福音 -ψ

 頭では整理がついたはずなのに、いざ言葉にしようとすると、途端に難しい。適切な台詞を探しあぐね、結局口をいて出たのは、話そうと思っていたこととは違う話題だった。


「お前はまた無茶な真似を……」

「お兄ちゃんの方が、相当危険なことをしているじゃない」

「俺とお前じゃ」

「違わないわ」


 シーナがゼドの言葉を優しく遮った。


「何も、違わない」

「……そうか」

「お兄ちゃん、怪我しているの?」

「いや」

「なんだかとても、痛そうよ」


 シーナがゼドの頬に触れた。怪我は聖水で治したし、被った血もはらわたも、全て洗い流したはずだ。


「貴方は優しすぎるの。私のことばかり心配して、自分のことはそっちのけ。もっと自分を大切にね」


 この娘には、敵わない。

 振り払ったはずの躊躇がまた、目の前にかげを差そうとする。

 大切にしてみたいと思ったこの未知なる気持ちは、未完成で未熟で、手がつけられないほどに凶暴で。彼女に向ければ、壊してしまいそうで。ゆえに、ゼドはそれを持てあましてしまっている。


「俺は……お前に、傷ついて欲しくないようだ」


 こんなことを告げても良いのか、許されるのか。巡るといに、果たして邪神たる自分は、今更心中で誰に赦しを乞うているのだろうかと、ほとほと呆れてしまう。銃口を向けられた人間と同じで、存在ありもしない何かに願えば届くと、空虚な祈りを捧げているに過ぎない。


「私もよ。お兄ちゃんが傷つくのが辛い」


 それでもやはり、違うのだ、シーナ。

 ゼドは顔をそむけた。

 ゼドの抱く、シーナを想う感情は、決して美しくはないだろう。

 てがわれた名前から思い描く情感とは程遠く、生易なまやさしい感情ものではない。彼女が同意してしまえるような、優しい感情ものでもない。暴虐的で、我儘で、醜い悪感情ものなのだ。

 希望は、邪神われわれを捨てる。

 期待は、邪神われわれを裏切る。

 どうせこのも、ゼドの前から居なくなる。それでも──。


「お前が危険なことをすると、心が妙にせわしくなって、居ても立っても居られなくなる。お前が傷つくと思うと、自制が効かなくなる。お前が俺の前から消えると思うと……身体の真ん中に、ぽっかりと穴が空く」


 身に沁みて知る教訓すらも蹴飛ばして、何をほざいているのだろうと、笑いたい衝動にすら駆られる。彗星すいせいの如く現れた彼女は、ゼドのうだつの上がらぬ日常に華を添え、雲霞うんかに埋もれた未来にまばゆい光をもたらした。そのくせ、あっという間に去っていってしまう運命さだめなのだ。ゼドとシーナも、所詮は世界という盤上に転がされた烏鷺うろ。ヘヴンに帰る彼女に、吐露するべきものではないことはわかっていた。


「俺は……お前をどうしたらいいのかわからない。大切にしなければ……大切にしたいと思うのに、壊して堕として、ぐちゃぐちゃにしてやりたいとも思う。穢れるべきでないお前が、悪にまみれたらどうなるのだろうと、想像してしまう」


 これは呪いだ。心に咲いたばかりの綺麗なつらをした感情を認めても、邪神の本能との葛藤が、彼女との差異が、懐に居座った不埒ふらち性根しょうこんが、愈々いよいよ身を抉るだけ。

 ゼドはずるずると崩れると、地面に膝をついた。


「私はね、そんな尊い存在じゃないのよ」


 シーナはゼドに寄り添うように、一緒に膝をつく。剝き出しの白い膝が、泥で汚れた。


「お兄ちゃんに拾って貰った日。あの日私は、人から盗ったお金でご飯を食べました」

「それは……! お前が盗ったわけじゃない。俺が死人から奪った金だ」


 ぱっと顔を上げたゼドが首を振る。そんなゼドの手を取って、シーナは淡く微笑むだけ。


「私の助ける為に、貴方に人や魔物を殺させてしまった」

「襲ってきた方が悪いだろう」

「それにまた今日も、私を生かす為に貴方の手を血で汚させてしまった。自分で手を下すより、よっぽど酷いことよ」

「……お前は、お前だけは血で濡れていい神じゃない」

「傷ついていい者なんて、この世にひとりとしていないわ」


 彼女の手助けなど、一臂いっぴの力にもなりやしない。寧ろ、足手纏いだと思っていた自分が、恥ずかしくなった。彼女の存在が、言葉が、行動が、こんなにもゼドを救ってくれるというのに。


「それにね、ほら見て。ふふ……私、ギャンブルにまで手を出したのよ」


 お茶目に笑ってみせるシーナは、膨れ上がった麻袋を幾つか取り出した。


「お兄ちゃんに賭けたら、こんなになっちゃった」

「まるで非行を覚えたての人の子だな」

「でしょう?」


 精一杯のゼドの返答に、片目を瞑ってみせたシーナの視線が、ゼドの肩を掠めて奥へと向かった。


「これは、お兄ちゃんに返す分。いつもありがとう」


 彼女は麻袋の半分をゼドに渡すと、もう半分を抱えて立ち上がる。


「ここに来てたくさんのことを学んだわ。インフェルノの土地や世界のことわりだけじゃない。掃除や洗濯や料理、世の厳しさや本を読む面白さ、生きる悦びさえも。そして、本当の優しさも。きっとヘヴンにいたら、知ることはできなかった。教えてくれたのは、全部貴方よ」


