片鱗と逆鱗 -θ

「俺はヘヴンを壊す」


 間近に覗いた瞳の中に、確かにシーナは焔を見た。強く美しく荒ぶるそれは、持て余した力をぶつけるように、身を食らう想いに苦しむように、烈火れっかの如く燃えている。


「偽りの正義を振りかざす者共に、真の世界を見せてやる。……止めるか?」


 彼がシーナと息が触れあうほどの距離に来る。彼はガーターベルトから何かを取り出し、シーナの手にそっと握らせた。


「未来の反逆者の首を搔っ切るなら、今が絶好の機会だぜ」


 右手に握らされていたのは、小さな剣だった。


故郷くに仇敵きゅうてきが、目の前に丸腰でいるぞ」


 まるで玩具おもちゃのような見た目をしているが、群青ぐんじょうのレザーハンドルは滑らかで冷たい。弧を描くように反った乳白色の刀身は、動物の歯を研いで作ったもののようだった。


「ゼド、あなたってば戦士の血でも流れているの?」

「そういう性分なのさ」


 そう微笑むゼドはどこか、今までと違う。冷たい物言いだが、シーナに向ける言葉に棘はない。


「今回は見逃してあげるわ」

「情け深い女神がいたもんだ」

「善神だもの?」

「邪神がいなけりゃなんもできない、困った善神がいたもんだ」


 目を合わせた二人は、思わず吹き出す。


「笑い事じゃないのよ! 豊穣の力を顕現しないと、貴方との契約違反になってしまうんだから!」

「契約違反は大問題だな? 代償には何をいただこうか」


 腕を組み、ゼドはにやりと笑う。

 悪魔や邪神との契約を破ると、大きな代償を支払わなければならない。ただし、契約者が対価を支払い続ける限り、悪魔や邪神はきちんと契約内容を遂行する。天使などよりも、ずっと律儀に彼らは契約を守るのだ。


「楽しみだな」


 ゼドの声が、どことなく、いつもと違うように聞こえた。盗み見た面輪に浮かぶのは、いつもよりずっと穏やかで、とびきり優しい表情。そんなゼドを目にした瞬間、気持ちが一気に膨れ上がった。


「……なっ」


 少しよろめいたゼドが、ぐっと脚に力を入れてシーナを受け止めた。突然のことに、彼は少し面食らっているようだった。

 同じくらいの背丈、細めの肩、しっかりとした筋肉。優しい香りのするその首元に、ぎゅっと額を押し付けて、シーナは彼をひしと抱き締める。


「……さみしいわ」


 心からの言葉だった。胸の奥が締め付けられているようだ。


「貴方と離れたくない」


 言葉にすればするほど、寂しい想いが募った。眦が熱を持つ。悲しみに満ちた瞳を、シーナはそっと伏せた。

 インフェルノに来てから、己の感情を素直に現せるようになった。考えていたよりもっとずっと生々しい想いの数々が、自分の中に渦巻いていたことに気が付いた。それはきっと、感情を剥き出しにする神や獣との出会いを経て、自分を曝け出すことを許された気がしたからかもしれない。

 感情に任せて、シーナは両腕に更に力を込める。ゼドの香りと邪気がシーナを包み込んだ。

 心地が良い。彼の邪気を、羽織っては帰れないだろうか? 瓶に詰めて持って行けるだろうか? そんなことを考えていたシーナは、ハッと目を開けた。ゼドの腕が、シーナの背に回されたからだ。

 ゼドは何も言わなかった。

 シーナはもう一度、しっかりと腕を回し直して、ゼドの肩に頬を寄せる。自然と顔がほころぶ。触れる肌から、邪気が染み入ってくる気がした。シーナはぼんやりと考える。このまま、濃く禍々しい彼の邪気に溶けていってしまいたいと。

 釁隙きんげきを生じたかのように、空は左右でまるで違う様相を呈していた。山の方では雨のように稲光が降り、海の方では夜空に虹がかかっている。いつも気分屋の空模様が、二人を囲むようにゆっくりと巡っていく。それはまるで、別れの時をなるべく遠ざけようとしているかのようであった。



 †



 シーナの帰還計画には、ゼドとフェンリルの他に、イブリース、禍津とオルクス、そして蚩尤が手を貸した。最も、禍津とオルクスはイブリースに雇われただけであったが、戦いともあらば、物騒な武器を手に意気揚々とやって来た。


「皆さん、本当にありがとう」

「いいってことよ」


 頭を下げるシーナの髪を、くしゃくしゃと撫でるオルクス。傍では、禍津とイブリースが武器について話し込んでいるようだった。聞き覚えのない単語が飛び交っている。

 ふと、シーナは蚩尤が自分を見ていることに気付いた。シーナと蚩尤はこの場で初めての対面であった。彼がゆっくりとシーナの方に歩いてくる。大柄な体格のせいか、威圧感のある表情のせいか、随分と迫力のある丈夫ますらおだった。甲片の赤黒い鎧を身に纏い、鉄のヘルメットを被っているが、そこからは雄々しい角が二本突き出ていた。手足には金属の大きな手枷と足枷が嵌められていて、歩くたびに枷に付いた鎖が引きずられ、土埃をあげた。


