片鱗と逆鱗 -η

 そうだ。いつまでもゼドに甘えてばかりはいられない。自分の力で帰らねば。

 ……なんの為に?

 みんなが私を待っているもの。突然姿を消してしまって、心配しているわ、きっと。

 手を付けたばかりの刺繍の続きをしないと。そう、生物の勉強も途中で、花壇の手入れも必要だわ。それから? 本を読んで、友達と遊んで、お茶をするの。それから、それから……。

 私は家に帰って、何をするの?


 裂帛れっぱくのピンク色の玉眼が、ぎらりと光った。


「さあ貪れ! 私欲の限り!」


 マントが大きく翻る。マントの下、メフィストの体には夥しい量の返り血が付いていた。黒に近い色に変色し始めている。

 気付かなかった。その血が独特な異臭を放っていたことに。シーナは気付けなかった。驚きに反り返った体が傾ぎ、石から滑り落ちた。


「我が無聊ぶりょうを慰めたまえ」


 それからメフィストは、尻餅をついたシーナに顔を近付け、すっと声をひそめた。


「お前の愚行は無論浅学の極みだが、一縷のーはある。烏滸なる貴様に一つ良いことを教えてやろう。恥辱は己の力をもってそそげ、ということだ」


 きゅっと音がして、スキットルの栓が開いた。その中から、強烈な腐卵臭が漂ってくる。シーナは思わず鼻を覆う。

 深緑の粉末が宙を舞った。「ヘボンの汁から摂った粉だよ」と彼は小さく言う。


「お前は幸運なのだ。欲のままに知を貪れ。恥も外聞も捨て、必死に生きろ。戦い続ける者にしか、前へと進む道は現れない」


 メフィストの口端から液体が溢れ落ちていく。それを彼は、ポケットから取り出したハンカチで丁寧に拭き取った。


「何もなし得ず野垂れ死ぬ神生じんせいが良いならばそれも結構。文化的で高尚な生を称しながらも、ただ時を積もらせるだけの屍肉、大変愛らしいではないか。だが私はこうも思う。講釈ばかりの無能に、与えられる聖水は一滴たりともない、とね」


 困り顔のシーナを見て、ふふ、とメフィストは仮面の下で笑いを忍ぶ。


「ああ、今日も世界はうるわしい!」


 地平線の奥、ずっと遠くまで、広がりゆく大地。吹きすさぶ風と根を張る自然。痛いほどの陽光、翳りある月光。このありのままの世界こそ、メフィストの愛するインフェルノの姿だった。腐った血潮の酒を嗜み、悲鳴と咆哮の協奏曲コンツェルトに耳を澄ませて、聖書を枕に下作を披見ひけんし、退廃した世界にいつまでも思いを馳せた。

 何度も何度も、同じ夢をみる。


「確かにベルゼブブは素晴らしい神だった。その強さから、インフェルノでは『皇帝』と評されていたよ。有無を言わさず、彼の為に世界のことわりを変えてしまう奴だった。そいつと同じことを成さねばならない。成すのだ。迷う暇はない。生を享けた者の義務を全うせよ。今こそ、貴様の真価を発揮する時だ」


 メフィストはにんまりと笑った。享楽を色濃く滲ませ、荒唐無稽はりぼての仮面が剥がれていくそのさまを目の当たりにする。

 メフィストの指の腹が、シーナの頬をすーっと撫でた。ドルチェを仕上げるシェフような手つきで、あくまでも優しく。


「いい面構えだ」


 そしてシーナの面輪おもわを眺め、彼は満足げに頷くのであった。


「シーナ」

「ゼド」

「何をしていた」

「あ、今、フェレス卿と……あれ」


 気づくと、メフィストの姿がない。

 そこには枯れ果て、土に沈む草花と、はらはら舞うヘボンの粉だけが淋しく取り残されていた。

 氷雨ひさめが降り始めた。木々が静かに涕泣ていきゅうする。


「気を付けろ。ここのひょうは、時になまりつぶてよりも硬い」


 悪なる魔物は契約した相手に対し、ひどく優しくなる。そう話してくれたのは確か、協会で隣の席に座っていた、まだ年端もいかぬ子供だった。求める者の心を満たす甘い言葉を溢れんばかりに与える悪賢さが、厄介であると。

 ふたりは部屋へと駆け込んだ。降り注いだ氷の結晶が、シーナの羽衣をドレスのように彩った。結晶を手で払い落とす。その際に舞った氷が、唇にそっと触れた。溶けたそれは生ぬるく、ぴりりと辛かった。



 †



「だめだわ……」


 がくりと肩を落としたシーナが、床に手をついた。前屈みでしくしくと嘆くシーナは、巫女の格好をしていた。とはいえ、似たような布を探してきては穴をがり、生地を縫い合わせただけのありあわせの巫女服である。ところどころ布が擦り切れ、肌が薄っすらと透けてさえいた。


「おじょーちゃん、休憩にしないかい」


 シーナが顔を上げると、頭上にフェンリルがいた。細い木の枝の上に器用にしゃがみこみ、彼はにっかりと笑う。立派な犬歯が陽光の下、美しく輝いている。獣の優劣は邪気の強さや戦いの力量だけでなく、見た目でも計られるという。その点で言えば、フェンリルは立派な毛並みと大きく強い牙を持っていた。


