福音 -ξ

 ミーノを生かす自信はあった。しかし、連れ帰るのが必ずしも、五体満足の身体または生きた肉体だとは、保証できない。とは言えゼドは、受けた依頼の報酬に見合う仕事はするつもりであった。弁慶からの信用というちんけな対価を得て、機会があればこの次も、同様の楽な仕事で金を稼ぐつもりだからだ。


 革手袋の両裾を引っ張る。首をぐるりと回した。骨が鳴った。地下通路から戦いの場へと、歩く。

 闇がめいに転じた。


「ナンバー十三! 大蛇神、ヨルムンガンド!」


 アリーナに現れたゼドを、轟音と化した歓声が包み込んだ。

 飽きるほど見た、血濡れの舞台。

 なまぐさい血とえた肉の匂い。

 むさ苦しい熱気と死臭。

 どくん、と胸が高鳴る。高揚感が、全身に満ちてゆく。しかし、どうだろう。熱くたぎる胸のうち、悪辣無比なる本能の、ほんの隅っこに、名前を知らない何かが生まれた気がする。己の快楽の為に、持て余した暇を潰すために、単なる憂さ晴らしの為に……そんな口実では説明のつかない感情が、邪な思いばかりがのさばる心に、押しってくる。不快ではない、不快では。


「おい、ヨルムンガンド」


 俺は、何のために、競技場ここにいるんだろうか。


「ガチンコ勝負といこうぜ」


 手前に立つミーノが、棍棒こんぼうを振り回しながらゼドに言った。挑戦的な彼の態度を、鼻で嘲笑あざわらう。


「お前との試合は少しばかりお預けのようだ」


 取引関係がある以上、殺しはしないさ。


「いいぜ。先にこっちを片しちまおうってか」


 ふるわれた棍棒が、怪物をまとめて薙ぎ倒す。先端の太い六角柱を覆う突起が、獣肉に風穴を開け、怪物を脊柱せきちゅうに沿って真っ二つにし、皮をいだ。


「おいおい。この程度でへばられちゃあ、困るんだよ! お前らを屠殺とさつしに来てるんじゃねぇんだからさぁ!」


 猪突猛進、暴虎馮河。まるで、暴れ牛のようだ。

 今回も守ってやる必要はなさそうだ、と、ゼドは死体からナイフを抜きながら、ミーノの様子に苦笑いした。


「お前……本当に人間か?」


 喜悦に浸った表情を色濃くする彼は、餓狼がろうのように血に飢えた獣。人間性が剥離はくりしたその姿は、邪神のゼドからすれば、なかなか興味深く、可笑おかしいものである。


「人間ってのは案外、魔物よりも悪魔よりも、それこそ邪神よりも、残酷な生き物なんだぜ」

「へぇ、そりゃあ人間様にはこぞって堕ちて来て貰いたいものだな。手厚く歓迎するぜ」

「これは本当のことさ。センスのある奴ばかりさ」


 ミーノはねじれた首を、胴体から切り離す。

 その生首を見つめる瞳は、無窮むきゅうの沼のおり。不思議な混じりけのある、深い深い、底無し沼。これでは、暁星ぎょうせいの放つ一条いちじょうの光すらも、見えはしないだろう。



 †



「ふう、たーのしかった! ……お嬢ちゃんは、体調どう?」


 笑顔で帰って来た若干赤ら顔のフェンリルは、興奮冷めやらぬ様子。机に突っ伏したシーナの前に座ると、ご機嫌で酒を注文する。


「おいおい、大丈夫か?」


 つんつんと、頭を突かれ、シーナがむくりと顔を上げた。少し青褪あおざめている。


「大丈夫、ではなさそうだな」


 フェンリルは腹を抱えて、げっそりとしたシーナを笑う。


「よく最後までゼドの試合を見切ったよな。そういうお前の根性あるとこは、案外嫌いじゃないぜ」


 フェンリルは、返事する気力すらなく、再度机に突っ伏したシーナの後頭部を、含み笑いで見つめていたが、酒が運ばれてくるとシーナそっちのけで手を擦り合わせて喜んだ。


「シーナになんてものを見せてるのよ」


 ごくりごくりと勢い良く杯を干すフェンリルに、シヴァが苦言をていする。


「だって、ゼドの勇姿が見たいかと思ってさぁ」


 眉を寄せて、彼女はシーナに新しい水を出した。


「お兄ちゃんはよく闘士競技ワルキューレに出るの?」

「頻繁ではないけど……時々出てるわよ」

「そう、ですよね……。私がいるから、お金がもっと必要になっちゃって、お兄ちゃんがこんな危険なお仕事に」

「そんな、シーナが気にすることじゃないのよ? ほんっといつも、喧嘩がなんだ、闘争がなんだって、血腥い話に首突っ込んでるような奴なんだから」


 ソファに腰を下ろすフェンリルを押しやるようにして、シヴァが彼の隣に座った。フェンリルは露骨に嫌な顔をする。彼女の手には、伽羅色きゃらいろの酒が注がれた、華美なグラス。


