福音 -ω

 少年に差し伸べられたその手を、羨ましいと思った。


「お兄ちゃん」


 立ち去った少年の背を見送っていたシーナが、振り返る。


「私も貴方も神であれど、唯一無二よ。そこに上も下も、善も悪もない。貴方がいなければこの世界は成り立たないし、貴方がいることで救われる人もいる。貴方は素敵な神様で、そして私の大事なお友達なの。それを忘れないで」


 それは幾分か自分の感情に素直になった反動なのだろう。雄渾なる舌弁に誘われて、ゼドは立ち上がった。

 いつも、ゼドと世界の間には壁があった。目には見えないけれど、堅く、破れることのない大きな壁だ。ヨルムンガンドとして生まれ、独り歩んできた神生じんせいは、ただただ出口のない横坑の中を歩いているような、深い闇黒くらがりだ。傍らを乾風が吹き抜け、来た道も向かうべき道も、分からなくなることも間々あった。しかし、どんな時でも──例え苦悩の中でも爽やかな朝でも絶望の中であっても、ゼドは独りであった。それは、果てなき荒野あらのに取り残された感覚。

 これが、ということだと、ゼドはこの時初めて理解した。


「ひとりじゃないわ」


 シーナが、ゼドをそっと抱きしめた。


「貴方には、私がいる」


 彼女は、イブリースのように論理的に話せない。フェンリルのように、感情をそのまま適切な言葉にできない。シヴァのように理性的に語れない。それでも、強い想いが伝わってくる。枯れた心の泉に、ゆっくりと注がれてゆく。


「私はお兄ちゃんが好きよ。そのままのお兄ちゃんが、大好き」


 ぎゅっと、ゼドの身体に回した腕に力が込められる。


「俺が、お前の毒にしかなり得ないとしても……?」

「毒、変じて薬となる。そうでしょ?」


 溢れ出すシーナの純粋な敬慕けいぼの念が、ぬくい。数字でも、力の強さでも裏打ちされていない、証左のない言葉が熱を持つ。それは火を噴いた銃砲身よりも熱く、地下を流れる河よりも静かだ。

 ゼドの首筋をくすぐる彼女の髪が、柔くなめらかなことも、彼女がこんなにも凛然りんぜんと物を言うようになったことにも、生意気な台詞が随分フェンリルに似てきたことにも、今更ながら気付く。肌越しに触れる心地良い脈動が、こんなにも心を鎮めてくれることを知らなかったし、優しい言葉は聖水を使うよりも身体を癒やしてくれることも、ゼドは知ろうとすらしていなかった。何も言わず、ゼドはシーナを抱きしめ返した。


 体温はひとつに溶けあってしまった。

 たかまる鼓動は、ただひとつの旋律をつむぎ、混ざりあう吐息といきは、互いになにかを許していた。


 どれくらいの時間ときが経ったろうか。深い沈黙が降り積もる中、ゼドは彼女を呼んだ。思ったよりもびた声が出て、唾を飲み込んだ。憂いをはらい、迷いをて、ゼドはまた彼女の名を呼んだ。


「シーナ」


 よしんば、一場の夢でも良いだろう。悪魔が嘯く悪夢でも良いだろう。

 一度でいい。そう、一度だけでいいから。


「俺の名を、呼んでくれ」


 この悪しき邪神の、ささやかな願いを聞き入れてはくれないだろうか。


「ゼド」


 埋めていた薄い肩から顔を上げれば、彼女はつぶらな瞳で真っ直ぐにこちらを見ていた。


「ゼド」


 丁寧に、一言ずつ、大切なものを扱うように紡がれる名前は、おのがものだとは信じ難いほど、美しかった。

 きっと彼女はその行為に何の意味があるのか、ゼドの真意が何なのか、理解していない。しかし、理解せずとも、シーナは大きくはっきりとした声で、呼ぶ。


「ゼド。私の大切なひと、ゼド」


 えもいわれえぬ雑駁な感情が湧き上がり、ゼドの心を満たしていく気がした。堪らなくなる。全身に、痛いほどの搔痒感そうようかんが走る。


「なあ。優勝した褒美に、また舞を舞ってくれよ」


 シーナの笑顔がぱっと華やぎ、精彩を放つ。暗い路地を照らす玉兎の如く明るく、凛と上を向く睫毛は花影を落とし、頬を薄桃に染めて。彼女はいつも、こうやって笑うのだ。まるで幸せしか知らないかのように。


「わかったわ。さ、私達のお家に帰りましょう。安心したら、お腹が空いてきたわ」

「強かになったのは喜ばしいことだが、図々しさと生意気さはフェンリルに似てきたな」

「ゼドの真似をしているつもりなのだけれど」

「……冗談だろう?」


 ふたりは肩を並べて帰って行く。

 月桂が映し出す小さな影は、ひとつに重なり合っていた。






 第三章 【福音】 了───

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る