福音 -X
ボルテージの上がった歓声が、フェンリルの意識を引き戻す。シーナが舞台上で、挨拶をしている。
「すまなかった」
それこそ初めて聞く、捻くれ者の謝罪の言葉に、ゼドは目に見えてたじろいだ。
「俺は
脈絡のない話と淀みのない口調に、やや慄くゼド。フェンリルは気にせず続けた。
「きっかけは些細なことだったかも知れねえが、善神の子供を匿うってのは、相当のことだ」
ゼドがシーナを殺しもせず見捨てもせず、ここまでしてやる理由は、半分理解できて、半分理解不能だ。フェンリルも、
この男のことだ。最初は、シーナを
しかし、事態は変わった。いや、変えられてしまったのだ。この、小さくひ弱な少女ひとりに。
シーナのお願いは、想像以上に効果を発揮した。手を組み合わせ、邪神に願いを唱えてくれる者など、この世の何処にも居なかったから。
そして、フェンリルでも図りかねるゼドの思惑と、
「お前は強くなれる。……腕っ節のことだけじゃない」
ゼドは着実に成長している。
彼はまた、いつまでも
「お前はもう、お嬢ちゃんの友達ってやつだよ……きっと」
フェンリルはガシガシと頭を掻く。
「自由と崩壊に生きる俺らも、絶対的事実に関してはやたら
彼には味方ができた。どんな時だろうと、どんなことをしようと、ゼドを信じてくれる者ができた。金の上に成り立つ友情と取引、上っ面だけの言葉、名声と力に靡く
「お前も気持ちをぶつけてみろよ。あいつを見習ってさ」
シーナは
邪神の
当たり前を当たり前として享受していた、そんな阿呆らしい事実と、何やら面白そうな
「……フェンリル」
そして、今フェンリルを強い目で見るこの少年神は、何故だろう、その最たる信念を持っていた。それは昔から、最早確信にも近しいものだった。
そして、シーナを守ろうとする無意識の傍らで、彼はヘヴンとの交戦すら、視野に入れていたに違いない。彼女を拾い、家に連れ帰ったその時から。既に腹が決まっていたのだ。
ヘヴンが憎いかと、彼に尋ねたことがある。邪神から生き物としての尊厳を奪い、ゼドからはベルまでもを奪い、楽園で
「いつの間にか忘れちまってたのは、俺の方だったよ。お前の中の大切なところは何も、変わっていやしなかった」
そうだ。彼女を助けようが、善神
フェンリルは、怖かったのだ。歩みを止めないゼドに、置いていかれる気がして。
ゼドが息を
「名前の知らない感情が、体内を巡っていたんだ。自分でも、何の為に競技場に立っているのか、何のために拳を振るっているのか、分からなかった。でも、これも俺の一部なんだな。認めた途端、どこかくすぐったくて、懐かしい気すらしてくる」
ゼドは続ける。
「この気持ちに名をつけることを、躊躇していた。邪神にも魔獣にも、悪心以外の、人並みに平凡な心が存在するのかもな」
邪の者にも、良心なんてものが
「俺もお前も、
フェンリルがそう言えば、ゼドも少し笑って、「そうかもな」と小さく同意を返した。
演目が終わった途端、ゼドは人混みから抜け出し、舞台側に向かって歩きだした。その後をフェンリルは追いかける。
「おいゼド! 暴れろとは言ったが、落ち着けよ」
「落ち着いている」
「嘘言え!」
明らかに怒ってるじゃねえか、と独り
「シーナ」
ゼドの声は、人が
青のドレスがすぐさま反応して、ふわりと
「お兄ちゃん!」
嬉しそうに此方に手を振りながら駆け寄る彼女は、ゼドの表情に気付くや否や、ぴたりと足を止める。シーナの眼前まで、歩み寄る無表情のゼド。
「お、お兄ちゃん……怒ってる?」
目の前に立っても、無言のゼドの顔を覗き込み、シーナは恐る恐る訊ねた。
「ほらほら、何か言ってあげなって」
「……」
「おい、ゼド。適当に、何でもいいからよ」
小声で、若干失礼なことを口走るフェンリルが、ゼドを膝で小突く。
シーナは、もじもじと恥ずかしそうに頬を染め、少し照れ臭そうに、でもやはり不安げに、しかしそれでも褒めてとねだる、物欲しげな表情をしている。
「優勝、おめでとう。お疲れ様。あの、……お兄ちゃんに何も言わずに後夜祭に出たことは謝るわ。喜んでくれるかな、と思って。その、どう、だった……?」
細い指先が、髪を耳にかける。露わになった頬はしっとりと濡れ、
「余計なことはするなって、言ったよな」
「おいおい。もうちょい気の利いたこと言ってやれよ」
フェンリルがゼドの肩を掴む。
眉尻をしょぼん、と下げたシーナに代わって、シーナを視界から外すようにフェンリルが前に出た。シーナを守る為でもあり、ゼドの助け舟の意味でもある。
「俺の手間が増えるような真似をするな」
「まったく。
「そうなの?」
ちょこっと嬉しそうな空気を出すシーナを、ゼドが
「おっ、優勝した蛇の野郎じゃねえか」
「舞の女もいるぞ」
「何だ、揉め事か」
「喧嘩? どこだどこだ」
二人の大きな声に、周囲の者達がゼド達の正体に気付き、
「一旦ここから離れるぞ。フェンリル、後は任せた」
一方的にそう言い放ち、シーナの手を掴んで走りだした。揺れるドレスの
「ゼド、卑怯だぞ! おいてめぇら、散れ散れ! 喧嘩じゃねえってば」
群がる魔物に吼え立てるフェンリルを置いて、ゼドは素早く暗幕の外側にシーナを押し込む形で身体を滑り込ませた。
「ヨルムンガンドじゃねえか」
競技優勝後では、ゼドは一躍有名人である。すれ違う度に声をかけられるが、それには応えず、狭い通路を駆け、階段を降り、幾度も角を曲がった。巨躯の怪人達の足元脇をすり抜け、小窓から素早く脱する。迷宮のように入り組んだ道を迷いなく進み、辿り着いたのは
掴んでいた手を離した。華奢な指先が寂しげに取り残され、やがてゆっくりと離れて行った。
ゼドは、開きかけた口をまた閉ざした。シーナが心配そうな眼差しを向けてくる。ゼドが話しだすのを待つつもりらしい。その姿勢に、ゼドも次第に落ち着きを取り戻した。しかし、押し込めた胸の中は、未だぐちゃぐちゃとしている。まるでハイエナに食い散らかされた、人間の臓腑のようだ。
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