福音 -ν
ミーノの言葉を無視して、歩き出そうと踏み出した右足。それを止める言葉が、彼から放たれる。
「今回は手ぇ抜くんじゃねえぞ」
怒気すら滲むそれは、喧嘩相手としては上等だが、インフェルノに生きる人間の言葉にしては高潔で、この汚れた舞台に立つ闘士にはややそぐわない台詞。
「何のことだ」
「前回お前が出場した
「
「俺は騙せねぇぞ」
吠える男は見苦しいだけだと思っていたが、この男の咆哮は、どこか違う気がしてくる。
「いいか? てめえの情けなんぞ要らねえ。そんなもの、
「だから、違うと言っているだろうが。言い掛かりもほどほどにしろ」
ああ、苦手だ。この男の、真っ直ぐすぎる眼は。
やけに気概のある態度が、苛立たしいほどの愚直さが、胸の
嫌でもあの
「用件はそれだけか」
訳もなく腹が立つ。
「ああ、そうだよ。小癪なてめぇの
くぐもる怒号は、分厚いマスクを貫き、ゼドへと向かう。色の強い鮮やかなオッドアイが、ゼドの目を刺激した。頭がずきずきと痛む。
「お前もまだ青臭い餓鬼だろうが」
突きつけられた人差し指をへし折りたい気持ちを抑え、ゼドは吐き棄てた。
人間は、図体ばかりが大きくなる。未熟な精神を伴わずして。ゼドの生きた年数と、彼の生きた年数。どちらが多いかと問われれば、大した差はないだろう。
「とにかく、今回は本気でぶつかってこい。手ぇ抜いたら、ぶっ殺す」
しっかり釘を刺して、彼は肩を怒らせながら去って行った。
その背中は、背伸びをした子供のものだ。彼は
ゼドは肺を意識して、呼吸した。膨れ上がった不可解な苛立ちを、一緒に吐き出してしまおう。こう、気持ちが揺らぐのは、嫌な過去を思い出したからに違いない。きっと、そうに違いない。
一度、そして二度三度。
目を伏せ、ゼドは片足を引いて振り返った。
「次から次に……何なんだ。出て来い」
ぬっと姿を現したのは、
「
「お前は、いつまでこんなことを続けるつもりだ」
ゼドは渋面でそう返す。
「天が我が身に死を
「見上げた忠義心だな」
「これが、陰ながら見守ることしか出来ぬ野暮な男の、唯一の
そう零すこの男、名を
そこから推察するに、ミーノは人間の中でも、裕福な家庭で育ったボンボンだということが分かったが、正直どうでも良いことだ。彼は窮屈な詰襟を着るより、此処で野放図に暮らす方が性に合っている。
「あいつの為なら、命も惜しくないってか」
「大蛇殿。頼む」
ゼドの蛇眼が、彼の持つ灰緑の布を掠める。無言で差し出した掌の上に、色褪せた
弁慶は僧兵の出立ちをしていた。色褪せた衣の
人の為に生きるというのは、そんなにも良いものなのだろうか。ゼドには理解できない。対価の得られない
実に愚かだ。馬鹿らしい。胸中で呟く。
ミーノもそうだ。
「お前の命は、あいつの命とは違って、投げ出してもいい軽いものということか」
「軽くはありませぬ。ただ、私の命よりも重い、使命があるだけのこと」
「誰かに命じられたのか」
「いいえ。我が命に代えてでも護りたいものが、できてしまったのです」
「よく分からないな」
「そのうち大蛇殿にも、分かる時が来ましょう」
そう言って、弁慶は軽く微笑んだ。
やはり彼の言っていることは毛ほども理解し難いが、不思議にもゼドはこの男を嫌いにはなれなかった。
だから、ゼドが闘士競技に出場する時には決まって、この取引を受けてやっていた。これも、気紛れという些細な悪神の施しである。それに
「いいのか。奴は、本気の勝負とやらを望んでいるようだが」
「命は、尊いものです。そう易々と死んではなりませぬ。目的も無く、格別賞金が欲しい訳でも無く、一時の鬱憤と激情をぶつける為だけに、ミーノ様は戦っておられる。私はあの方に生きて欲しい。生きていれば、もっと、幸せというものを知ることができるのです」
「直接言ってやったらどうだ」
「私の言葉は聞きませぬ」
弁慶が被りを振る。
「力づくで止めてみろよ」
「力任せの強引な者の言葉など、殊更響かぬでしょう」
もう知らん、とゼドは肩を竦めた。
闘士競技は、闘士の誰が生き残るかを賭けるギャンブルだ。しかし、四戦目までの勝ち残り戦には時間制限があり、二人以上がフィールドに残っていた場合、より多くの敵を
生きてミーノを戦線離脱させる為には、彼が
ミーノは、青二才にしては腕が立つ。人間だてらに魔物をバッサバッサと斃していくのを見ていると、彼は人間の坊やよりも、よっぽど悪魔の方が適任だと思えてくる。そうして勝手に、ゼドとの試合に駒を進めてくれるのは、大変
毎回ゼドとミーノが同じブロックにいるのは、弁慶が運営側にも手を回しているからだ。この闘士競技、開催しているのは、インフェルノのマフィア、あのアンラファミリーである。
「今回は幾ら積んだ」
「五千」
「向こうも大きく出たな。アンラの奴、味を占めたな」
弁慶のこういった、ことのほか躊躇なく奸計を巡らすところも、ゼドは気に入っていた。
「仕方ないことです。取引とは、そういうもの」
そして、案外すっぱりと物事を割り切れるところも。
この男がどうして、ヘヴンで善人を貫けていたのか気になるところだ。ミーノの為ならばと、一人くらい殺していてもおかしくない。
「長話し過ぎたな」
アリーナの方が、騒がしい。
「試合の時間だ」
ゼドはその貧相な包みを仕舞いながら、アリーナへと足を向けた。
「いつもかたじけない。頼みましたぞ」
頭を下げる弁慶を背に感じる。この小包は、やけに他の代物より重い。
人間も神も、死ぬ時は死ぬ。時として人は、抗いようのない運命の
***おしらせ
実は、思い切ってカクヨムコンにエントリーしてみました! きゃー笑笑
カクヨムを始めて半年過ぎですが、コンテストの仕組みを全然理解してないww 「キャラクター文芸」ってところにエントリーしました! だいぶ下火のこの作品、大丈夫かしら…と心配してますが、更新くらいは頑張ってみようかな!と! できる限り更新しようと思っています。
よければ、お力をお貸ししていただきたく! 執筆パワー&読者選考突破パワーになるので、応援のほど、よろしくお願いします〜っm(_ _)m
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