福音 -λ

「何を、したの? ……うっ」


 丸くさらりとした、栗のような髪が乱れるように揺れ、血と苦し紛れの笑みが口からあふれる。溺れるような音が脳内に響いた。

 しかし、ゼドからの返事はなく、代わりに重い拳が腹に叩き込まれただけであった。勿論アミィに対抗する術はなく、彼が壊した側と反対の壁に激突した。


「痛ったーい……」


 肋が何本か折れたようである。折れた先端が、肺を圧迫する。左脚も動かない。

 沁み渡るおそれが、戦闘意欲を駆逐くちくした。

 ぺっと血の混ざった唾を吐くと、アミィは胸に手を当てて、自分の炎で傷口を焼いて止血する。噛み締めた歯の間から、呻き声がれた。


「傑作だな」


 顔を上げると、恐怖ゼドが歩み寄って来る。多くの魔物の睥睨と膨大な邪気を従えて。

 マグマのように湧く怒りという感情が、少年の身体を乗っ取っているようだ。そこに理性が残っているのかは、定かではない。あるいは、こちらが奴の本性か。

 不様に転がった獲物アミィを見据え、どう殺そうかと思考にいそしんでいる彼は、こんな状況下であっても、アミィにとっては眼福であった。四十日しじゅうにちの断食ののち、初めて口にする肉よりも、百倍はうまかろう。


変化へんげ? いや、違うな」


 外見は変わっていない。変化には時間も要する。つまりは、変化ではない。

 鉄と胃液の味のする唇を、アミィはゆっくりと舐める。

 どちらにせよ、このままでは一方的になぶり殺される。そう判断したアミィは右手で降参の意を示した。身体に力を込める。少しでも油断すれば、腑抜ふぬけた悲鳴が口をついて出てしまいそうだ。


「待ってよ、ゼド」


 ゼドの眉がぴくりと動く。何も言わずとも、彼の表情は、問答無用だと語っている。


「棄権するから、殺すのはやめようよ。ね?」

「……殺す」

「だめだよ。僕を殺したら悲しむ女の子がたくさんいるんだ。あっ、ちょ、待ってってば!」


 隙をついたゼドの攻撃。

 次の瞬間には、大きな穴が現れた。

 刃の砕けたナイフの柄を握るゼドは、かがんだ姿勢から立ち上がり、その数メートル先に転がって白旗をあげるアミィを見遣みやる。紅の虹彩に浮かぶ細い瞳孔が、的を絞った。

 アミィは炎による爆発で、自分ごと吹き飛ばし、難を逃れていたようだ。


「ひっどいねえ。ま、十分楽しんだことだし、僕は退散させてもらうよ。……フェニックス!」


 火の粉が散った。

 大きな炎の翼が羽ばたき、炎々とうねる武火ぶかが、見上げた者達を照らし出す。

 火の鳥フェニックス。アミィの飼う大型の鳥だ。

 アミィとフェニックスにより生じた熱風が、競技場を襲い、室温を急激に上昇させた。


「じゃあね、ゼド。またねっ」


 フェニックスはアミィを背に乗せると、飛び去っていってしまった。


 歓声が競り上がる。観客達が、一斉に騒ぎ出した。


 やかましい騒音の中、張り詰めていた邪気がみるみる収縮する。

 ゼドはきびすを返すと、半壊したアリーナから静かに立ち去った。


 闇は薄れ、集っていた蛇はいつの間に、アリーナから姿を消していた。低級の魔物達も、目の色を変えてアミィを敵視していたことすら忘却してしまったかのよう。違和感すら、憶えていないようであった。



