福音 -κ

 走りがけに、地面に刺さっていた棍棒こんぼう、転がっていた匕首あいくちを拾うと、目にも止まらぬ速さでアミィに向かって投げる。

 炎が絡め取る。

 ゼドが迫る。速い。

 炎の壁が、アミィを守る。

 燃え広がる魔炎まえんよりもはやく。ゼドは駆ける。

 背中のソードホルダーから二双のナイフを握り、仕掛けた。


 移動、攻撃、守備と回避、そしてまた素早く配置換え。繰り返す。

 烈火の間隙かんげきを見極め、腕を鞭のように振るう。炎先ほさきがゼドの腕をいた。

 構わず振り下ろす。


「甘いよ」

「ちっ」


 ブーツの先端から引っ張り出した小さな刃が、アミィの眉間を狙って打ち出される。

 彼は体軸をずらし、回し蹴りを放つ。

 腕で受け止めた。ゼドの顔が歪む。

 飛び退すさる。

 追うように、幾多の火の手がゼドを潰そうと猛威を奮う。

 髪が少し焦げた匂いがした。

 ゼドは追撃をことごとく避け、また距離を取った。勢いを殺した跡が、地面に残る。


「くそ」


 悪態を吐く。

 このままでは傷一つ、つけられやしない。遠距離攻撃という、ゼドにとっては相性の悪い技を使う上に、体格差もある。可愛い顔をしているが、彼もインフェルノの住人。身体も鍛えられている。

 しかし、焦ってはならない。


「ゼド、ほらおーいでっ」


 アミィが腕を広げ、挑発してくる。

 ゼドは静かに息を吸い、肺を空気で満たした。灰を吸わぬよう静かに、そして深く。


 理性というものは、常に必要である。どんな状況下においても、適切な対応を取ることができるからだ。何手も先を読むことは、チェスと同じだ。

 最も素早く敵をたおすには。最も効率的に殺すには。損害を最小限に留めながら、この試合ゲームを終わらせる為には。

 身体に染み込んだ感覚に頼り、何かに突き動かされるまま拳を振るいながら、頭の片隅では常に己の行動を把握する。それが、ゼドの闘いの作法である。


 ベルも常々言っていた。

 狂気に酔え。されど意識を手放してはならない。気を抜けばたちまち心を彼方へと持ち去られ、その瞳は硝子玉がらすだまに。その心は空虚に。その肉体は欲望に操られる傀儡くぐつに成り果てるだろう。そして、君は負ける。間違いなく、ね。


 焔心えんしんに佇む男の、余裕の態度が気に食わない。


 円を描くように、アリーナの縁に沿って走る。ゼドに向かって放たれた灼熱の豪球が、爆煙を上げながら壁にぶつかって、焦げ跡を点々と残した。

 ゼドは振り向かない。ただ走る。

 馬鹿になった気分だ。

 屍の腹部の甲冑を蹴り上げ、肩に引っ掛けた。

 そして更にナイフを取り出す。左右の手に四本ずつ。口にもう一本咥えた。

 ゼドの剥き出しの闘争心に、アミィは笑みを深める。


「そうそう! それだよ! 僕が求めていたのは!」


 ギュンッと、突如ゼドが直角に進行方向を変えた。

 すぐさま炎が何重にも防壁を作った。

 その壁に向かって左右二本ずつ、ナイフを指から放つ。


「くっ」


 ゼドは炎の壁を突き破っていく。反応が一拍遅れたお陰で、咄嗟に作られた出来合いの壁は、まだ厚みも熱さも少ない。

 ウロボロスのゼドの皮膚は人より頑丈だ。多少のことでは痛みすら感じない。

 甲高い金属音が二度鳴った。ナイフが弾かれたようだ。


「あははっ。いいねえ……この猛炎相手に、ここまで僕に肉薄してくる者はほんの一握りだよ」

「そりゃどうも」


 ナイフを突き出す。叩かれる。

 あと三層ほどの壁を隔てて、アミィがそこにいる。

 また、ナイフを弾かれた音が二度鳴る。その隙に、ゼドは拾った斧を投げた。


「わっ」


 槍で斧を退けたアミィは、続けて投擲とうてきしていたナイフの存在には気付き、退しりぞけたものの、更にもう一本、ナイフの影に隠れるように放たれていた、毒針の存在に気付くのが遅れた。

