福音 -ν

 ミーノの言葉を無視して、歩き出そうと踏み出した右足。それを止める言葉が、彼から放たれる。


「今回は手ぇ抜くんじゃねえぞ」


 怒気すら滲むそれは、喧嘩相手としては上等だが、インフェルノに生きる人間の言葉にしては高潔で、この汚れた舞台に立つ闘士にはややそぐわない台詞。


「何のことだ」

「前回お前が出場した闘士競技ワルキューレ。俺は覚えてっからな……てめえは手を抜いた。俺にトドメを刺さなかった。あの場で殺せたはずだ」

偶々たまたまだろう」

「俺は騙せねぇぞ」


 吠える男は見苦しいだけだと思っていたが、この男の咆哮は、どこか違う気がしてくる。


「いいか? てめえの情けなんぞ要らねえ。そんなもの、お友達いぬにでも食わせておけ」

「だから、違うと言っているだろうが。言い掛かりもほどほどにしろ」


 ああ、苦手だ。この男の、真っ直ぐすぎる眼は。

 やけに気概のある態度が、苛立たしいほどの愚直さが、胸のうちを乱暴に掻き混ぜる。

 嫌でもあのを思い出す。


「用件はそれだけか」


 訳もなく腹が立つ。


「ああ、そうだよ。小癪なてめぇのツラなんぞ見たくなかったがな! これだけは言っておかねえと、俺の気が収まんねえ!」


 くぐもる怒号は、分厚いマスクを貫き、ゼドへと向かう。色の強い鮮やかなオッドアイが、ゼドの目を刺激した。頭がずきずきと痛む。


「お前もまだ青臭い餓鬼だろうが」


 突きつけられた人差し指をへし折りたい気持ちを抑え、ゼドは吐き棄てた。

 人間は、図体ばかりが大きくなる。未熟な精神を伴わずして。ゼドの生きた年数と、彼の生きた年数。どちらが多いかと問われれば、大した差はないだろう。


「とにかく、今回は本気でぶつかってこい。手ぇ抜いたら、ぶっ殺す」


 しっかり釘を刺して、彼は肩を怒らせながら去って行った。

 その背中は、背伸びをした子供のものだ。彼はいている。死に急ぐには、些か早かろうに。勿論、彼が望むならば、止めはしないが。


 ゼドは肺を意識して、呼吸した。膨れ上がった不可解な苛立ちを、一緒に吐き出してしまおう。こう、気持ちが揺らぐのは、嫌な過去を思い出したからに違いない。きっと、そうに違いない。

 一度、そして二度三度。漣立さざなみだつ感情が落ち着いていく。心の平静を乱す感情など不要だ。余計な思考に割く労力はない。その上、戦いの場では命取りにもなりかねない。

 目を伏せ、ゼドは片足を引いて振り返った。闇黒くらがりの中。紛れるようにして、息を潜めている者がいる。


「次から次に……何なんだ。出て来い」


 ぬっと姿を現したのは、薙刀なぎなたを手に持ち、白袈裟しろげさで頭をつつんだ大柄な男。蚩尤ほどではないが、この男も相当の偉丈夫いじょうぶである。ゼドの傍まで来た彼を見上げると、静かにミーノの後ろ姿を見守っている。ミーノの姿が見えなくなると、彼はやっと、ゼドの方に顔を向けた。


大蛇おろち殿。若を、助けてくださらんか」

「お前は、いつまでこんなことを続けるつもりだ」


 ゼドは渋面でそう返す。


「天が我が身に死を穿うがつまで。私の身も心も、全て若様のものにございますゆえ

「見上げた忠義心だな」

「これが、陰ながら見守ることしか出来ぬ野暮な男の、唯一の奉公ほうこう。それすら成せないとあらば、腰に提がった鞘と同じに過ぎませぬ。臣下とかんしただけの、ただの飾り物でございましょう」


 そう零すこの男、名を武蔵坊むさしぼう弁慶べんけいという。ヘヴンで暮らしていた頃からミーノの護衛役だったらしく、彼が罪人となってインフェルノに島流しされても尚、臣下として付き従っている。

 そこから推察するに、ミーノは人間の中でも、裕福な家庭で育ったボンボンだということが分かったが、正直どうでも良いことだ。彼は窮屈な詰襟を着るより、此処で野放図に暮らす方が性に合っている。


「あいつの為なら、命も惜しくないってか」

「大蛇殿。頼む」


 ゼドの蛇眼が、彼の持つ灰緑の布を掠める。無言で差し出した掌の上に、色褪せた袱紗包ふくさづつみが乗った。その際、擦り切れた墨染の裳付衣もつけころもの袖に目がいく。

 弁慶は僧兵の出立ちをしていた。色褪せた衣のらんに、括袴くくりはかまから枝垂しだれるほつれ糸。黒くくすんだ脛巾はばき草臥くたびれた。裏が擦り減った足駄あしだは、そろそろ彼の体重を支えきれなくなりそうだ。薙刀を持つ方とついの手には、鬼の角が生えた般若の面。なるほど彼はもう、自らの手で彼を守る術を失ったのか。

