福音 -ρ

 あっという間に、髪が結い終わった。シーナの黒髪は、束ねられ、後頭部で編み込まれている。


「すっきりとしたシニヨンよ。予想通り、可憐な髪型が似合うわね。若い子の髪を結うのはやっぱり楽しいわぁ」


 椅子がくるりと回された。うっとりとした表情を浮かべる、目鼻立ちの整った顔が近づいた。ほんのりと、まろやかな透明の香りがする。


「それにしても、なんだって余興になんか?」


 九が訊く。


「ゼドの為ですってよ」


 シヴァが答える。


「あら、やだ!」

大層いこう健気でありんすねぇ」



 黄色い悲鳴が上がった。

 シーナは少し照れ臭くなって、含羞はにかんだ。


「出来たわよ」


 シヴァの言う通り、九の手際とその技巧は素晴らしかった。


「いやあ、素材がいいわっ。素材が!」

「わあ、すごい……ありがとうございます。九さんのお陰だわ」


 シーナは椅子から立ち上がり、鏡に顔を近づけて、自分の顔をまじまじと見た。

 頬に触れてみる。鏡の中の、少し大人びたシーナが、真似っこしている。


「大人の女性になったみたい……私が私じゃないようだわ」

「あら。女は何歳からでも、そして何歳までも、美しい女性よ? お化粧はそれを引き出しただけの、一匙ひとさじの魔法。それに、大人になる境目は、人それぞれ神それぞれなんだから」


 シヴァは目を伏せ、ふっくらとした厚めの唇にルージュを塗った。ヴェルヴェットのような深みと輝きのある発色。たった一筆の色づけで、華やぎが増した。


「女っていう生き物はね、生まれた時から女としての武器を持っているの」


 ドレスの裾を直す、彼女の手つきが優しくて、シーナの両手の指先は、所在なさげに絡めたり解いたりを繰り返す。


「武器?」

「ええ。武器を使って、男を……ゼドをハッとさせましょう? これは正真正銘、貴方の姿なんだから」

「本当の私……」

「こっちに来なんし」


 今度は、メドューサが手招きしている。彼女の元に行こうと立ち上がると、ルーシーが一足の靴を差し出してくれた。低いヒールのバレエシューズ。青いドレスに合わせ、白のベースに青いラインが入っていた。

 足をいれると、ぴったりだった。踊りやすそうな、柔らかい中生地。


「あとこれ」


 ルーシーに、耳飾りとネックレスをつけてもらった。クリスタルに似たきらめきが、胸元でそっと控えめに輝いた。


「ありがとう」

「いいのよ」


 ルーシーが微笑む。

 シーナはソファにしなだれるメドューサの前に立った。


「わっ」


 シュッと、何かを吹きかけられた。思わず目を瞑る。フローラルの香りが鼻腔をくすぐった。爽やかだが、官能的で落ち着きのある芳香。ゆっくりと深く吸い込むと、生花のベッドに放り込まれたような陶酔感を、シーナは味わった。


「邪気と毒を含んだ香水でありんす」

「毒!」

「安心しなんし。神の身体に害はござりんせん」


 シュッシュッと更に二箇所、香水を振りかけられる。


「香水をつけて、はじめて、女は完成するんよ」


 メドューサの言葉に、シーナは思わずこくりこくりと頷いた。彼女の言葉は、妙に説得力がある。


「邪神やら悪魔やらが一堂に介しているから、バレないように気を付けてね」

「えっ。これだけで大丈夫なんですか?」


 いつもは外套で隠す顔もさらしているので、尚のこと不安が募る。シヴァの言葉を聞いて、シーナの胸がすうっと冷えた。


「まあ私達の邪気はそこらの魔物より強いから。平気でしょう。紅茶も飲んだし、ドレスも邪気を纏っているし。一応ベールはけておく?」

「着けます……」


 海と空のあいだ。透き通る春のような色彩。被衣かずきは太陽にかかる雲の如く、面輪おもわをそっと覆い隠す。シーナはその凛とした瞳を、瞼の奥に仕舞い込んで。

 口をきゅっと結び、初めての戦いの舞台に足を掛けた彼女の心は、ふわりふわり。言いようもない感情ばかりの空模様。



 †



「優勝おめでとう、ゼド」


 見知った顔ぶれが、祝杯を手にゼドを迎え入れた。眼下で繰り広げられる、闘士達の血祭りをさかなに、酒盛りをしていたらしい。


「随分と高尚こうしょうな趣味だな」


 抑揚の無い感想を零して、ゼドは部屋の奥へと足を進めた。

 彼らは酒を喉に流し込み、空瓶を放り、好き勝手散々暴れ回っている。表彰式と称して呼んだ癖に、優勝者をきょうするつもりは毛頭ないらしい。


「今回もいい盛り上がりっぷりだった。流石、俺のゼド」

「いつから俺はお前のになったんだ」

「どうよ。ファミリーに入る気になったか?」

生憎あいにく俺には、首輪を繋がれてワンワンく趣味もないよ」


 彼はそれで労いの言葉をかけたつもりなのだろう。煙をいながら、組んだ脚をテーブルに乗せ、血塗れのゼドの格好を見て含みのある笑いを口許に忍ばせている。インフェルノで一二を争うマフィアの巨魁きょかいだけあって、その姿は堂々たるものだ。