 シーナは、少し離れたところに山積みになったゴミめに近寄る。腐敗臭が漂い、溝鼠どぶねずみが走り回っていた。中身は言わずもがな、闘技場から排出されたものだろう。


「お兄ちゃんが私にしてくれたように、私もお兄ちゃんの力に、誰かの力になりたい。でも、今の私じゃ些細なことしかできない。きっと、無駄だと言われるでしょうね。偽善、自己満足、取るに足らない愚行、焼け石に水……それでも私は、他者に分け与えるたった一滴の水が、意味のないものだとは思わない。なぜなら、例え小さなことでも、他者を想う言葉や行動がどんなに心を癒すかを、もう知っているから。だから、私はこうするわ。何度だって」


 シーナが立ち止まった。ゼドはその時、ゴミ山に埋もれるようにしてうずくまる少年に気が付いた。彼の前で、シーナは膝頭を床につける。少年の容姿はゼド達よりも幾分か幼いように見えた。


「貴方」


 顔を上げた少年は、すすまみれであった。服は汚れ、腹は薄く、くすんだ邪気が混ざるぼうとした面輪だが、額に巻かれたターバンからは、すっと通った精美な鼻梁びりょうが覗いていた。条帛じょうはくを引っ掛けた薄汚れたていにそぐわぬ、湧くような威容いようは紛れもなく神のものだ。しかし、伽藍がらんとした空洞が、透けて視えるかのようであった。その覇気のないからびた姿は、いつの日かのゼドに重なる。


「何をしているの? こんなところで」

「何も……」


 シーナの問いに、彼は機械的な口ぶりで淡々と答えた。


「此処にずっと居たら、身体が弱ってしまうわよ」

「死を待つ。だから良い」

「神は簡単には死ねないでしょう?」


 頷く少年。ゼドはこの少年を知っていた。風の噂で耳にしたことがある。確か、戦闘に秀でたバーラトの鬼神だ。


「命奪う、怖い」


 ほふらねば死ぬ。この地で何もせず路傍にうずくまることは、死を受け入れるに等しい行為である。


「戦闘神、命奪う、宿命。嫌い、疲れた。める、生きる価値意味共に無し」

「貴方は強いのね。戦わないことを選ぶというのは、とても勇気あることよ」

「意気地なし」

「そんなことないわ!」


 彼はぞくに言う、天才であった。ゼドの強さが錬磨れんまによる強さだとすれば、彼の強さは天性のものだ。以前は戦場に必ず現れたと聞いていたが、めっきり消息を掴めなくなったと、メフィストがぼやいていた。彼の行く先々で争いが起き、人が死に、メフィストは大好物の人魂を、効率的且つ大量に入手することができたからだ。

 シーナは彼の手に、残りの麻袋全てをなかば押し付けるように渡した。その重みで概算がいさんがついたのだろう、少年がはっとした表情を走らせた。そんな顔をするのも納得できる。麻袋には、人が一人生きていくのに十分すぎる銭が入っている。


「これ、貰ってくれない? あげなきゃいけない人達にはもう配ったの。余っちゃったから、貴方が使って頂戴ちょうだいな」

「死ぬ者に不要」

「貴方は生きる。強い信念を持つ者は、別の生き方を選んでも、困難な道を切りひらいて生き抜くことができる。貴方もきっとそうよ」


 この街には、気がれた者が五万ごまんといる。誰かが神器で心臓を貫いてくれるのを、ひたすらに待っていたのか。冷たい地面に横臥おうがし、浮名うきなすたれるのをひっそりと待とうとしていたのか。どちらにせよ、頭の良い神が弾き出した答えとは思えぬ結論は、確かに諦念ていねんに憑りつかれているが、どこか躊躇と臆病とが織り交ざっているように思えた。

 シーナが、その愛くるしい声で、「ねえ」と少年を呼ぶ。


「名をなんというの」

「……」

「貴方の名前よ」

「……ない」


 少年の先には、眩い笑顔のシーナ。その二人の姿を、ゼドはぼんやりと眺めていた。


「名前がないの?」

「人は、僕を修羅しゅらと呼ぶ」


 その身に修羅を宿した魔神。闘争という忌事いみごとはいつの世でもどんな文明文化の中であっても、延々と繰り返されてきた。その象徴である彼は、人間が願うがまま戦を起こし、暴れ、幾度も世を混乱に陥れた。それが、彼の持つ力であり、背負った宿命であったからである。いつしか人は、醜い争いや果てしのない闘いを形容した言葉をてがい、彼を呼ぶようになった。


「それを名とは言わないわ。じゃあ、私が付けてもいいかしら? それがないと、貴方を呼ぶ時に困ってしまうもの」

「……あんたが?」

「名というものはね、とても大切なものなのよ」


 うーんと、シーナは考え込む素振りをする。


「そうね……阿修羅あしゅらって、どうかしら? 命を与えるって意味なの。素敵だと思わない?」

「阿修羅……」


 命の収奪しゅうだつに怯える戦闘神。それを人は、臆病だ、存在価値を失った、などとしょうするのに対して、シーナは命を大切にする神だと、自分を持った勇気ある行いだと、そうしょうする。そんなところが変わっていて、如何いかにも彼女らしい。


「さあ、立ち上がって。行って。そして生きるのよ、阿修羅」

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