福音 -ο

  †



「こっちよ。散らかってるけど、気にしないで」


 シヴァがシーナをヘルーデの衣装部屋に連れて行く。バックヤードは手狭で、その上、廊下のあちこちに箱やら衣装やらが積まれているので通りにくい。気を付けて歩かねば、何かの拍子に色々なものを壊してしまいそうだ。


「ゼドって可愛いわよね」

「えっ?」

「あんな仏頂面でも、うちの女の子達に人気なのよ。あの朴念仁ぼくねんじんが、戦いとあらば嬉々としてナイフを振るうんだもの。シーナも尽くしたくなっちゃった?」


 先を行くシヴァの、揺れるダークブラウン髪をシーナは見る。艶のある髪は、何で手入れしているのだろう。後ろを歩くだけで、香りを追って飛ぶ、蝶の気持ちになる。


「そう、なのかもしれないです。私がお兄ちゃんの為にしようとしたことは、彼の為になることじゃなかった。一方的に自分の思いを押し付けただけだったの。お兄ちゃんは優しいから……いつも私は与えられてばっかりで、焦っていたのかもしれない。勝手に突っ走って、フェンリルに止められて。私ったら、本当に考えなしだったわ」

「ごめんごめん、そんな落ち込まないで。少し揶揄からかっただけなのよ」


 シヴァがけらけらと笑った。


「私が言った、尽すっていうのは……なんて言うべきかしらね? 色恋いろこい感情主体の行動のことよ」

「色、恋?」

「そ。私を見て、ってアピールしてるの。でも、貴女が彼に何かしてあげたいって思うのは、他のみんなとは少し違う理由だと思うわ。ゼドが抱いている感情も、きっと似たようなものよ。何か返さなきゃと焦る必要はないわ」

「お兄ちゃんも、私と同じ気持ちなの?」


 廊下に並んだ、たくさんのラック。様々な衣装が、木目の床にきらきらと色を散らしている。

 シヴァは吊り下げられた服を手でけながら、少しだけ首を捻って振り向くと、曖昧な笑みを浮かべた。


「フェンリルから話は聞いたわ。貴女は、何故あの場で、あんな無茶なことをしようとしたの?」

「お兄ちゃんの、友達、だから……」

「それだけ?」

「え、ええ……それだけ」

「そこが、暗に見返りを欲しがる色恋特有の、与える行為とは決定的に異なるところよ。ゼドに与えて貰ったから、何かあげたい。そういう理由も確かにあるのでしょうけど、貴女がゼドの為に動くのは、そんな理由だと思えないもの」


 シーナは答えられず、沈黙する。わからなかった。フェンリルに、啖呵を切ったにも関わらず、わからなくなってしまった。


「ぎぜん、なのかもしれないけれど……その……本当、何も見返りなんて要らなくて。ただ、お兄ちゃんには、生きて欲しいの。危険なことばかり、しないで欲しいの。……お兄ちゃんは、本を読む時すごく夢中で文字を追ってた。考えごとをする時は、ちょっぴり気難きむずかしそうに顔を顰めてるけど、生き生きとしてた。戦いが、お兄ちゃんにとってよろこびだってことは理解したわ。でも、こういう……見せ物の役者の一人として彼が死ぬのは、どうしても嫌なの……」


 言葉に出せども、自分の心はすっかり迷子だった。うことすこと全てが煩雑で、矛盾ばかり。

 しかし、まとまりのつかないシーナの言葉に、シヴァは黙って耳を傾けてくれた。


「お兄ちゃんは少し、生き方を間違えてる」

「生き方? ゼドの生き方なんて、ゼド自身が決めることだと思わないの?」


 歩きながら、シヴァが訊く。


「そうだけど……。間違ってることは間違ってるって、友達だからこそ、言わないとだめだと思う。お兄ちゃんがナイフを握るのを、戦うのを、誰かを殺めるのを、今の私は止められないわ。正直まだ、どうしたらいいのか、自分の中でも明確な答えが出たわけではないの。お兄ちゃんが、自分の為に戦っているようにも見えて、あんな殺し合いのゲームが、神聖な勝負事にすら思えてきたわ」


 ゼドが楽しいなら、それでいいのではないか。ゼドが望むなら、言いたいことを胸に仕舞い、静かに見守ればいいのではないか。そうも思った。

 こんなにも、善悪の線引きや道徳の定義に迷ったことはなかった。そもそも、意識すらしてこなかった。そのツケが回ってきたに違いない。この調子ではゼドの役に立つどころか、ましてやインフェルノとヘヴンの溝を修復しようなど、夢のまた夢。机上の空論で終わってしまう。