蚩尤しゆうだ」

「はじめまして。シーナといいます。見ず知らずの私に手を貸してくれて、本当にありがとう」

「いや」


 蚩尤は大きな頭をゆっくりと振り、シーナの礼を断る。彼はしゃがみ込み、


「ナイフは持っているな」


 と問うた。


「うん」

「ゼドから使い方は教わったそうだな」


 シーナは頷いて、胸元に手を置いた。そこには、昨夜ゼドがくれた剣が仕舞われている。


「この剣は、お前を守るための剣だ」

「守る、ため」

「そうだ」


 蚩尤の目を見て、シーナは頷く。伏せがちな彼の瞳は、よくよく見ると綺麗なラベンダー色をしていた。それが光の具合で、金銀箔が混ざっているようにえるのだ。


「この剣は抜くことがないと思え。もし万が一、己の命が危ういと思った時にのみ、使うんだ」

「それは、ゼドが?」


 それを聞いて、蚩尤はじっと、シーナを見つめ返すだけだった。

 呼吸が浅くなる。深く息を吸い込むものの、緊張が解れるどころか、意に反して心悸しんきがどんどん高まっていく。

 獣化したフェンリルがシーナの傍に来る。見上げると、彼はその眼差しを遠くへと向けていた。背に触れる灰茶色の胴に手を添えた。彼の温度と落ち着いた拍動が、腕を伝う。それに合わせて呼吸をすると、心が落ち着いた。


「さて、最終確認だ」


 イブリースが地図を広げた。

 手のひらサイズの楕円が、地図の左側に描かれている。ヘヴンの略図だ。その上下左右に横線が入っており、門の位置だとわかった。

 イブリースがペンで地図上に方位図を書き出すと、北にある門をペン先で指した。


「私達が狙うのは、この第二の裏門、枉死城おうしじょうだ」


 正門である煉獄門とは別に、ヘヴンには三つの裏門があった。東に位置する天岩戸あまのいわと、西に位置するヘルマウス。そして、北に位置する枉死城だ。


「シーナが通ってきた煉獄門と、こちらの中心街に近い天岩戸は、恐らくシーナを回収しにヘヴンから来た奴らが多く潜伏しているはずだ。比較的手薄になるであろう西または北のうち、入り組んだ険しい地形と邪気の濃さ等々の理由から、シーナを帰すのに最もリスクが低いと考えられるのは、恐らく北門」


 インフェルノの邪神達は弱くない。が、今のインフェルノの戦力は、潤沢に力を蓄えたヘヴンと戦うにはまだ早い。


「その捜索隊とやら、数名が既にアガルタに忍び込んだという情報もある。背後を突かれないよう、経路は……」


 昨晩までシーナの帰還計画を企図きとしていた彼らに、一切の疲れは見えない。


「ここからは作戦通りに」


 イブリースのごうで、遂に作戦が始まった。


「遅れんなよ」

「お前がな」


 フェンリルとゼドが我先にと飛び出した。続いてイブリースとオルクス、最後に蚩尤と禍津が走り出す。神掛かったスピードで、足音や気配すら残さず荒れ地を駆け抜けていく。

 裏門から四スタディオン手前の集合地点までは、三組に分かれ、別のルートを辿ることになっていた。気配を消し、周囲の邪気に紛れて、ゼド達は一斉にその地点へと向かう。

 シーナはというと、蚩尤の肩に荷物のように担がれていた。シーナのやるべきことはただ、その正気しょうきを潜め、舌を噛まないようにすることだった。


「一度休もう」


 シーナが降ろされたのは、柔らかな枯れ草の上だった。それまでの間に一度沈んだ月が、また登ってきていた。つまりシーナは蚩尤の肩の上で、半日ほど過ごしたことになる。

 禍津が懐から唐桟とうざんの袋を取り出した。蚩尤が木を削って即席で作った皿に、袋の中身を出す。


「木の実?」

「ああ」


 たくさんの木の実が皿の上に盛られた。ヘヴンで採れる木の実も多くあった。


「胡桃に、山査子さんざし! それにこれはアロニアね! こっちは、何かしら?」

山桑やまぐわだ」

「真っ黒の実なんてあるのね」

「食べてみればいい」


 その横で蚩尤が干し肉を取り出し、シーナのために小さく切り分けてくれた。シーナが礼をいうと、蚩尤は特に表情を変えるでなく、「慣れている」と言った。

 どういうことだ、と問うような目を向けていると、干し肉に落としていた視線を、一度ちらりとシーナに移し、彼はナイフを動かしながら、


「……華佗は我が儘だからな」


 と言った。


「華佗さんって人間のお医者様なのよね?」

「そうだ」


 華佗のことはフェンリルから聞いていた。地下闘技場コロッセオで行われたワルキューレに出場したゼドが怪我を負った際、彼に治療を施したのは彼女なのだと。

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