 しなび始めた浅黒い皮膚に、細い赤茶の瞳。ただ、彼の顔つきは引き締まっている。強い、あまりにも強い、誠の志の投影だ。折れることのない信念を胸に宿した、このような者のことを人は、武士もののふと呼ぶらしい。


 旺然おうぜんと湧く彼の忠誠は、心という感情の泉の、何処いずこより流れ出しているのだろうか。

 人の為に生きるというのは、そんなにも良いものなのだろうか。ゼドには理解できない。対価の得られない寄与きよなど、無価値だろうに。

 実に愚かだ。馬鹿らしい。胸中で呟く。

 ミーノもそうだ。哀調あいちょうすら帯びるよどんだオッドアイの底に、微かに浮かぶ誰かへの想い。人間は諦めが悪いと聞く。弁慶に言わせれば、命を軽んじる行為を繰り返す彼も、自分の命をなげうってでも、心裏に秘めたる誰かへの想いに突き動かされているのだろうか。でなければ、彼の死んだ色の眼に、弁慶と似た力強い炎がともっている筈がない。


「お前の命は、あいつの命とは違って、投げ出してもいい軽いものということか」

「軽くはありませぬ。ただ、私の命よりも重い、使命があるだけのこと」

「誰かに命じられたのか」

「いいえ。我が命に代えてでも護りたいものが、できてしまったのです」

「よく分からないな」

「そのうち大蛇殿にも、分かる時が来ましょう」


 そう言って、弁慶は軽く微笑んだ。

 やはり彼の言っていることは毛ほども理解し難いが、不思議にもゼドはこの男を嫌いにはなれなかった。粗野そやで、堅物で、不器用。荒削りの木刀のような人間だが、一本筋の通った男でもある。

 だから、ゼドが闘士競技に出場する時には決まって、この取引を受けてやっていた。これも、気紛れという些細な悪神の施しである。それに金高かねだかも悪くない。目的を達するのに、手段を選ぶ必要などない。闘士殺ししかり、闇取引しかり。


「いいのか。奴は、本気の勝負とやらを望んでいるようだが」

「命は、尊いものです。そう易々と死んではなりませぬ。目的も無く、格別賞金が欲しい訳でも無く、一時の鬱憤と激情をぶつける為だけに、ミーノ様は戦っておられる。私はあの方に生きて欲しい。生きていれば、もっと、幸せというものを知ることができるのです」

「直接言ってやったらどうだ」

「私の言葉は聞きませぬ」


 弁慶が被りを振る。


「力づくで止めてみろよ」

「力任せの強引な者の言葉など、殊更響かぬでしょう」


 もう知らん、とゼドは肩を竦めた。

 闘士競技は、闘士の誰が生き残るかを賭けるギャンブルだ。しかし、四戦目までの勝ち残り戦には時間制限があり、二人以上がフィールドに残っていた場合、より多くの敵をたおした者が勝ち上がる。以前は、全試合一人になるまで戦わせていたが、長期戦による観戦者の離反を考慮し、廃止されたそうだ。

 生きてミーノを戦線離脱させる為には、彼が準決勝五戦目に勝ち上がるのを阻止する必要がある。つまり四戦目までに、同じ試合内でミーノが殺されないようにしながら、彼より多くの敵を狩れば良い話である。

 ミーノは、青二才にしては腕が立つ。人間だてらに魔物をバッサバッサと斃していくのを見ていると、彼は人間の坊やよりも、よっぽど悪魔の方が適任だと思えてくる。そうして勝手に、ゼドとの試合に駒を進めてくれるのは、大変よろしいことだ。

 毎回ゼドとミーノが同じブロックにいるのは、弁慶が運営側にも手を回しているからだ。この闘士競技、開催しているのは、インフェルノのマフィア、あのアンラファミリーである。


「今回は幾ら積んだ」

「五千」

「向こうも大きく出たな。アンラの奴、味を占めたな」


 弁慶のこういった、ことのほか躊躇なく奸計を巡らすところも、ゼドは気に入っていた。


「仕方ないことです。取引とは、そういうもの」


 そして、案外すっぱりと物事を割り切れるところも。

 この男がどうして、ヘヴンで善人を貫けていたのか気になるところだ。ミーノの為ならばと、一人くらい殺していてもおかしくない。


「長話し過ぎたな」


 アリーナの方が、騒がしい。


「試合の時間だ」


 ゼドはその貧相な包みを仕舞いながら、アリーナへと足を向けた。


「いつもかたじけない。頼みましたぞ」


 頭を下げる弁慶を背に感じる。この小包は、やけに他の代物より重い。

 人間も神も、死ぬ時は死ぬ。時として人は、抗いようのない運命のなみに飲み込まれるものだ。あまりにも容易く、そして呆気なく。




 ***おしらせ

 実は、思い切ってカクヨムコンにエントリーしてみました! きゃー笑笑

 カクヨムを始めて半年過ぎですが、コンテストの仕組みを全然理解してないww 「キャラクター文芸」ってところにエントリーしました! だいぶ下火のこの作品、大丈夫かしら…と心配してますが、更新くらいは頑張ってみようかな!と! できる限り更新しようと思っています。


 よければ、お力をお貸ししていただきたく! 執筆パワー&読者選考突破パワーになるので、応援のほど、よろしくお願いします〜っm(_ _)m

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る