福音 -π

 一方シヴァは、部屋の隅に並ぶラックに掛かった服を掻き分けるようにして、衣装を探している。スパンコールと綿毛が、転がり落ちた。


「うーん、シーナには青色が似合うと思うのよね。肌が透けるように白いじゃない? 派手な色がきっと映えるわ」

「青……?」


 シーナは想像した。

 インフェルノの毒野原に、力強く咲くアネモネの花弁の色を。冷たい泉が溶かし込む、瑞々しいあお水面みなもを。仰いだ夜空の群青を。


「これ、貸してあげるから。着替えてみて。更衣室はそこよ」


 受け取ったドレスを広げて、シーナは固まる。


「だいぶ昔に使ってたやつなんだけど、形がシーナにぴったりだわ。これくらいの愛らしさがある衣装じゃないとね」

「あ、あの……ちょっと丈が、短か過ぎないかしら?」

「膝は隠れてるじゃない。あたしの衣装の中でも丈が長い方なのよ。そんな恥ずかしがらないで、一回着てみて。物は試しよ」

「えぇ……」


 ドレスと一緒に更衣室に押し込まれ、シーナは仕方なしに衣装に着替えた。


「可愛い! 似合ってるわ!」


 更衣室から恐る恐る出てきたシーナを見て、シヴァは表情を輝かせる。身を隠すように掴んでいたカーテンを剥ぎ取られ、部屋の中央に引っ張り出された。


「サイズも良さそうね。きつくない?」

「大丈夫そうです」


 鮮やかな青のドレスは、シーナの身体にぴったりだった。控えめで品の良いシフォンの花があしらわれ、コバルトブルーにサファイアブルー、シルバーやクリスタルクリアの色の、硝子で出来た模倣宝石が贅沢に散りばめられている。腰のリボンは大ぶりで、ドレス全体を甘すぎずスッキリとした形にまとめ上げていた。

 てっきり衣装は、シヴァ達が着るような、色気のあるドレスばかりだと思っていたが、そうではないようだ。

 いろいろな色彩、いろいろなデザイン、いろいろな飾り。皆が皆、自分に似合うものを選び、好きなものを着て、自分を飾ることを楽しんでいるのだ。


「意外と、挑戦してみるのもいいでしょ?」

「ええ。私、すごく嬉しいわ……シヴァさん」

「そう。よかった」


 シーナは、白以外の服を着たのが初めてだった。羽衣や和服以外の服に袖を通すのも、人前でこんなに脚を露わにするのも、初めてだ。

 一抹の緊張感と恥じらい。そして、溢れる高揚感。じわじわと押し寄せる嬉しさに、シーナは顔をほころばせずにはいられなかった。

 自然と頬が紅潮する。こんな気分を味わうのもまた、初めてのことだ。


「さぁ、こっちに座って。次はお化粧よ」

「お化粧まで? こんな素敵な衣装を貸してもらっただけで、もう十分よ」

「駄目よ。舞台に立つからには、女らしくいなきゃ」

「……そんな、お化粧だなんて。私には早いもの」

「駄目でありんす」


 首を振るシーナに、ソファから駄目出しが飛んで来る。

 梅のロリポップを舐めるメドューサが、シーナを流し見た。びん後毛おくれげが緩やかに肩から落ちる。


貴女おてきぬしさんを喜ばす為に踊るんではないの? 化粧すらせんで、何処ぞの与太郎よたろうにその腑抜ふぬけた面を晒す気でありんすか? 大人しく化粧しなんし」

「口は悪いけど、あながち間違ってないわ。さあ、座ってシーナ。あたしが腕によりをかけて綺麗にしてあげるから」


 シヴァに肩を押される形で、シーナはドレッサーの前に座った。

 シヴァがブラシを手に取ったその時、「ちょっと待った」の声が掛かる。三人が振り向くと、扉から女性が此方を見ていた。豪奢な真紅のドレスに身を包んだ、美女だ。


「あらあら、シーナ。可愛い衣装を着て、どうしたの?」


 美女の背後から、また別の美女がひょっこり顔を出した。吸血鬼のルーシーだ。彼女は可憐に笑むと、シーナの衣装姿を褒めちぎった。

 事の顛末てんまつをシヴァが話すと、ルーシーは手を合わせて喜んだ。薄桃のAラインがゆったりと流れるように揺れる。上品なフェロモンの香水を撒いたように、その場が華やいだ。


「それは素敵ね。一緒の舞台に立てるのも嬉しいけれど、シーナの舞を観れるなんて、すごく楽しみだわ。皆んなにも知らせてあげなきゃ」

「いいアイディアでしょ。それで、これからメイクをしようと思うんだけど、私より適任者がいたわね」


 シヴァがブラシをテーブルに置いた。

 真紅の衣装の女性が前に出た。細身だが、少し筋肉質で、背が高く、放たれるオーラにシーナは圧倒された。

 彼女の自然体な美を、なんと表現すべきだろうか。シーナは脳内で辞書の索引を引くも、適当な言葉は見当たらなかった。絵にも収まらないであろう生命力溢れる存在感は、見る者から言葉を奪い、詩にも表現できぬであろう精華せいかは、性の枠を超えていた。


