福音 -ψ
頭では整理がついたはずなのに、いざ言葉にしようとすると、途端に難しい。適切な台詞を探しあぐね、結局口を
「お前はまた無茶な真似を……」
「お兄ちゃんの方が、相当危険なことをしているじゃない」
「俺とお前じゃ」
「違わないわ」
シーナがゼドの言葉を優しく遮った。
「何も、違わない」
「……そうか」
「お兄ちゃん、怪我しているの?」
「いや」
「なんだかとても、痛そうよ」
シーナがゼドの頬に触れた。怪我は聖水で治したし、被った血も
「貴方は優しすぎるの。私のことばかり心配して、自分のことはそっちのけ。もっと自分を大切にね」
この娘には、敵わない。
振り払ったはずの躊躇がまた、目の前に
大切にしてみたいと思ったこの未知なる気持ちは、未完成で未熟で、手がつけられないほどに凶暴で。彼女に向ければ、壊してしまいそうで。
「俺は……お前に、傷ついて欲しくないようだ」
こんなことを告げても良いのか、許されるのか。巡る
「私もよ。お兄ちゃんが傷つくのが辛い」
それでもやはり、違うのだ、シーナ。
ゼドは顔を
ゼドの抱く、シーナを想う感情は、決して美しくはないだろう。
希望は、
期待は、
どうせこの
「お前が危険なことをすると、心が妙に
身に沁みて知る教訓すらも蹴飛ばして、何を
「俺は……お前をどうしたらいいのかわからない。大切にしなければ……大切にしたいと思うのに、壊して堕として、ぐちゃぐちゃにしてやりたいとも思う。穢れるべきでないお前が、悪に
これは呪いだ。心に咲いたばかりの綺麗な
ゼドはずるずると崩れると、地面に膝をついた。
「私はね、そんな尊い存在じゃないのよ」
シーナはゼドに寄り添うように、一緒に膝をつく。剝き出しの白い膝が、泥で汚れた。
「お兄ちゃんに拾って貰った日。あの日私は、人から盗ったお金でご飯を食べました」
「それは……! お前が盗ったわけじゃない。俺が死人から奪った金だ」
ぱっと顔を上げたゼドが首を振る。そんなゼドの手を取って、シーナは淡く微笑むだけ。
「私の助ける為に、貴方に人や魔物を殺させてしまった」
「襲ってきた方が悪いだろう」
「それにまた今日も、私を生かす為に貴方の手を血で汚させてしまった。自分で手を下すより、よっぽど酷いことよ」
「……お前は、お前だけは血で濡れていい神じゃない」
「傷ついていい者なんて、この世にひとりとしていないわ」
彼女の手助けなど、
「それにね、ほら見て。ふふ……私、ギャンブルにまで手を出したのよ」
お茶目に笑ってみせるシーナは、膨れ上がった麻袋を幾つか取り出した。
「お兄ちゃんに賭けたら、こんなになっちゃった」
「まるで非行を覚えたての人の子だな」
「でしょう?」
精一杯のゼドの返答に、片目を瞑ってみせたシーナの視線が、ゼドの肩を掠めて奥へと向かった。
「これは、お兄ちゃんに返す分。いつもありがとう」
彼女は麻袋の半分をゼドに渡すと、もう半分を抱えて立ち上がる。
「ここに来てたくさんのことを学んだわ。インフェルノの土地や世界の
シーナは、少し離れたところに山積みになったゴミ
「お兄ちゃんが私にしてくれたように、私もお兄ちゃんの力に、誰かの力になりたい。でも、今の私じゃ些細なことしかできない。きっと、無駄だと言われるでしょうね。偽善、自己満足、取るに足らない愚行、焼け石に水……それでも私は、他者に分け与えるたった一滴の水が、意味のないものだとは思わない。なぜなら、例え小さなことでも、他者を想う言葉や行動がどんなに心を癒すかを、もう知っているから。だから、私はこうするわ。何度だって」
シーナが立ち止まった。ゼドはその時、ゴミ山に埋もれるようにして
「貴方」
顔を上げた少年は、
「何をしているの? こんなところで」
「何も……」
シーナの問いに、彼は機械的な口ぶりで淡々と答えた。
「此処にずっと居たら、身体が弱ってしまうわよ」
「死を待つ。だから良い」
「神は簡単には死ねないでしょう?」
頷く少年。ゼドはこの少年を知っていた。風の噂で耳にしたことがある。確か、戦闘に秀でたバーラトの鬼神だ。
「命奪う、怖い」
「戦闘神、命奪う、宿命。嫌い、疲れた。
「貴方は強いのね。戦わないことを選ぶというのは、とても勇気あることよ」
「意気地なし」
「そんなことないわ!」
彼は
シーナは彼の手に、残りの麻袋全てを
「これ、貰ってくれない? あげなきゃいけない人達にはもう配ったの。余っちゃったから、貴方が使って
「死ぬ者に不要」
「貴方は生きる。強い信念を持つ者は、別の生き方を選んでも、困難な道を切り
この街には、気が
シーナが、その愛くるしい声で、「ねえ」と少年を呼ぶ。
「名をなんというの」
「……」
「貴方の名前よ」
「……ない」
少年の先には、眩い笑顔のシーナ。その二人の姿を、ゼドはぼんやりと眺めていた。
「名前がないの?」
「人は、僕を
その身に修羅を宿した魔神。闘争という
「それを名とは言わないわ。じゃあ、私が付けてもいいかしら? それがないと、貴方を呼ぶ時に困ってしまうもの」
「……あんたが?」
「名というものはね、とても大切なものなのよ」
うーんと、シーナは考え込む素振りをする。
「そうね……
「阿修羅……」
命の
「さあ、立ち上がって。行って。そして生きるのよ、阿修羅」
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