福音 -μ

「身体の不調なぞを、そのままにしておくのは危険じゃないか? 私が解剖して確かめてやるよ」

「お前は単に解剖がしたいだけだろう」

「やだな、純粋なる親切心だよォ……」


 よだれを吸う音がして華佗に顔を向けると、彼女は手の甲で口元を拭っている。人の中身を想像して涎垂すいぜんする妙齢の女なんぞ、最悪である。ましてや解剖によって拝むことのできる臓腑絶景に想いを馳せ、頬を緩ませるなど。

 華佗が笑うと、顔の右側に斜めに走る縫合痕が引き攣れた。彼女の身体はぎだらけだ。古い傷は縫い目も粗い。かつて、自分の身体で実験をした名残だと言う。


「おや、弾丸が入ってるね」


 ピンセットで摘み上げられた弾頭バレットから、濃厚な血がしたたる。その匂いを余すことなく嗅ぐ姿に、流石のゼドも思わず顔を顰めた。


「よく貫通しなかったな。骨に当たって止まっていた。これもお前の特殊な皮膚と神がかった肉体のお陰だろうか。人間の身体に触れているような柔らかさなのに、この強度……うぅん、どうなっているんだ。筋肉量も多い。この小柄な身体のどこに……」

「俺の身体を撫で回すな、気持ち悪い」


 カラン、と弾がトレーの上に落とされた。ゼドは横目でそれを確認する。

 小石の重みにも満たぬこの小さな鉛のつぶては、時に、一瞬で命を奪い去る。その一方で、命を奪う手応えはまるでない。つかう者は、自分が人を殺しているという感覚が薄くなるのだろうか。最期まで屁っ放り腰だった男が、少年の姿をした生き物の胸に向かって、一発撃ち込めるくらいには。


「見かけによらず、頑丈だねェ」


 二十四口径ライフルの、長い銃身バレルを突き付けられた時にはもう、その銃口は火をいていた。


「豆鉄砲で俺は殺せない」

「豆鉄砲って……まあ、神様にとっちゃライフルすらそんなもんなのかね」

「威力が低い銃だった。初速度が速いとは言っても、さして威力は出ない」

「至近距離からの発砲だろう? 射撃残渣しゃげきざんさが皮膚に飛び散っているよ。全く、末恐ろしい奴だな」


 弾丸自体の貫通力は弱く、ゼドの皮膚を突き破った時点である程度勢いが殺され、骨に当たって止まった。

 これは瀕死の人間に撃ち込まれた弾丸ものだ。奴が鎧帷子くさりかたびらを服の下に着込んでいたせいで、一撃ではナイフが肉に到達せず、反撃の隙を与えてしまった。


 傷付いた臓器に聖水をかけて洗い流すと、仄白い煙が上がって、傷は塞がり、元通りになる。


 死を前にした者の悪足掻きは危険だ。『窮寇きゅうこうには追ることなかれ』と、孫子の兵法にも記述がある。追い込まれた者は、何をしでかすか分からないのだ。

 傷はすぐに治癒したが、未だ奥に根深い傷をそこに残しているような感覚がした。死に損ないが放つ一撃ほど、目の覚めるものはない。


体内なかに虫がいるのかもしれんぞ? 最近は寄生虫に興味があってね。色々と文献を漁っているんだ。じわじわとお前をうちから食い破っている可能性も」

「確かに、アミィの三文芝居に腹の虫がおさまる気がしない上に、お前の胸糞悪い笑顔に虫唾が走るが、これもその寄生虫とやらのせいか」

「摘出は任せろ。標本にも熱中しハマっているから、是非ともその虫を展翅てんしさせてくれ。額縁に入れて部屋に飾るんだ」

「おい華佗……ブラックジョークって、知っているか?」

「ん?」


 彼女のくりくりと目を向けられて、ゼドはやり場のない気持ちを、溜息と一緒に吐き出した。


「ゼド、こいつは肝心なところでおつむが足りない頓珍漢とんちんかんなんだ」


 蚩尤が薄笑みを浮かべながら、足元に置いていた大きな革張りのアタッシュケースの錠を外し、中身を広げた。


「お前も仕事だったのか」


 蚩尤が首肯しゅこうした。

 ケースの中には、武器がずらりと並んでいる。武神の彼は、インフェルノの武器職人だ。巌のような巨体で、実に巧緻な作品を作る。斯界しかいの第一人者である彼が作る武器は多岐たきに渡り、どれも非常に優れ物であった。そして、請負った仕事は大小問わず、粛々と、そして完璧にこなす、根っからの技工である。但し、彼が武器を作っている間は一言たりとも話しかけてはならない。寡黙で忍耐強い性格は何処へやら、高温の鋼を叩いていた大槌が顔面目掛けて飛んでくることになる。


「持っていけ」


 赤の指抜き手甲が覆う無骨な手が、数本のナイフを差し出していた。巨体の彼がナイフを持つと、それはとても小さく見える。


「くれるのか」

「何本か折れただろう」

「ああ……助かる」

「弓矢はいるか」

「いや、大丈夫だ」


 ゼドはナイフを受け取ると、その鍛え抜かれた刀身をまじまじと眺めた。何度見ても、美しい。しなやかで折れにくく、頑丈で、何度肉を斬っても切れ味を損なわない。

 今や雀の涙も鉱石が出てこない、掘削され尽くされた鉱山から、彼は様々な石を掘り出した。膨大な時間を費やして試行錯誤を繰り返し、豊かな発想で新しい武器を誕生させた。勿論、インフェルノの者達はこぞってそれを欲しがった。彼同様にその原石を掘り出し、製錬加工する者がいたが、誰も同じものを作り出せはしなかった。彼の武器を盗もうとする者は、彼の手によって一人残らずお陀仏となった。