「任せて頂戴。私がこの子の魅力を最大限に引き出してあげる」


 にやりと彼女が笑う。不敵だ。

 視線に気付いたのか、シヴァがシーナを見た。


「良かったわね。いちじくのメイクの腕はピカイチよ」


 彼女はいちじくというらしい。その姿は人間に近しいが、妖狐であることがはっきりと分かる肢体を有していた。ドレスからは、稲穂のように美しい、大きな金色の尾が九本出ている。九尾だ。


無花果いちじくってのははなぶさだがよ、花を咲かさずに実がなるんだ』


 フェンリルが言っていた。


『こいつの花はな、果実に見える花嚢かのうの内側に咲くんだ。種みてぇだがな。毒々しい肉感的な果実のなかに、人知れずたくさんの小花を咲かせてやがる。しかも純白の花ときた。ややこしい果物だよ』


 彼女はどうして、と名乗ることを決めたのだろうか。


「幸運と思いなさい? この私の神業を施して貰えるんだから」


 くすっ、と後方で、明らかにあざけりと取れる、小馬鹿にした笑いが聞こえた。


「シーナ、安心しなんし。なにしろ、男ってのを誤魔化せるほどの妙技。正真正銘の化け狐とは、このことでありんす」

「ちょっと、今どっちの意味で言ったの」

「どっちも」

「ごめんね、シーナ。あの二人はいつもこうだから、気にしないでね。シヴァまで加わると、本当騒がしいのよ」


 ルーシーが困ったように眉を寄せながら、しかし、至極楽しそうにそう言った。


「喉渇いてない? お紅茶でも淹れましょうか」


 ルーシーが鼻歌を歌いながら、食器棚を開けた。


「さあ、時間はあまりないし、早速お化粧するわよ」


 九が意気揚々と化粧道具を広げ始める。


「九さんは、男性なの?」

「ええそうよ。……おかしいと思う?」

「いいえ。そのドレスがすごく似合うなあと、思って」


 手が止まる。不審に思って目の前の鏡を見ると、九が薄らと口角を上げ、機嫌良くシーナの髪を結い始める姿が映っていた。


「この人だって、昔は男だったのよ」


 九が突然とびきりの暴露をしたので、シーナは受け取った紅茶を溢しそうになった。


「えっ、シヴァさんって元々男性だったんですか?」

「そうよ」


 ぽかん、と口を開けたシーナの頭にバンダナが被せられた。柔らかい。獣毛だろうか、と一瞬そんな思いが過って、それ以上考えることはやめた。


「変化が来て、ある日突然、女になっちゃったの。でもまあ、この美貌だから、困ったことはなかったけどね」

「変化で……」

「男だった時も、それはそれはモテたのよ?」


 変化へんげは、神の成長。人々の思想の変化を実体化したものでもあり、神個人の心境の変化を具現化したものでもある。

 稀に、性別が変化する者もいると聞くが、まさか、彼女がそうであったとは。


「慣れるまで、大変でした?」

「それはもうすごく大変よ。女ってのはこんなに疲れる生き物なんだって、身に沁みて知ったわ」


 シヴァはルーシーに淹れて貰った紅茶を片手に、シーナの隣に座った。すらりとした脚を組むと、ハリのある太腿が露わになる。


「身体は非力だし、体調はコロコロ変わるし、その上毎日、メイクに髪の手入れ、服と美容。ネイルや体型にも気を遣わなきゃいけないし。すっかり慣れたけど、正直最初はめんどくさいって思っていたわ」

「変に絡んでくるトンチキもいんすにえ」


 キャンディを口から出して、メドューサが嫌そうに顔を顰めた。


「でも、男だったあたしは、女の凄さをより深く理解したわ。女はね、このティーポットのようなものよ」


 置かれた白いティーポットの輪郭を、シヴァはなぞる。


「滑らかな曲線のボディと華奢な手脚。いつまでも凛として、美しくあろうとする。そこが、食器棚の奥であろうと、食卓のテーブルであろうと、草原にひろげられたピクニックシートの上であろうとね。でも、実はすごく繊細で。優しく、丁寧に扱ってあげないと、壊れちゃうの」

「元の身体に戻りたいとは、思わなかったの?」

「あたしはあたしだもの。この身体が、男のものだろうが、女だろうが、どっちでもいいわ。関係ない。でも、今は……そうね、女って生き物はすごく楽しいから、戻らなくてもいいかな」


 シヴァは掌を、自分の胸に押し当てた。とても大切そうに。


「踊り子や芸妓のあたし達は、自分自身も舞台の飾り物の一部なの。着飾って、美しく立って、華のように笑い、パフォーマンスで魅了する。女らしい者だかこそできること、綺麗にしている者だからできることもあると知ったのよ」






 ***

 九尾の略称、九、と書いて「いちじく」と読ませました。

 古来イチジクは女性の性的なシンボル・象徴とされているらしいです。彼女にぴったり。花言葉は、「円熟した美しさ」と「実りある恋」です。おっと? これも少しは話に絡んできます。


 ほういえば、他にもこの物語には実存する花が幾つか登場しますが、その中で大きく取り上げているものは、花言葉が伏線と繋がっていたりします。

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