「なかなか芽が出ないみたいだな」


 ハッと馬鹿にしたように笑うも、彼はポケットからすももを三つ取り出すと、シーナに放った。


「わっ」

「落とすなよー」

「くれるの?」


 フェンリルは枝に足を引っ掛け、その勢いを利用してくるりと回って、音を立てず地面に着地した。

 フェンリルが李を丸ごと口に入れる。シーナも齧り付く。瑞々しい李はまるで、水を飲んだ時のようにシーナの喉を潤した。甘いものを食べると、体の隅にまで、ぐーっとエネルギーが広がっていくように感じる。


「ヘールデの台所からくすねてきた」


 ごふっ、とシーナは咳き込んで、「なんてこと」ともごもご言いながらも、李を飲み込んだ。


「心配しに来てくれたの?」

「しょぼくれた顔を笑いに来てやったんだよ」

「ふうん」


 笑顔になったシーナが隣を覗き込むと、バツが悪そうにフェンリルは顔を逸らした。


「なんだよ」

「別に?」

「お前……ますますゼドに似てきたな」


 獣達から恐れられる鋭い瞳も、シーナには奥に柔らかい火が灯っているようにすら見える。いくらくびのない獣を持って帰って来ようが、邪神を張り倒していようが、シーナは黙ってこそこそと怪しい仕事をしていようが。フェンリルのことを大切に思うようになってしまった、こちらの負けである。


「ねえ。フェンリルは、変化したときのことって覚えてる?」


 シーナは三度、変化へんげを経験したことがある。一度目は二週間ほど熱を出したが、二度目と三度目は、ただの長い眠りに近かった。どれも緩やかな変化で、一月程度眠りについたものの、力の増大は微々たるものであった。


「あ? そんなもん覚えてるわけねえだろ」

「そうよね。私も全然覚えてないのよ」

「豊穣の力を得るために、変化しようってか?」

「まあそう上手くはいかないわよね」

「考え方は悪くねえと思うが、悠長にしてるとお仲間が食われるぜ」


 シーナは明けても暮れても、祈りを捧げた。地が潤うように。日が差し、風が種を運ぶように。

 ただ目の前の人の幸せを願うだけだった今までの祈りでは、この地を潤せまい。もっとなにか、目に見えるものではない、そのなにかを愛し、なにかを尊び、なにかを心から想わねばならない。それがなんなのか、わからない。


 シーナの祈りに、インフェルノの地はなかなか応えてはくれなかった。

 時間がただ食われていく。日に日にシーナの焦燥感は募った。

 そして、期日はあっという間にやってきた。


「もう休め」


 傷だらけになっても尚、組もうとしたシーナの手を掴み、止めたのはゼドだった。


「でも……」

「碌に寝ていないだろう。明日使いもんにならなくても困る」


 シーナは言葉に窮する。


「お前の足で帰るんだからな」


 シーナは両手に視線を落とした。爪に土が入っている。


「来い」


 腕を引っ張られた。強くはない。乱雑に見えても、シーナの柔らかな腕を壊してしまわぬよう、慎重に握っていることがわかる。

 ゼドはシーナを連れ、屋根の上に登った。この屋敷に来た初日、ゼドが見せてくれた屋根の上からの絶景は忘れもしない、シーナの宝物だ。それから何度か、おねだりをしては、彼に屋根に連れて行ってもらった。


「何度見ても、綺麗だわ」


 力強さを感じる、荒々しい大地。野に大きな亀裂が走っていても、巨大な岩が無秩序に散らばっていても、緑煙りょくえん立ち昇る沼が熱く煮え滾っていても。その不自然な自然が、決して良いことだとは言えなくとも、シーナの心を打つのだった。


「落ち着いたようだな」


 はっとしてシーナはゼドを見た。


「私、がむしゃらになりすぎないようにって、気をつけてはいたのだけど……」

「己をコントロールできないことは、ままある」

「もっと冷静にならないとよね」


 とは言えゼドと契約を交わした手前、焦るのは当然であった。今為せねばならないことの一片も、達成できないのか。歯痒くて、苦しくて、やるせなくなる。

 はやる気持ちを抑え、焦りを隠すシーナを見て、ゼドが目を細める。


「最悪、お前が力を顕現できなくたって良い」

「……え?」


 きょとんとしたシーナを、ゼドがシニカルに笑う。屍のように表情を示さないゼドが時折みせる、生き生きとした顔は、奸知かんちけた悪魔の笑みだ。年相応とまではいかないが、その若やいだ表情を目にするたび、どこかほっとする自分がいる。


「契約は『お前の仲間を殺さない』こと。そもそもお前の仲間とやらに遭遇しなければ、殺すも何もない」

「それって」

「契約違反ではないだろ……なんだよ。笑うところではないだろう」


 シーナはくしゃりと顔を歪めた。


「……ありがとう……本当に、ありがとう」


 それがどんな理由であろうとも。彼の冷淡な優しさに、額を床に擦り付けてでも謝りたくなった。


「感謝される謂れはない。その程度の命、今殺そうが殺しまいが、俺の描く未来に影響はない」

「未来……」


 ゼドの紅焔こうえんくゆらす瞳が熱をもつ。

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