 片手にワインを持ち、煙たい部屋のもやに向かって、彼は息を吹きかけるように煙を吐き出した。


「ゼドー! やっぱ優勝すると思ってたっすよ! ただ、犬呼ばわりだけは解せないっすねぇ!」


 挨拶代わりに突き出された拳を、左手で受け止めた。殴りかかって来たとは思えぬ人満面の笑みで、あかはゼドに飛びつき、頬ずりしてくる。左耳の冷たいピアスがゼドの頬に触れ、深いオレンジ色の髪が、視界を忙しなく出入りした。

 かかる息が既に酒臭い。彼の熱い抱擁を押しやり、ゼドは彼が手に持つ空の瓶を見遣みやった。


「何本目だ」

「ええー。そんなん一々数えてないっすよ」


 相当量飲んだようである。

 赫は手に持っていた瓶を放り捨て、その腕をゼドの肩に回す。ぐりぐりと頭を撫でくりまわされ、ゼドの表情は更に渋いものになった。


 ゼドを撫で、肩を抱くこの手に、ゼドは一度撃たれたことがある。初めてアンラに出会った時のことだ。

 赫は人懐っこい笑顔を浮かべて誰とでも絡む、一見ちゃらちゃらとした男だが、その実、人一倍警戒心が強く、比較的排他主義だ。せっかちで淡白な反面、短絡的な部分もある。その上無論、アンラ至上主義なので、アンラが白を黒と言えば、白を白と主張する者を皆殺しにするような、傍若無人ぼうじゃくぶじんを絵に描いたような男である。

 ゼドが軽率にアンラに近づいたのも一理あるが、奴は躊躇なくピストルの引き金を引いた。コンマ何秒すら思考に時間を使わず、脊髄反射で生きているに違いない。胸部を撃たれたので、神器であったら相当危なかっただろう。


「楽しかったっすかぁー?」

「まあ」

「とんとん拍子の優勝はつまらないかと思って、アミィを参加させたってアンラ様の粋な計らいって理由わけ。案の定、手こずっていたっすね」

「流石に肝は冷えた」

「ゼドに冷やすきもなんてあるんすか? 面白い冗談っすね」


 ゼドがアンラに害なす者ではないと分かってきてから、アンラに気に入られていることもあって、顔を合わせては赫に絡まれるようになった。この調子では、正直以前の方が良かったのではないかと後悔が過ぎるほどだ。


「ゼド」

「ドゥルジさん……」


 ドゥルジが近づいて来る。後輩の赫と共に、双璧そうへきとしてアンラを支える鉄鞭かなむち遣いの男神だ。

 目つきの鋭い強面で、右眼を縦に割るように、傷が走っている。肩まである紺の艶髪を後ろでくくり、前髪は目に少しかかっていた。孤影に似た陰鬱な雰囲気も相まって、残忍さ際立つ外見だが、赫よりも分別と了見を持つ慎重な男だ。


「こいつをどうにかしてくれ」

「賞金だ」


 ゼドの頼みを無視するドゥルジに、大袋に詰め込まれた金を手渡された。不思議に思って彼を見上げても、少し焦点が合わない。残念ながら、この男も酔っているようだ。

 麻袋の口を開け、中を覗いて確認する。一緒に覗き込んだ赫が、歯を剥き出しにしてにやつく。


「確かに受け取った。どうも」

「ああ。こっちも大儲かりだ。可燃物はたくさん出たがな。はははっ」

「可燃物って、魔物の死体のことか」


 滅多に笑わないドゥルジが、にこにこと下手くそな笑いを浮かべながら饒舌になるのは、酔っている証拠だ。彼は手に持つ頭蓋骨の盃を干し、そこにまた大量の酒を注ぐ。


「ドゥルジさん、酔ってるな」

「酔ってねえよ……ほら」


 バシンッと強烈な音と、ぼたぼた血が降る重い水音。風が掠ったゼドの頬に、血が滲んだ。


「……酔ってねえだろう」

「そうだな。酔ってない」


 振り返らずともわかる。ゼドの後ろにいた男が、鉄鞭の餌食となったことくらい。

 ドゥルジは仕事のできる男だ。効率重視の感情度外視。アンラの命令以外は、理性で物事を判断するので、幾らでも無慈悲になれる。ただ、酔った時は、慎重さという利点が一変。論理的思考力が欠如し、ただの残忍な色男が出来上がるのだ。嘆かわしい。


「ゼド、お前、準決勝の動き良かったぞ」

「えー、俺は決勝の時の方が良かったと思うっすよ」


 ドゥルジの目が据わり、いつも以上に剣呑なものになった。


「相手の股下潜って、背後から刺す。良い身体捌きだろうが」

「えー。正面からドカーンの方が、絶対かっこいいっすよ! 先輩はいっつも陰湿なプレーばかり好むから、ムッツリって言われるんすよ」

「だ、誰がそんなこと言ったんだ! 関係ない話を持ち込むな!」

「俺を挟んで喧嘩しないでくれる」


 彼らは『ダエーワ』のツートップ。ペアも良く組んでいる癖に、ことごとく意見が合わない。

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