「大抵の奴にとって、闘士競技ワルキューレは命懸けの金稼ぎだからな。死に物狂いで殺しにかかってくる。それがあいつには堪らねぇんだろう」

「うん……」


 シーナは溜息を吐き、少量の水を口に含んだ。

 あの、と遠慮がちに口火を切ったきり、何も言わなくなったシーナをいぶかって、シヴァが首を傾げた。フェンリルは金の瞳だけを、グラス越しに投げている。


「何か、私にもできるお仕事ってないかしら?」

「今度は何しでかすつもりだ?」


 フェンリルが言葉尻に被せるように訊く。


「だって、迷惑かけっぱなしでしょう? 私にも何かできることないかしら? 力になりたいの。どんな、些細なことでもいいから」


 フェンリルは大袈裟な溜息を吐く。びしり、とシーナを指差して彼は足を組み替えた。


「お前は家で大人しくしてりゃいいの。余計なことをしないこと、それがテメェにできる唯一のことだ」

「そんなこと言っわれたってねぇ……ずっと家でゼドの帰りを待つのって、大変なことよ? ね? シーナ」

「面倒ごとを起こして、ゼドが駆り出されることになってみろ。俺が怒られるに決まってる」

「何も起こさなきゃいいじゃない」

「こいつの場合、何も起こさない、なんてことがねえんだよ。必ずと言っていいほど、厄介なことを持ち込んで来るはずさ」

「だからって大人しく待つだけなんて、しんどいに決まってるじゃない! しかも相手は、よりによって、あの血狂いのゼドよ? シーナの心境も考えてあげなさいよ。本っ当、あんたはいつもそうよね」

「はぁ? なんだてめぇ。俺が悪いみてえに!」

「だってそうじゃない。ゼドもゼドよ。ひとがりに考えちゃって。馬鹿みたい」

「ああ? てめえ今何つった!」


 激昂するフェンリルそっちのけで、シヴァはシーナに顔を向ける。

 大人の女性らしい、しなやかな体躯が、穏やかなカーブを描いた。くるりと上がった濃い睫毛、甘い香りのする頬、紅の色に艶めく唇。煌びやかな衣装にも負けない、派手な美貌は、淫靡な色気を振り撒く。


「ね。ゼドの為に、何かしてあげたいんでしょ?」


 シヴァはそう言ってにっこり微笑むと、グラスをテーブルに置いて、少し身を乗り出す。


「シーナ。貴女、何か得意なこととかある?」

「得意なこと……お願い事を聞くこと?」

「おいおい、こんなポンコツに期待できるもんなんて何もねーよ」


 フェンリルの失礼な発言を、「黙らっしゃい」との一言で跳ね除けると、シヴァは再度シーナの答えを待つ。


「確かに善神らしいけど……こう、貴方にしかできないこと、他にない? 好きなことでも良いわ」

「ジャム作りとか、お琴かしら。そうね、あとは舞とか……」

「それよ!」

「え?」


 きらきらとシヴァが目を輝かせ、シーナの手を取った。グラスを掴んでいたせいか、その掌は冷たい。


「あっ、いいところに」

「ん?」


 振り向いたのは、死神オルクス。シガーを咥え、ベルトを絞めながら奥の部屋から出て来たところを呼び止められ、彼は眉を顰めた。


「なんだ」

「あんた……」


 ソファの背に肘を乗せ、シヴァは呆れ顔になる。


「また、女を連れ込んだわね」

「連れ込んだんじゃねえ。誘われたんだ」

「どっちだって、一緒でしょう? ……まあいいわ。ねえ、今日の宴の余興、ひと枠握って来てくれない? 管理しているのはサキュバスでしょう? 掛け合ってみて」

「別にいいが……」


 オルクスがシガーを口から外すと、崩れた形の煙の輪が昇っていく。シガーのヘッドを挟む手とは逆の手で、彼は雑にシャツのボタンを留め始めた。


「シーナ、舞を披露しましょう」

「え?」


 疑問符は、見事な三重奏。


闘士競技ワルキューレの後は、必ず表彰式と、酒宴が開かれるの。その酒宴はそれはもう酒を浴びるように飲んでお祭り騒ぎなんだけど、その横で余興が催されていてね。そこでシーナが舞を披露するのよ」

「舞の、披露……」

「私やルーシーも出演するの。きっとゼドも喜ぶわ」

「そうかしら? 喜んで、くれるかしら?」


 少し思案顔だったのも束の間、シーナには期待の笑顔が広がった。


「どう?」

「私、やってみるわ!」

「俺は知らねえぞー」


 こくりと頷くシーナの前で、フェンリルはやれやれと首を振った。


「そうと決まれば、早速支度をしなくちゃね」


 シヴァは軽く微笑むと、髪を背に流し、立ち上がる。耳飾りが揺れた。彼女が前屈みにシーナに顔を近づければ、深い襟ぐりからこぼれそうな豊満な胸がきゅっと寄り、甘美なる香りが漂った。


「おいで。とびきり可愛くしてあげる」


 柔らかな言葉と褐色の掌が差し出される。

 美しい。女の完成された美であり、不完全で魅惑的な美である。

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