「ただ……その、上手くは言えないけど……。彼の優れた智慧や武術は、魔物や人を殺すことに使うより、もっと素敵な使い方ができると、私が信じたいのかもしれないわ」

「素敵な使い方、ねえ……」


 ゼドを生かしてきたのが、殺生の剣だという事実も、この世界では死が当たり前だという現実も、シーナは知った。

 血を見るような争いを無くしたいという主張が、あまりにも浮世離れした綺麗事だということも、嫌というほど分からされた。

 それでも、シーナは諦めることができない。


「私はお兄ちゃんの友達として、味方でいることしかできないけれど、彼が知らない幸福を、私は一緒に探したいの」


 友達とはやはり、そういうことだ。

 誰に問おうと、絶対的な正解は得られない問題だが、シーナは単純に、これでいいと思った。


「そう……なら、自分の気持ちを信じたらいいわ」


 足の先ばかりにっていた視線を、シーナはまた彼女に移した。シヴァは立ち止まり、澄明なる第三の緑眼でシーナを一直線に射抜く。

 すぐ側の部屋から漏れる光が、淡く彼女の右半身を縁取った。夜空に浮かぶ、弦月げんげつのようだ。


「本当の気持ちを無視するなんて、自分自身に失礼だもの。自信を持って。ゼドの為にしたいと思ったことは、すれば良いのよ。まあ、私は邪神だから、シーナの考えは随分おかしなように聞こえるけど、貴女の純粋な言葉と行動はちゃんとゼドに届くわ」


 シーナは、シヴァの励ましに、ホッと息を吐くと、にっこり笑い返した。


「ところで、シヴァさんもゼドのことが好きなの?」

「え?」


 不意をついた質問に、きょとんとした顔で振り返ったシヴァは、その問いの真意を見定めようと、シーナの眼をじっと見つめた。そして何かと思えば、彼女は途端、くすっと悪戯な微笑を零す。


「いい男になると思わない?」


 ゼドが成長したら。オルクスや禍津のような、男性になったら。隣に立つのはきっと、シヴァのような魅力的な女性であるに違いない。

 シヴァは続ける。


「あと何度か変化へんげが来て、もう少し成長したら、狙っちゃおうかしら」

「よしなんし。みっともないだけでやんす」


 誰かが会話に口を挟んだ。シヴァは目を釣り上げて、廊下に面した部屋の奥に鋭い視線を投げる。

 彼女の額に開眼した瞳だけは、ずっとシーナの方を見ていて、シーナはそれから目が離せなかった。


「なぁにがみっともないですって? これでもこの店の売れっ子看板娘よ?」

「いつまで娘気取りのつもりでありんすか?」

「あんたこそ、そろそろ男児をバックヤードに連れ込むのをやめたらどう? ここはそういうところじゃないの。本っ当に、オルクスといい、あんたといい……」

「あら、なんざんす?」

「しらばっくれても無駄よ。早く追い出しなさい」


 シーナが遅れて部屋に入ると、香粉こうふんの香りが鼻をくすぐった。ソファにしなだれて座る女性が、目前で仁王立ちして噛み付くシヴァの言葉を、気怠けだるげに聞き流している。


「メデューサ」


 シヴァが語気を強め、そう言うと、彼女のぽってりとした唇が、これみよがしに濡れた溜息を洩らした。


「……アドニス、ナルシス」


 彼女の羽織る色鮮やかな打掛うちかけの下から、二人の少年が出てきて、シーナは吃驚びっくりした。大きく末広がる服の裾に、身を隠していたようだ。

 大層見目麗しい少年達だ。外見はシーナよりも幾つか歳下のように見える。ただ彼らは、崩れることのない無表情の仮面を、その美貌に張り付けていた。

 メデューサが手で、シッシッと追いやる仕種をすると、彼らは静かに部屋を出て行く。それを目で追ったシーナに、爪研ぎを手に取ったメデューサが、縦長の爪を整えながら「男娼だんしょうでありんす」と言った。


 理解していない様子シーナを見て、メデューサは続ける。


「春をひさ男児ボーイのことでありんす。買われれば老婆の相手も、魔物の相手も、男のモノだって咥えんす」

「メデューサ……今日は忙しいのよ? 支度はできたの?」


 シヴァが訊く。


「安心しておくんなんし。仕事はきっちりしなんす」

「ならいいけど」

「ところで。貴女おてきは誰でありんすか」


 ネイルを眺めていた、朱で縁取られた目が、じろりとシーナを捉えた。宝石のように輝く吊り目は鋭く、め付けられ、責められている気分になる。


「シーナよ。余興で舞を披露することになったから、今から着飾るの」

「へえ。随分と乳臭い子じゃあおっせんか」

「こーら」


 シヴァが彼女の頭を叩くと、結い上げた髪から蛇が飛び出した。シーナは驚きに目を丸くする。

 艶のある髪だと思っていたのは、無数の蛇の髪であったようだ。こうがいに鼈甲の大櫛、前びらや花簪といった飾りを、蛇が口に咥えていた。

 抜襟から覗くなだらかな首筋から、婀娜あだめいた匂いが漂い、色気に満ちた彼女の一挙一動はどこか官能的で、不覚にもどきりとしてしまう。

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