 †



華佗かだに、蚩尤しゆう。何をしているんだ、こんなところで」

ゼドD7JorI-rsgrc


 ゼドの控室の前に、背の高い男女が立ち話をしていた。ゼドを見ると、女の方は嬉しそうに顔をほころばせる。

 人を悪趣味な呼称で呼ぶこの女、華佗は、人間の闇医者だ。


「お前を解剖ちりょうしに来たんだよォ!」


 妙に機嫌の良いハスキーボイスがゼドの鼓膜を撫で、鳥肌が立った。思わず立ち止まったゼドは、くるりと身体を来た道に向けるも、背後からもの凄い握力で肩を掴まれる。


「何処に行く?」

「部屋を変えてもらう」

「お前の控室は、ここじゃないか! ほれほれ、インフェルノいちの医者である私が、直々に傷を見てやろう」

「……蚩尤」


 こいつを連れ帰ってくれと、目で訴え掛けるも、蚩尤はその猪首いくびを横に振るだけ。

 華佗は目を爛々と輝かせ、更にゼドに詰め寄る。


「治療のついでと言っちゃあ、何だがな? その、少し、内臓と血液をくれんかね?」

「やる訳がないだろう。帰れ」


 ぴしゃりと言い放ったゼドの腕を、縋りつくように掴み、華佗は往生際悪く懇願する。まるで玩具おもちゃ強請せびる子供のようだ。


「じゃあ、皮膚! 十五センチ四方の皮膚でいいよォ……それか、筋肉の筋を数本! どうだ!?」

「断る。……お前、治療代の代わりに体良く貰おうって、腹づもりだろ」

「もう髪の毛でいいからァ! 細胞組織の一片でもおくれよォ!」


 発狂する華佗が頭を抱えると、白衣の裏側をびっしりと覆うようにげられた、沢山の医療器具が鈍く光った。

 同じような押し問答を延々と繰り広げるゼドと華佗を、通路を通る魔物達がちらちらと盗み見ている。

 円形競技場のアリーナの下には、入り組んだ石の通路と闘士の控え室がある。出番が来るまで、闘士は割り当てられた部屋で各々出番を待つのだ。


「何でだよォ! 何か一つくらい取ったところで、お前の身体は聖水をかければ支障ないだろう! 臓器の一つや二つ、さっさと差し出せよォ!」

「生憎、てめえに身体ん中いじくられて喜ぶ嗜好なんざ、持ち合わせていない」

「そんなァ! 私のモルモット二十三号よ! 私の被検体になるというあの日の誓いを忘れたのかァ!」

「そんな誓い、立てた覚えはない」


 呆れ顔で、ゼドは控え室のドアノブを回す。

 中は非常にシンプルな造りだ。シーツを被せただけのベッド、水道と、曇った鏡。石材を敷いた床は長年浴び続けた血の色に染まってしまっている。


「華佗。今日はお前さんの仕事で来たんだろ。ゼドの手当てだけしてやれ」


 蚩尤の助け舟が入り、やっとのことで華佗の発狂がおさまる。


「無断で切ったら、その首へし折るからな」

「ちぇ、わかったよ」


 焼け焦げたシャツを脱ぎ捨てて、ゼドは寝台の上に横になった。

 ぶつくさ文句を垂れながらも、華佗は手当の支度をする。額に引っ掛けていたゴーグルをずり下げて、鋼の器具を握れば、彼女は途端に医者の顔つきになる。


 インフェルノという荒地でも、強く生きる人間はいる。

 この常に半狂乱状態のイカれ女は、医者として異才を放つも、死体解剖を行ったことが問題視され、罪人として捕らえられたらしい。

 医者としての手腕は確かだが、どれだけの偉勲を立てども、何でもかんでも解剖したがるへきのある女医は、ヘヴンではさぞ悪目立ちしたことだろう。抑え難いというよりは、抑える気のない狂悖のさがにより、永久追放されたのは、当然の流れと言えよう。しかし、華佗はそれを憂うような繊細なハートの持ち主ではなかった。むしろ、実験体だらけのこの土地を、すっかりお気に召しているようである。ヘヴンの奴らに、今の彼女の生き生きとした姿を見せてやりたいくらいだ。


「ところで、さっきのは何だったんだ」

「さっきのって?」


 ゼドはお茶を濁す。

 壁に背を預け、腕を組んで目を瞑る蚩尤も、会話に耳をそばだてている。彼も気になっているようだ。

 うつ伏せのまま、ゼドは無言でシーツに押し付ける側の頬を替えた。


「アミィとの試合だよ。お前、肩も外れてるぞ。どんだけ無茶な戦い方をしたんだ。らしくない」


 華佗に勢い良く肩をめ直されて、壁を向いたゼドの顔が一瞬歪む。


「自分でもわからない」

「どういうことだい」


 華佗はゼドの身体中に走る、三試合分の傷と火傷の痕を消毒し、丁寧に薬を塗る。その上から温めた聖水をゆっくりとかけてやった。


「意識が半分飛んでいた気がする」


 その時の感覚が蘇り、嫌悪感を抱いたゼドは、露骨に声に苛立ちを滲ませた。

 不快だった。何者かが自分の内側に居るような違和感と、あまりにも強烈な開放感。気付いた時にはもう、アミィに拳を振り上げていた。


「力の制御もできなかったのか」


 蚩尤がその重低音の声で、呟くように訊ねた。


「そんな器用なことができる状態じゃなかった」


 地面に大穴を開けるなんて力技、普段のゼドならやらない。お陰で身体の節々が軋むように痛かった。聖水は神の傷を癒すが、体力はすぐに元には戻らないので、休憩時に軽く聖水を飲んですぐに、続けて行われた二、三戦目は、少し気怠い身体を引き摺っての戦いだった。それでも、アミィより強い者はおらず、結果はゼドの一人勝ち。準々決勝へと駒を進めたのであった。






 ***伏線の手引き***


 断食が四十日なのは、この章のタイトルと関係ありますが、まあ、本編には全く関係がございません☆w



 華佗のゼドの呼び方は、実験体マウス等に付ける番号と同様です。但し、実際の付け方と、彼女の付け方は完全に同義とは言えません。(作者は生物系の実験したことないから、突っ込まれたらマジ終わる笑)ゼドの㊙︎が隠れていますが、まあ、ここはどうでもいいので、是非読み飛ばしてください♡


 数字は作出番号。→後に関係するかも♡(命名した華佗がこの数字を振った理由と、作者がこの数字にした理由は別)

 後半の英字は、突然変異又は単離に因る新しい突然変異記号。

 Iは施設記号ラボコード。インフェルノの頭文字。

 関連シークエンスを挟んで、

 rsgrcは劣性対立遺伝子(突然変異)=灰色の髪

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