たとしたら、どうだろう?
生きてくれ!と願うだろう。
いっそ死なせてやりたい、と想うだろう。
彼の代わりに泣くだろう。
彼の代わりに怒るだろう。
彼の代わりに嘆くだろう。
こんな、運命を。
問うだろう。
生まれ落ちた意味を。
呪うだろう、生まれてきたことを。こんな運命を。
誰も助けてくれないことを。神様を。
ドッドッドッと通常よりも早く脈打つ心臓の音に、額から汗が流れた。
しかし、依然としても一歩も動けずに扉を凝視する。
「…………ライト……、」
「っ……!」
確かに、その、自分を呼ぶ声が聞こえた。
か細く、弱々しく。けれど、確かに、その名前を呼んだ。
たまらず、駆け出していた。急いで扉を開けると、案の定、ボロボロになったナイフが倒れていた。
額から赤黒い血が流れている。目の周りは青黒く腫れ上り、片目が開かない。
「…………ナイフ………」
「……………………ライト、」
そっと上半身だけ抱き上げれば、ぬるりとした感触があった。生暖かいそれらとは打って変わって、彼の体は冷たい。
「………………………死ぬな………」
小さな祈りに、ナイフは少しだけ口の端を歪めて笑った。
「………これを、……」
右手に握りしめていた、小さな布製の袋を手渡される。
チャリ、と音がして、中にお金が入っているのだろうかと思った。
僕達は盗みを働くが、働いてお金を稼いだことはなかった。
驚いて何も言えないでいると、彼はポツリポツリと言葉を紡いで説明してくれた。
教会で毎日祈りを捧げていたら、画家に声をかけられたこと。
暫く絵のモデルとして報酬を貰っていたこと。
脱げと言われて、逆らったら殴られて、今に至ると。
「…………本当に、この世界は、……糞くらえだな……」
痛むだろうに、彼はまた笑った。
僕よりも一回りも二回りもの小さな体は、驚く程軽い。
こんなに、小さく儚いものにも、容赦ない。運命も。大人も。
「……おれ、尊厳は、…守ったんだ…。やっぱり、おれが誰よりもおれのことを大事にしないと、…ダメだと思うんだ…」
誰もおれのことを守ってはくれないから。
そう言って笑う彼はしかし、このお金を初めから僕に渡すつもりだったのだろうと思う。
どうだろうか、それは、ただの妄想だけど。
「………僕とお前が似ているなんて………言ってごめん…。全然違う。お前は、生きなくちゃ……」
僕の傍に居てくれ、と言ったら、君はなんて言葉を紡いだだろう?
笑ってくれただろうか。無責任なと、怒っただろうか。
嬉しいと、泣いてくれただろうか。
生まれてきた事を、少しは…ほんの一握りでも、喜んでくれただろうか…。
なんで、この星だったんだろう。
なんで、こんな人生なんだろう。
なんで、僕達なんだろう。
この世界には、沢山の星があるのだと言う。
そこには、僕達とは違う文化を築いている生命体が存在しているらしい。
飢えを知らない星はあるだろうか。
幸せしかない、星はあるだろうか。
どうしてそこに、生まれ落ちることが出来なかったのか。
「………ライト、」
少年はまた、そのか細い声を絞り出した。
「……ごめんな、おれも……、お前のこと、……救ってやれなくて………」
ポタポタと落ちる血に、一滴、涙が混ざって地面を濡らした。
少年は、…彼は、静かに目を閉じた。
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