「なあ、ゼド」

「何だ」


 華佗がゴーグルを持ち上げて、ゼドの上半身を見ている。


「お前の痣、濃くなっているぞ」


 起き上がったゼドは、血が拭き取られ、やっと肌の色を見せた胸部を見下ろした。


「本当だ」


 複雑に絡み付く黒いあやは、墨汁のような薄色から、線の境界線をなぞれる程に濃くなっている。こんなことは初めてだ。

 この痣は、この身に元からあったものではなかった。インフェルノに突如やって来た、ヘヴンの空軍部隊、飛翔隊との交戦時に受けたものだ。

 激しい戦いだった。

 今よりもずっと幼く、毒牙すら生えていなかったゼドは、激しい戦火を前に無力であった。その戦の原因であったにも関わらず。そのゼドを守ろうと、ベルゼブブとイブリースが敵の前に立ち塞がったのだ。獅子奮迅の戦いぶりであった。


 突如勃発した戦争は小規模ながら、インフェルノの大地を地底から揺らし、えぐり、いた。ほどなくして、争いの匂いを嗅ぎつけ、インフェルノの魔物達がこぞって集まりだした。軍にしては小勢こぜいの出動であった為か、オルクスや禍津が様子を窺いに顔を出し、乱闘好きのアンラまでもが腕を回しながら嬉々として姿を現したのを見ると、分が悪いと判断した天使達は一斉に軍を引き始めた。彼らの目的が何であったかは未だ定かではない。ただ、ゼドを狙っていたことだけは確かである。ゼド達はこの戦いで、ベルゼブブを失った。これは、インフェルノに生きる魑魅魍魎にとって、大きな痛手であった。人口、神口共に少ないが、力のある神々が多く、且つ統制の取れたヘヴンと、数は多いが低級魔物の割合が多く、広い大地に野放しにされた烏合うごうしゅうであるインフェルノ。時代が流れるにつれ、インフェルノに流された神は数を増やしていき、いつの日からか、力は拮抗するほどと言われるようになっていた。しかし、これを機に、拮抗していたヘヴンとインフェルノの力バランスが傾いた。そう言っても過言ではない。


 彼らの助力と一神の犠牲により、助けられたゼドも、その身に受けた傷は決して浅いものではなかった。死に至らなかったものの、その代償だと言わんばかりに、肉体に刺青のような痕が残ったのだ。

 ベルゼブブの死をきっかけに、インフェルノの荒廃が加速した。蔓延るは、粗悪な邪気。ひび割れた大地からは僅かな芽しか生えず、大荒れの海は機械の塵を運ぶだけ。嵐は渇いた砂漠を更に干涸ひからびさせ、いかずちに砕かれた山は痩せ衰え、溢流いつりゅうした汚泥が沼を作った。


 くだんの戦争を、後に人はティターン戦争と呼ぶようになった。彼らの衝突により、大地はティターン巨人が揺らしたように大きく揺れ、その跡地は、ティターン巨人が踏み荒らしたように荒寥こうりょうとしたからだ。

 だが、華佗と蚩尤は、この戦争を詳しくは知らない。彼らはインフェルノに来た者の中で、比較的日が浅いからである。


「な、なァ……」


 ゼドの肩を掴み、即座に口を開こうとした華佗に、「しつこい」と一言。先手を打つ。

 扉が二度強く叩かれた。出番だ。


「じゃあな。手当と剣はありがとさん」


 シャツの袖に腕を通し、立ち上がる。


「ゼド! 間違っても殺されないように! 適度に傷付いて来てくれェ! 胃腸が腹から溢れる程度になァ!」


 嬉しくもない華佗の激励を背に、静まり返った廊下を歩く。

 ティターン戦争。胸糞の悪い記憶だ。腐りかけの魔物の肉を口にした時より、後味が悪い。


「よぉ……世界蛇ヨルムンガンド。珍しく試合前から気が立ってんな」


 冷たい廊下に響く足音が次第に緩まっていき、やがてぴたりとんだ。壁に背をもたせ掛け、黒革ズボンのポケットに手を突っ込む、とある男の前でゼドは立ち止まっていた。


「何ダンマリ決め込んでやがる。何か言えよ。ん?」


 挑発的な口調のその男は、上裸に黒の上着を羽織り、いかついガスマスクで鼻と口を覆っていた。紫色の短髪に、黄色と青緑の鋭利なオッドアイ。人間の闘士、ミーノである。


「おい、無視すんな」

「べらべらとよく喋る口だ」

「あ?」


 ゼドはミーノを見上げる。

 この男も、若い身体に無数の創傷そうしょうが走っていた。人間の肉体は脆く、傷つきやすい。一度深く受けた傷は、一生痕として残る。


「喧嘩っ早い単細胞。ものは考えてから口に出さないと、馬鹿に見えるぞ」

「てめぇ……」


 ミーノの顳顬に浮かんだ青筋が、ぴくりと動く。それを見て、ゼドはこの男の性分を思い出す。

 悪魔のアミィにも、引けを取らない精神異常者サイコパス。人間の皮を被った戦闘狂。闘士競技ワルキューレを愛してやまない常連ヘンタイ。さて、どの名で彼を呼ぶべきか。

 不安定にぎらつく非対称の肉眼にくげんが、ゆっくりとかなを描く。


「そう言うおめぇこそ、今日はやたら饒舌だぜ?」






***伏線の手引き


実際、華佗という名医者がいました。三国志を読んだことのある方はご存知かもしれませんね!ちなみに、史実上の華佗は男です。先進的で高い医徳を積みつつも、権力に屈する事を拒んだ事から非業の死を遂げたとされています。また、彼は蛇に似た寄生虫を発見したこともあるそうです。

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