 間一髪で躱されたようだとわかると、ゼドは甲冑を盾に、残りの火の壁の強行突破をはかる。

 破ればそこには、防御する術のない獲物が一匹。槍は近距離戦には不向きときた。

 ゼドはこの好機を見逃さなかった。

 すかさず寸分の狂いもなく、顔面に裏拳を叩き込むと、そのまま攻め立てる。


「うっ……ぐ……」


 突然、アミィが苦しげな声を洩らして、ふらつく。彼の意表を突いた背後からの攻撃が、胸を貫いていた。

 斧と同時に、投擲されていたナイフが、アミィの背向かいに仕掛けられた弩を弾いたのだ。

 ゼドが駆け回ることで、四方八方に放たれたアミィの炎が煙幕代りとなり、撹乱と隠蔽に役立った。これで、彼の力も多少は削がれる。


 大勢の喊声のなか、血泥ちみどろまみれた二人は激しく争った。

 初戦とは思えない、凄まじい迫力。

 高濃度の邪気が彼らを取り巻いた。


 飛び退った瞬間、大きな衝撃が走り、地面がえぐれた。ゼドのいた場所だ。その爪痕を見遣って、ゼドは顔をしかめた。

 様子がおかしい。

 先ほどから、左側ばかり……。


「力の調整ができていない?」


 アミィの炎は威力は絶大で、広い大地を焼き尽くすことができる。しかし、この狭い空間での戦闘には、爆発の威力よりも繊細なコントロールが肝要だ。彼はその技術を完全に会得しているわけではない。


「それにしてもおかしい」


 ゼドは独りごちる。

 致命傷とまではいかないが、向こうは深い傷を負っている。お陰で細かい調節の精度がガクンと下がり、攻撃をまともに食らう確率も減ったが、意図的に操作しなければ、これほどまで偏ることなど──。


「……なるほど」


 合点がいった。ゼドは皮肉的シニカルな微笑をたたえる。


小賢こざかしい野郎だ」


 焼け焦げた床から、依然和やかな態度のアミィに視線を移した。胸に突き刺さった矢を抜くこともなく、彼は小首を傾げる。


「なあに?」

「わざとだな」

「えー? わざとってぇ? 僕なんのことか、分かんなぁい」


 ぼろぼろと崩れた観客席には、外套を被ったシーナの姿。フェンリルが降り注ぐ瓦礫から彼女を守っている。


「ふざけたことしやがって……」

「シェオル草原での仕事ぶり、見たよ」


 ゼドが真顔になる。アミィはにやけ面で、槍を強く押し込んだ。

 恐らく、彼は一部始終を見て、知っている。


「また強くなったね」


 ゼドは目をすがめる。


「何がしたい」

「僕はただ、楽しいことが好きなだけだよ」


 刃が鳴り、二人は互いに距離を取った。

 アリーナの中央で睨み合う形になる。


「あー……ははっ」

「なにがおかしい」

「でもね、ほんと。僕は君に失望したよ、ゼド」


 アミィにとって、強敵と戦うことは、ただの道楽に過ぎない。しかし、彼は自分の為ならば、他人をどうしようが、どんな犠牲が払われようが、取るに足らないことなのだ。


「あのは、お前が構うほどのものじゃない。女にうつつを抜かすのは、まだ早いよ」

「ほざけ」

「ねえ」


 大きな瞳を光らせ、彼は猫撫で声で言う。


「あの子を殺せば、君はもっと本気になる?」


 アミィの手の上で紅蓮の炎の塊が渦巻き、次第に巨大になっていく。

 ゼドの面輪に焦燥が走るのと、それが彼の手から離れたのは、同時だった。


 地面が裂けんばかりの大きな爆発が轟いた。


 噴き上がった爆煙と、舞い散る残灰ざんかいが辺り一体を包み、視界を遮る。

 そして、一時いっときの静寂が訪れた。


「死んじゃった?」


 アミィは炎の吐息で、周囲の灰塵を吹き飛ばす。煙に巻かれたアリーナに佇み、彼は生死の判らぬゼドに問い掛けた。

 瞬間。

 目に見えぬ何か強大な力が、競技場を中心に、インフェルノの大地にはしった。


「え?」


 禍々しい怖気おぞけが足元から這い上がってきた。

 よろめいたアミィは、思わず膝をつきそうになって青褪あおざめる。


「ちょっと、なに?」


 闇で、何かがうごめいている。

 脳の中枢ちゅうすうが痺れ、身体が動かない。

 立ちすくむ。

 呼吸さえままならず、溢れかえる無尽蔵むじんぞうな邪力に圧迫され、アミィは思わず胸を押さえて嘔吐えずいた。


「なにが起こって……?」


 殺気──!?


 アミィが振り返った。が、既に遅い。

 瞳には、残虐非道な表情を浮かべ、ナイフを振りかぶったゼドが映り込んだ。


 この時アミィは悟った。

 これが、真の恐怖だということを。


 わけもわからないまま、身体に刃が食い込んだ。

 口から血を吐き出した。いつの間にか、背後から雁字搦はがいじめにされている。

 意思に反して、ガクンと項垂うなだれたその目先には、矢が抜かれて穴の空いた胸部。血が、止めどなく流れ出てゆく。

 首筋に、冷たいものが触れた。もう指の一本すら動かす力など残っていないと言うのに、アミィの身体は勝手に震えだした。


「ゼ、ド……」


 灰神楽はいかぐらが引いていく。

 それと同時に、そこかしこから、険を孕んだ視線を一身に受けていることに、彼は気付いた。

 蛇だ。くらがりの中に潜んでいた、大量の蛇が腹をって進みながら、チロチロと舌を出している。

 蛇だけでない。競技場にいる全ての低級魔物が、アミィに敵意を向けている。獲物を前にした時の目だ。本能におかされ、我を忘れてぎらつくまなこ

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